5. ささやき、あるいは叫び
俺は飯島ミホを観察することにした。こんな俺を悪趣味とか思う? 俺も思う。
別に弱みを握りたいわけではないが、勢い余って「バンドやろうぜ!」なんて言うような痛いことはできない。これでも多感な高校生なのだ。
たとえば、彼女は左利きだ。ヨウちゃんと同じ。
飾り気のない白いシャープペンシルで几帳面なノートを真面目に取っている。記憶の中では、ヨウちゃんは混沌としたノートなのに成績優秀だったので世の中わからない。
たとえば、彼女は運動ができない。これもヨウちゃんと同じ。
ただ、彼女は体育の授業中常に死ぬほど嫌そうな顔をしている。そんな彼女に反して、ヨウちゃんは体を動かすこと自体は好きだったと記憶している。
たとえば、彼女は友達がいない。これは、正直あんまり関係ないか。
思えばヨウちゃんと同じ学年の先輩にはよくしてもらっていた。人見知りながら、気がおけない友人もいたようで、友人関係は恵まれていたはず。
普通に、彼女は自分から孤立を選んでいるようだった。あまりにもつっけんどんな態度なので、初対面の印象は最悪だし、昔から彼女を知る人は積極的に関わりを持たない。
制服のシャツと濃いネイビーのスカート、真っ黒な癖っ毛と陶器のように白い肌。そのせいでモノクロームな雰囲気の背後から、モヤモヤと黒いオーラが漏れているようだった。
昼休み、コンビニで買ったパン類を機械的に口に運んでいると、向かいの椅子に座ったリョウが弁当を咀嚼しながら俺をからかう。
「なーにヒロト、最近飯島さんにお熱じゃん。俺難しいと思うなー」
「うるへえぶち転がすぞ」
ほーんと、お年頃なんだから! いちいちその程度で勘繰るんじゃねえよ。おファックあそばせだ。大体お前はいつも人のことばかりで、少しは自分のことを心配したらどうだ。無駄にのっぽでバランスが悪いせいで女子から微妙に距離取られてんぞ。見てると不安になるって。
いや、そんなことはどうでもいい。俺は、なんとかあのデモ音源の主が彼女であることを確かめなければいけないのだ。
——確かめてどうするんだ?
おやおや?
ふと疑問が鎌首をもたげた。わざわざ確かめて、裏を取ってバンドに誘うのか?
「あ、めんどくせ。もう直接いくか」
思わず口に出ていた。
「おっおっおっ、動いちゃう?」
「うるせえぶちころころするぞ」
もう訊いちゃえばいいじゃん。なんだかんだ俺もバカだし、回りくどいのメンドクセ。
そう思って左隣を見やれば、やっぱり彼女は教室にいない。まあ、このゆるふわ文系進学・就職混合クラスでは居心地悪いかもしれない。なんとなく「みんな仲良し〜」みたいな雰囲気があって、よく言えば穏やか、悪く言えば馴れ合いみたいな空気がある。
あれだけ尖ってりゃ、こんな空気じゃ虫の居所が悪くなるのもしょうがないかもしれない。ナイス思春期。でももう三年生だからね、そろそろ卒業した方がいいと思う。
俺は新しいパンの封を開けると、必殺チョップを目の前ののっぽの半魚人の頭頂へ叩き込んだ。
「めっ! それは俺の午後のおやつじゃ」
奴はあろうことか帰りに食べる用のコンビニスイーツをパクろうとしていた。悪には鉄槌が下るのだ、覚えておけ。
「グエー死んだンゴ」
リョウは無駄におどけて、舌を出して蛙の潰れたような声を出していた。アホだなあ。
****
その日の放課後、俺はある意味感心していた。
飯島さんすげー片付け早いの。一秒も長くここに止まりたくないというような覚悟を感じる。こりゃ帰宅部のエースですわ。もしかしたら何か部活やってるのかもしれないけどさ。
いや、感心してる場合じゃねえ。彼女は電光石火だ。今を逃しては声をかけるタイミングがない。立ち上がる寸前の彼女に向かって、声は自然と出た。
「あのさ、飯島さんって、ギターやってる?」
あまりにも単刀直入すぎだったろうか。
