二人きりの部室
文化部部室棟。その中の二部屋が写真部の部室だ。ひとつは暗室。ひとつは撮影ブース兼ぐだり場所。そのぐだり場には少し皮の破れたソファーがある。そして、給湯スペース。歴代の写真部員が自分達の過ごしやすいように改造されていった。だからだろう。この上なく過ごしやすい。カーテンは開けず、日光の差さない薄暗い部屋に私と魚谷は来ていた。
私はマグカップにコーヒーの粉を入れると、給湯ポットから熱いお湯を注ぎ込む。ただの白いマグカップの中身が、焦げ茶の液体で埋まった。コーヒーの華やかで少しツンと鋭利な薫りが部屋に充満する。
「水泳部の部室とは違うでしょ?」
私はそう言いながら、ソファに座る魚谷の目の前にマグカップを置いた。その隣には、スティックシュガーとポーションミルク。それと、鈍く光る銀色の小さなスプーン。
「文化部の部室は、色々使い勝手がいいように改造されてく。部室での活動がメインだから。美術部なんかは美術室をよく使っててね。部室は基本的に物置状態。漫画研究部はたくさんの机が並んでて、演劇部はパソコンと大量の段ボール、あと劇で使う小物なんかがところせましと置かれているんだよ」
私はソファに座らずに、コーヒーの中にスティックシュガーとポーションミルクを入れて、ゴミ箱に捨てるとスプーンでぐるぐると回して遊ぶ。魚谷は何も入れず、一口だけコーヒーを飲んだ。
「写真部はね、たまにお客さんが来ることがあるんだ。誰かの撮影の被写体なんだけど。その人たちをリラックスさせるために、コーヒーや紅茶、お菓子を出すってわけ。まー、くつろぐにはいいところだよねえ」
魚谷は一回だけ頷くとまたコーヒーを口に入れた。喫茶店の店長の息子はブラックコーヒーがお好みらしい。目を細めて、一口飲んだ後に鼻から息を出している。香りを楽しんでいるのだろうか?
「コーヒー、好きなの?」
魚谷は私を見て、微笑みながら頷いた。そして、手招きしている。不自然に空いた魚谷の隣のスペース。隣に座れということだろう。だけれど、私はなんとなく隣に座る気にはなれなかった。単なる私の気まぐれなのだが、気分でないことはあまりしたくない。
「今はいいかな。また今度」
適当な言葉で返す。すると魚谷は少しもの悲しそうな目をして、コーヒーを眺め出した。そんな様子を見ていると、なんだか魚谷に対して申し訳なくなってくる。
「はあ……。よいしょ」
わかりやすく悄気る魚谷の姿に私はなんだか耐えられなくなり、魚谷の隣に座った。魚谷の表情が、パアッと花開くように明るくなる。
「これでいい?」
魚谷は大きく頷いた。そして、携帯に文字を打ち込み始める。
『才川さんは、写真部が好き?』
「好きだよ。ほら、時間はずっと過ぎていくじゃない?その瞬間をずっと残していけるから。もっと前から始めればよかったなって、今は思ってる」
私はそういうと少しぬるくなったコーヒーを一口だけ飲む。
ブーッ!
『前は陸上をしてたんだよね?』
「うん。中学生の時はね。魚谷くんは、ずっと水泳をやってきたの?」
『うん、小さいときからずっと。泳ぐのが好きなんだ。小さいときはイルカになりたいってみんなに言いふらしてたらしいんだよ』
言いふらしてた。前は、よく喋る子だったんだろう。何が彼から言葉を奪ったのか。私にはわからない。でも、今の彼の表情は穏やかだ。
「イルカかあ。らぐーんの看板に描いてある絵。あれはイルカでしょ?魚谷くんが描いたの?」
『うん!よくわかったね』
「なんとなくだよ、なんとなく。ふぁーあ……」
思わずあくびをしてしまった。朝があまりにも早かったからか、寝不足らしい。心なしか瞼に鉛でも入っているかのような重さを感じる。
「今日は、授業中に寝ちゃうかもなあ……」
『眠いの?今朝は早起きだったもんね』
「うん。悪いね、こんな時間に呼び出して。魚谷くんは眠くないの?」
『いつもこの時間から朝練とかしてるから、そこまで眠くないよ。才川さん寝ててもいいよ。時間になったら起こすから』
「……じゃあ、お言葉に甘えて。おやすみ」
私は瞼の重さに任せて目を閉じる。少し大きな手で頭を撫でられる温かな感覚が遠くに感じる。意識が途絶えそうになったときに、おやすみ、と聞こえたような気がした。