衣犬
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
そろそろ、あっちゃこっちゃのお店で、秋冬物の服がシェアを広げてくる頃だねえ。まだ暑い日の方が多いとはいえ、またいつだかの年みたいに、急に寒い日がやって来るかもしれない。先手、先手で動いていかないとね。
じきに冷房もお役御免となるだろうけど、こいつらとまた顔を付き合わせるのって、およそ半年くらい経たないと、だよねえ。同じ家の中にいる存在なのに、付き合う時期と付き合わない時期が極端に別れてしまう。この接し方がもし人間関係だったら、なかなか闇が深そうな気がしないかい?
どうやら昔にも、僕と似たような考えを持つ人がいたみたいでね、とある地域の、少し面白い風習の話を仕入れることができたんだ。その話、君も聞いてみないかい?
山間部に位置するその村では、衣替えの時期がはっきりと半年で区切られていた。旧暦の4月1日と10月1日と定められ、これは平安時代からの伝統に基づいたものだとか。
こうして取り換えた服に関しては、期間中、いかに暑い日や寒い日が訪れようとも、引っ張り出して着なおすことは認められなかった。各々の気概や過ごし方によって、補うよりなかったという。
なぜなら、衣替えをする理由が、寝かせている服を神様に着てもらうという意味合いがあったためだ。神霊のいる幽世の世界は、我々が住む現世とは、すべてがあべこべの世界だと、その村では信じられていた。
こちらが暑ければ向こうは寒く、こちらが寒ければ向こうは暑い。相互に、適した衣類を用いているはずであり、太古に双方の間で取り決めた衣替えの時以外で、安易に服を取り出してはならない。それはこちらの世界で、出し抜けに着衣を奪う、盗人のごとき行いなのだと、村の中で伝わっていたそうなんだ。
しかしある時、禁を破る者が現れてしまった。冬に向けての衣替えが行われて、半年が過ぎた頃、その子は身体がだるく、熱っぽさを帯びていた。
その村で冬に着用が許されるのは、動物の革を用いて作られた、手足を広く覆うものに限られる。時季外れの暑さも相まって、彼はとても外を歩ける状態ではなかった。家の中でも子供が服を脱ぐのは着替えと行水をする時と限られ、当時、使える水も多くはなかったこともあって、10日に1度、行うことができれば良い方だったという。
服を替えても暑さをたぎらせるものしかなく、次に行水ができるのは3日後。家の中で寝かせてもらい、しばらくごろごろしていた子供だが、ついに耐えきれなくなった。
――こちらが今、これだけ暑いのであれば、向こうはきっとかなりの寒さのはず。その冷気のおこぼれに預かれさえすればいい。
そう考えた彼は、家の隅の押し入れへふらふらと近づいていく。中にはつづらに入った、夏物の服がしまってあるはず。その封を解いてやろうと思ったんだ。
手近にあったひとつを、引きずりながら取り出す彼。その蓋の下には、つい先日まで自分たち家族が着ていた、小袖が入っている。
開けた当初、彼はいささか失望した。期待していたような冷気が漂ってくることはなく、代わりに中で籠っていた熱気が、「むわっ」と顔面を撫でていったからだ。
――なんだ、てっきりあべこべな世界に住む者が使っているって話だったのに、ちっとも冷たくなってない。実際のところ、神様なんていないんじゃないかなあ。
そう思いつつ、畳んでしまっている服の中から自分の分を広げてみる子供。その生地のどれもまた、まったく冷たさを感じるものではなかった。落胆の色を隠せず、されども今よりも少しは楽になるかと、その子が自分の服を脱ぎかけたところで、母親がひょっこり家へ戻ってきた。
蓋を開けられたつづら。取り出された小袖。そして自分のまとう服を、脱がんとして肩を出している我が子。何を行おうとしているかは、一目瞭然だった。
母親は飛ぶように近づいてくると、有無をいわせずに我が子を張り倒し、その手から小袖を奪ってしまう。叩かれた頬を押さえて、泣く寸前と思われるその顔を、思い切りにらみつけて「袖は通していないだろうね?」と、念を押す母親。
子供がうん、うんとひたすらうなずくと、取り出された小袖はそのままに、つづらに蓋をして、押し入れの中へしまいなおす。そして服と我が子をそれぞれわしづかみにすると、足早に村長宅へ向かったんだ。
一部始終を聞いた村長は、自分の妻に、家の裏手にある犬小屋から、犬を一匹連れてくるように言いつけた。
犬小屋といっても、村長個人の持ち物ではなく、村全体で共有している施設だ。中では、村人全員のおよそ3倍にも及ぶ数の犬が飼育されていたという。世話をするための犬番を、村の大人たちが交代で務め、散歩や狩りへの同行も行っていたのだが、この村では他にも重要な役目を帯びている。
この村では衣替えの日が近づいてくると、村人の各々がこれから着る予定の服を、まずは犬に着せて歩かせるんだ。当然、大きさなどは全然合っていないものだから、着るというよりも乗っかっている。歩くさまは、まとっているというよりも、引きずっていると表現した方がふさわしかった。
その格好のまま村内を練り歩き、一周をしてきてから初めて、個々人が身に着けることを許される。そのまま着始めてしまうほどの犬好きな者もいたが、たいていは一度水を通し、乾かしてから身に着けるようにしている。
やがて一匹の犬が、村長たちの前へ連れてこられる。小屋の中でも指折りの老犬で、まるまる太っており、茶色かった毛の中へいくらか白髪が目立ち始めている。
村長は犬と、子供の母親から預かった小袖を並べて目の前に置くと、手を合わせてしばし黙とう。その後で小袖を取ると、きちんと後ろ脚と尻をつけて座っている犬に向かい合う。「許せよ」と一言つぶやいて、ぱっと背中へ小袖をかけた。
すると、急に犬が吠え声をあげたかと思うと、ばたりと横へ倒れた。だが、その状況を見て、驚きの声をあげるのは子供だけ。母親も村長夫妻も、顔色を変えずにじっと犬が苦しむさまを見守っている。
犬の身体を覆って、なおあまりある小袖。大いに広がっていたその生地が、ひとりでに閉じていき、犬の身体を包んでいく。ギリギリ肉の締め付けられる音がはっきりと聞こえ、犬はもう暴れることすら叶わず、口から泡を吹くばかり。
ひとりでに巻きつき、締め上げていく小袖の強さはなおも増していく。それは犬に目だった抵抗が見られなくなった後も続き、ついに息すらしなくなって少し経ってから、ようやく拘束はほどかれた。
犬は助からなかった。前脚、後ろ脚がおかしな方向へ曲がっており、その最期がいかに苦しいものであったかを物語っている。息を呑み、言葉を口にできない子供の前で、村長は犬を弔う指示を淡々と出す。
妻が犬を抱えて去っていくと、村長は子供に向き直った。
「この村の服を、神々はいたく気に入っておる。中には、いきなり人が身にまとうのを、良く思わない者が、混じるかもしれないのだ。
だから我々の身を守るために、犬を間に挟む。たたりに対する緩衝、とでも言おうか。
特にこたびの時期を破った着用、間一髪だったな。もし袖を通しておれば、今ごろ、土の下で横たわるのは、あの犬ではなくお前になっていただろう」