一瞬の間の後、いつもの冷たい声が返ってきた。
「……関係ない」
否定ではなく拒絶だった。
……辛辣すぎておじさん涙が出ちゃいそう。まあ出さないけど。
「でも右手の爪いつも深爪寸前じゃん」
「キモ。見ないで」
おっおっおっ、何かに目覚めそう。数ミリも視線を合わせないで言い放つ感じ、イイっすね……。
「あー、でもエモとかスクリーモ好きでしょ飯島さん。この前すげーかっこいいの見つけてさ。NO HERE GIRLって言うんだけど」
その時、恐るべき速度で彼女の首が俺を向く。その勢いで流れた前髪の隙間から覗いた、大きな瞳と視線がぶつかった。
俺は、(うわっ、睫毛なっげえ)なんてことを、頭のどこかで思いながら続ける。
「これって飯島さんだよね」
「ちょっ……とこっち来い……!」
言い切るや否や彼女は俺の右手首を掴んで、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
「おわっ」
つられて俺も立ち上がる。彼女の身長は、記憶の中のあいつとさほど変わらない。160センチ前半くらいだろうか。
あっけに取られていると、ズカズカと彼女が早足で歩き出す。
「おっおっおっお……痛で!!」
身をよじった俺は、体を制御しきれずに後ろの机の角に腰をぶつけて、ガタンと大きな音が鳴る。これ地味に痛い。
そんなこと、何処吹く風といった感じで教室を後にしようとする彼女。そんな彼女に連れられた間抜け面の俺に視線が集まる。いやん恥ずかしい。
すっかりニヤケ面が貼り付いてしまったリョウは後で折檻してやろうと決心した。
彼女に拉致られ始まった不思議な行進は、特別教室が集まる通称『特棟』の端、倉庫代わりになっている袋小路で終結した。
そこで、ようやく彼女は俺と向き合った。おもむろに左手で前髪を横に撫で付け、胡乱げな視線を俺に向ける。俺の中で、違和感が大きくなった。
彼女は流した前髪を、サイドの髪と一緒に右耳へかけると、その耳朶に厳しい金属光沢——無数に開けられたピアス——が輝いた。
いやいやお嬢さん、それ校則的にやばいでしょ。一つでもアウトだが、結構な数が開けられている。その中でも一際目立つのは、上部を斜めに貫く棒状のピアスと、耳たぶの拡張されたピアスだ。まだゲージ数こそ小さそうだが、十分向こう側が見えている。わあ、拡張して『おはじき』みたいなのはめてた人思い出しちゃった。
心臓が一つ、大きな音を立てたような気がする。
ヨウちゃんは、ピアスだけは頑なに開けたがらなかった。ピアッサーが怖いという、子供染みた理由だったが、それもまたキャラ付けに都合がいいと笑っていた。
やっぱり、何の関係もないんだろうか。
「それ、学校で言わないで」
彼女の声によって、意識が記憶の中から戻ってくる。
「いや、別に言いふらすわけじゃない……」
「じゃあもう話しかけないでよ。うざい」
なんか腹立つなあ。めんどくせえよお。話しかけるなとか言われるとこっちも意固地になっちゃうぞ。
「『メトロの車窓』の最後、なんでポエトリーリーディングにした? あそこはシンガロングのままフェードアウトのはずだ。それにお得意のビッグマフも踏んでないじゃん」
完全に話の流れを無視して、ずっと気になりまくっていることをぶちまけた。
はじめて直視した、彼女の大きな瞳が二割り増しで見開かれる。吸い込まれそうな黒だ、そう思った瞬間、もとの不機嫌そうな目つきに変わってしまった。色も形も薄い唇が開かれる。
「……宅録でシンガロングには限界があるから」
「わかるわかる。シンガロング一人で重ねても限界があるもん。そこで提案」
そう、提案である。
「じゃあさ、バンドやろうよ。俺、ベースやるから」
「やだ」
おやおやおや? 電光石火の即答だったが、よく聞こえなかったぞ?
