4. おまえは誰だ?
最悪だ。
新学年二日目からマスク姿の登校である。それもこれも、昨日のカラオケが原因だ。いや、カラオケで張り切りすぎたのが敗因か。鍛えもしてない喉で好き放題すれば、二日三日声が出なくなって当たり前だ。ちゃんと鍛えたボーカリストでも故障はつきものなのだ、反省しよう。
しかも、もはや隠しきれない音楽への渇望のせいで、非常に寝つきが悪かった。最悪だ。ようやく眠りが俺を迎えに来たのは、街が動き出す午前四時前頃だった。圧倒的に睡眠時間が足りない。クソネミ状態で登校するなんて随分と久しぶりだった。
「うーす」
沈んだ気持ちでたどり着いた教室で、ニタニタと笑うリョウと挨拶を交わす。俺はほとんど声を出せないので、片手を軽くあげて返すと、特に仲良くもないクラスメイトが「風邪?」などと詮索してきた。
「違う違う、こいつカラオケで喉潰しただけだから」
案外こういう時、こいつは茶化さずにフォローを入れてくれる。風邪は感染るが、カラオケで自滅するバカは感染んねえもんな。そこは大事だ。
俺も自嘲気味に笑いながら席につくと、のっぽのリョウが机の前にやって来た。威圧感がすげえ。
「いやあ、昨日はいいもん見れたわ」
うるせー、ほっとけ。昨日はついカッとなってやったんだ。今は反省してますぅ。珍しく俺がしおらしくしていると、心配に思う良心はあるのか、少し屈みこんで様子を窺ってきた。
「マジで声出せない感じ?」
「……実際ヤバい」
俺がなんとかスッカスカの声で返事をすると、やつはギョロ目を細め、鼻で笑うと自分の座席へ戻っていった。……哀れみのつもりなんだろうか、非常に不愉快である。
大きくあついため息を吐くと、デイパックの中身を机に移し始める。今日から通常授業だと思うと、気だるさが倍になった。残念ながら、俺の前世は高校時代の勉強の内容をほとんど記憶していない。こういう時だけ役立たずなのだ、このポンコツめ。
そして、例の飯島さんは、ギリギリ予鈴前に教室に滑り込んできた。昨日の今日なので、彼女を見る目は若干冷ややかで、雑談の中に批難の声が混ざる。いや、別にお前らが遅刻寸前なわけじゃないんだからよくね? 個人の裁量だろ。
そんな空気も何処吹く風と、真っ直ぐに座席に着く彼女を横目で見ると、昨日は気づかなかったが、前髪で隠れた目元に濃いクマができていた。
寝不足だろうか?
****
何はともあれ、音楽に触れていなければ気が済まない状態になってしまった。バイトも予備校も交友関係も何もない俺は、愛車のジャガーちゃんを駆り帰宅した。直帰RTAでいい感じの成績残せたんじゃね? などとほくそ笑みながら、自室で制服から部屋着のジャージに着替える。
いつのまにか鼻歌を歌ってしまっていたが、喉の調子が悪すぎてメロディーに聴こえない。死にたくなった。
気を取り直し、自室を出てリビングに向かう。母はパートで夕方まで不在なので、家には俺しかいない。よってタブレットも使い放題だ。
俺はペットボトルの炭酸水とポテチをテーブルに放ると、家族共用のタブレットを抱えてソファで横になる。肘掛にクッションを咬まして、頭の角度を調整すると、両耳に突っ込んだイヤフォンの端子をタブレットに差し込んだ。
今週末、久しぶりにライブハウスでも行こうと思ったのだ。この衝動も、でかい音を浴びれば少しはマシになるはず。まあ、悪化する可能性もあるが、じっとしていられないのが正直なところだった。
炭酸水のボトルを開封し、唇を湿らすと、タブレットのブラウザを起動させた。リンゴマークのタブレットはストレスなく動作し、次の操作を待つ。
俺は検索エンジンが位置情報を取得していることを確認すると、検索欄へライブハウスと入力した。すると、あっという間に現在地を中心としたライブハウスの情報が表示される。あとは、それぞれのウェブサイトに飛んで、スケジュールを確認するだけだ。
**
ダメダメじゃーん。どこも大したイベントやってねえじゃーん。
高校生イベントにオールナイトのクラブイベント、地元大学の貸切ライブにビジュアル系オンリーイベント。あとは普通のブッキングイベントで、興味をそそられる演目は見つからなかった。生殺しである。
しょうがない。趣旨を変えて、動画サイトや父が契約しているサブスクサービスで新しいバンドを掘ろう。とりあえず、定番だったりお気に入りのバンド・アーティストはライブラリに登録した。行くぜー超掘るぜー。
あれこれ探し回り、いくつかのバンドをチェックして実感したことがある。
俺の耳、解像度低すぎ……。
イヤフォンが適当な安物だというのもあるが、音の聞き分けが全くできない。
死にたくなった……。絶望である。
いや、まだ焦るタイミングじゃない。再生機器のイコライジングとかあるし、何よりこの耳も一切鍛えていない。ちゃんと意識して鍛えれば、無問題ヨ……。
音楽の道は地道である、改めてそう噛み締めた。
「くそー。今からギター始めて、どこまでいけっかな……」
タブレットを胸の上に落とし、悲しくなるくらい掠れた声で独り言ちる。バンドはやりたいが、今生ではリコーダーやピアニカくらいしか楽器経験がない。今の俺に、どれだけギターが弾けるか、未知数だった。
ぼんやりと、左手の指先を眺める。
フニフニと柔らかい、普通の——素人の——指。