「俺、ベース、あなた、ギ」
「やだ」見事なシンコペーション。
「なんで!!」
うっそやろおまえ、今の是が非でも飛びつく流れじゃん。どういうこと?
「私はバンドは組まない。音楽は一人でやる」
どうやら、俺の悪い方の違和感を覚えていたようだ。この子、ヨウちゃんに似ていて、全然似ていない。あいつは、何をするにも周りを巻き込んでいた。人見知りのくせに、人一倍好奇心が強くて、いろんなことに手を出そうとする度に俺を巻き込んで。
それに比べて、なんてこいつはひとりぼっちなんだ。『NO HERE GIRL』なんて自虐的な名前で、一人シコシコ音源作りかよ。気取ったアートワークなんて設定しやがって。
得体の知れない苛立ちが湧き上がった。
「嘘つけ。あの音はバンド前提だろ。ごっこ遊びしてる暇あんのかよボケナス」
無意識のまま言い放った瞬間、俺の向こう脛に衝撃が走った。
「痛あぁぁあい!!」
まさかの必殺ローキックが俺の右足を襲っていた。痛みに反射的に叫んで、膝を抱えて片足立ちになる。文句の一つでも言ってやろうと視線をあげた俺を、ミホは泣きそうな顔で睨みつけていた。
さっと、頭から血の気が引く。いつもこうだ。俺はデリカシーがないとよく言われる。思ったことがポロリと口をつく質で、相手によってはそれが苛立ちの元になり、嫌われる。
だから、なるべく当たり障りのない、定型文で会話を受け流すのが常だった。
——そりゃあ、何か事情があるでしょうよ。
俺の音速の自己嫌悪が終わると、意外なことに彼女は言葉を繋げた。
「うるさいな……こっちだって、わかってんだよ! もう私に関わんな!」
「いや無理。オレ、オマエ、バンド、ヤル」
「……ッ!! 死ね!」
「お試し! お試しだけだから! ね? 先っぽだけ!」
「殺す!!」
****
「やっぱいい声してるよね」
「うるせえ殺すぞ」
ひとしきり言い合うとお互い変に気がそがれてしまい、適当に引っ張り出した廃棄予定の椅子に座った。すると、軽く俯いて椅子に座るミホが、随分と砕けた声音で質問をよこしてきた。
「なんで、私が音楽やってるって気づいたの?」
彼女の視線の先は、己の右手の指先だろうか。しなやかそうな親指が、四本の指先をリズミカルに、滑らかに移動していく。
「始業式にさ、間違って呼んじゃったじゃん」
「うん。アレ何だったの」
「もう会えない親友がいるんだけどさ、そいつにめっちゃ似てて思わず、ね」
「……ごめん」
斜向かいに座る、彼女の声音が曇る。まあ、少し意趣返し的な意図がないわけじゃない。
「そしたらアルジャーノン好きなんでしょ? 俺も好きなんだよね。音楽の好み合うの“初めて”だし、もしかしたら音楽やってないかなって思って」
ヒロトとして、嘘はついていない。
お互いの呼吸の音だけが響き、微妙な空気が生まれる。
しばらく続いた沈黙に、会話の糸口を見つけようと内心焦っていると、彼女が数回、大きめに息を吸い込む音が聞こえた。
「わ、私も、ネット以外で初めてだった……」
「でしょうね」
「なんだとこのやろう」
俺の悪い癖その二。真面目な話ができずにすぐ茶化す。顔を上げた彼女と目があう。未だにキツめの目つきだが、敵意のようなものは先ほどより見えなくなっている。何束か、サイドの髪が耳の前にかかっていた。
「だってさぁ、今ってただでさえバンド人気ないのに、エモ界隈とかニッチすぎっしょ」
少し、空気が軽くなったのをいいことに、話題を広げる。