この指先が押弦の痛みを感じなくなるまで、どれくらいかかるだろうか。焦燥感が胸に満ちた。
持ち上げて、顔の前に掲げた左腕から力を抜く。支えを失った腕はぼとりといったふうに、ソファの座面から滑りおちた。
大きく息を吸い込んで、閉じた唇を吐く息でこじ開け、震えさせる。ステージに立つ前によくやっていた、歌の準備運動のようなものだ。一息分、しっかり最後まで吐き切ると、気を取り直してタブレットを持ち上げた。
前世の俺が死んでから、どんなバンドが出てきたのか調べよう。まあ、どんな流行りだろうと、やりたいスタイルは決まっているが、インプットは大切だ。アンテナを張って困ることはないだろう。俺はまたいくつかのキーワードを検索欄に入力していった。
「んもう! なんでもかんでもエモいとか言いやがって! ファック!」
違うんだよ俺が聴きたいのはこんな日本の伝統芸能みたいなギターロックじゃないんだよ。「エモ」のキーワードに釣られて聴いてみれば、どいつもこいつもクッサい歌モノじゃねえか。そういうのも嫌いじゃないけど、まるでカレーが食べたい時にハヤシライス出された気分だよ。憤りがすごい。
そんな時だった。検索結果の何ページ目かも覚えていない。特に期待せずリンクを開いた先、バンドキャンプの一ページにそれはあった。
フィルムカメラで撮影したような質感の、コスモスの花が一輪写ったアートワーク。どうやら、デモ音源らしい。アーティスト名はアルファベットでNO HERE GIRLとある。出身地は日本と、最小限の情報しか乗っていない。登録されたタグには、emo, midwest-emo, screamo等、期待を煽るようなキーワードが踊っている。
ダウンロードのリンクには、Name your priceの文字。実にDIYの精神を感じた。
「これは良きですねえ、期待できますよ」
思わぬ邂逅に、最高に気持ち悪い感想が口をついた。
まだ音源の再生もしてないのにな。
まあ、聴いてみればわかるだろうと、二曲入りのデモ音源の再生ボタンをタップした。
若干のノイズのあと、軽く歪んだギターとドラムが同時に曲を奏で始めた。どうやらドラムは打ち込みらしい。ドッタン、ドタンとバスとスネアが交互に叩かれる、高揚感のあるフレージングだ。そんなに高価ではなさそうな音源だが、細やかなベロシティーの調節やスネアのフラムがいい味を出している。
それに比べて、ギターはかなり追い込んでいる印象だ。変則チューニングだろう立体的でトゥインクリーなリフは、勢いと複雑さを両立している。コードストロークとタッピングを繰り返す、なかなかにテクニカルだが軽さもある。CSTVTのようながむしゃらな感じもあって、自然と頭と指先でリズムを取ってしまう。
今最も求めていた音像に、口角が上がるのを感じた。いいですよーエモですよー。さあ、どう来る?
そして、ブレイク。
爆発のようなアンサンブルと、耳をつんざくシャウトに、胸を突き刺された。
——ヘソを曲げた少女が、泣き出す寸前のような声だった。
頭の中に拳を突っ込まれて、滅茶苦茶にされるような。血液が沸騰して、身体中の細胞が燃え出すような。腹の底がメルトダウンを起こすような、こえ。
息もできない間に、一曲が終わった。
続けて、二曲目の再生が始まる。
『メトロの車窓』
そう曲名欄に表示されていた。
タブレットを持つ手に汗が滲んで、両目の焦点が合わなくなる。
「っこれ! このイントロ!?」
喉の痛みも忘れて、叫んでいた。腹筋の力だけで上半身を起こして、意味もなく顔面にタブレットを近付け睨みつける。口内に広がる血の味。
この曲名は知らないが! このコード進行に、リフ! あいつの作った曲!!
歌が始まれば、歌詞こそ違えどメロディーも、シャウトの位置も全て同じ。
完全に、俺らの曲と一致している。
気がつけば、全身から脂汗を吹き出し硬直していた。ゆっくり、一定のペースで進むシークバーだけが、曲が佳境に入るのを告げていた。
そうだ。ここから一度ベース一本になって、じわじわと盛り上げていく。そして、最後はシンガロングパートだ。ステージで拳を振り上げるヨウちゃんの姿が蘇る。そう、ここから——。
『真っ暗だ まえも、うしろも 真っ暗だ 全部、全部』
俺の確信とは裏腹に、響いたのは囁きだった。
全てを諦めたような、氷のように冷たいその声は、記憶に新しい。
それは飯島ミホの声だった。
その日、俺は確信した。確実に、ヨウちゃんとミホには、何かしらの関係がある。そうでなければ、あの曲が存在するはずがない。
何度聞き返しても同じだった。フレーズに滲み出る手癖も、ギターの音色も、歌い方の癖も。彼女は、まさにあいつの生まれ変わりだった。
SGタイプの煌びやかかつ若干鼻の詰まったような音くらい聞き分けられる。ここぞという時に使うビッグマフの音も全部だ。
俺が、全部諦めて、何もしてこなかった間も、あいつはギターを弾き続けていたんだ。そう思うと、手が震えた。凝り固まっていた全身から力が抜けて、ただただ惚ける。
「なんだよ、なんなんだよ……」
うわごとを繰り返す。なんで今更という怒りと、もしかしたらという喜びと期待。
「もう一度、やれるかな……」
俺も、そこに混ぜてくれよ。その音に。
最短距離でバンドを目指そう。そう決意した。