「しかもあのデモ音源見つけたら、バンドやるしかないっしょ」
そのあと、好きなバンドや音楽について、探りながら会話を続けた。
薄い唇から放たれる単語は、ほとんどあいつの好きなものと一致していた。次第に饒舌になっていく彼女の姿が、懐かしい姿と一瞬交差して、すぐに元どおりになる。
いつの間にか、会話にて俺の占める割合が減ってきた。完全に熱が入っているのか、澄んだ白い頬に赤みがさしている。彼女の口から次々に放り出される単語に、記憶にないものが混ざり始めた時。
どうしようもない、喪失感のようなものが去来した。
「めっちゃ音楽詳しいじゃん。それでも、やっぱバンドは無理?」
無限に続きそうな会話に区切りをつけるため、改めて問いかけた。
「あっ……」
びくりと身構えた彼女は、スローモーションで俯いていく。まるで反省を全身で表現しているようだった。
「ば、バンドについては、考えさせて……」
明確な返答はぼかされたが、さっきまでの全てに刺々しいものは無くなっていた。俺もこれくらいが引き際かと思う。
「何卒、前向きにご検討おねしゃす」
俺は一度大げさに手を合わせ拝むと、ズボンのポケットからスマホを取り出して続ける。
「んじゃさ、ついでにライン教えてよ」
「あ、ごめん、カバンの中だ。……それに、必要があったらクラスのグループから連絡するから」
せやった。今はそういうのがあるんだった。メールアドレスの赤外線交換とか若い子には通用しないんだろうね。今地味に一番ダメージがでかい。
「アッハイ」
勝手にダメージを受けた俺を何か誤解したのか、彼女は立ち上がりながら鼻で小さく笑う。いつのまにか、重たい前髪が瞳を隠していた。
スカートについた埃をパタパタと払う彼女を眺めていると、ふと疑問がこぼれた。
「そういやさ、そのピアス先生は知ってんの? 校則やばくない?」
「…………えぇと……」
「あー、伊藤先生には黙っとくわ」
露骨に青くなる彼女へ、苦笑いをしながら言った。
「体育とかある時は外してるんだけど、油断した」
「そこまで拡張してたら意味なくね?」
「接着剤で塞いでる」
「ワオ」
そういう感じなのね。それでバレないのも不思議だけど。
「黙っててくれると助かる」
「うい」
「ありがと、ショウジくん」
「トウカイリンね」
また、彼女が青くなる。こうしてみると意外に表情豊かなのかもしれない。
「ご、ごめん」
「これ、一つ借りね」
俺は、片眉を上げて軽く非難の視線を送った。そして、前向きに考えてくれと片手を上げ、足取り重く去っていく彼女を見送った。
一人分の呼吸の音だけが、埃っぽいどん詰まりに響いている。
なぜ、あれほどの剣幕でバンドについて断られたのは謎だが、希望の持てる展開になってきた。そうガタつく椅子の上で思った。
ふと、教室を出るときに掴まれた手首を眺めた。
幼馴染で、大親友によく似た彼女の、細い指が重なって見える気がする。
その指は、確実に、女性のそれだった。
近づいたと思えば、遠くなっていく。
なぜ、俺はこんなにもあいつの影を追いかけているんだろう。
「しょうがねえよなぁ。憧れなんだよ、あんたは」
この世界で、その憧れの正体を掴むことは叶わないと、頭の隅ではわかっていた。それでも、なんとか踠いていたいと思う。
それに、あの曲は本来『俺たち』で作った曲だ。なぜ彼女がそれを知っているのか。釈然としないものを抱えながら、俺も椅子から立ち上がった。