写真撮影、一眼レフで撮るか、スマホで撮るか
午前6時。部活動、特に運動部が部活の準備を始める時間。私は、その時間に自分の教室にいた。
別に教室で一夜を明かしたわけでも、悪い人に誘拐されてきたわけでもなく、自分の意志で誰もいないこの空間に来ている。首から下げた一眼レフがずんと重い。そのカメラを両手で持って、黒板を撮る。すごく綺麗に拭かれた黒板でもなく、少し白く雲のように掠れたチョークの汚れが残る黒板だ。
この一枚に意味はない。試し撮り。自分の感覚を呼び覚ますための儀式だ。所謂、ジンクスみたいな、願掛けみたいな、そんな感じの一種。
撮った写真は、輪郭を失った黒板。……撮影をする感覚がおかしくなっているようだ。
多分、これから撮る写真に期待を寄せているから。緊張しているから。
約束の時間はもう過ぎているが、被写体が教室に来ない。しかしながら、近くに気配を感じた。被写体もまた緊張しているのだろう。だから、入ってこれない。
それもそうだ。今まで、こんなことをやったことがないのだろうから。
「魚谷くーん、入ってきて平気だよー」
すると、すぐにガラッと教室のドアが開いた。ドアの前でずっとスタンバイしていたのだろう。魚谷が教室に姿を表した。その表情は無に近いが、この静かな教室に心臓が脈打つ音が微かながら聞こえていた。まるで、診察前の子どもの患者だ。
「まさか白石が被写体をお願いしていたとは思わなかったなあ……。ま、少しおしゃべりでもしようか」
魚谷は教室の入り口で頷く。
「入っておいでって。取って食べたりしないから」
魚谷がゆっくりとその足を前に動かす。右手と右足が同時に出ている。ここまで典型的なのは、初めて見た。魚谷がようやく、私の目の前までくると、その場でへたれこんでしまった。
「大丈夫?」
魚谷は首を少しだけ縦に動かす。
「今回の撮影で、顔は写さないようにするから大丈夫」
まだ、動きが表情が固い。そんなに撮影時間が取れるわけではないから、このままだと困る。今回だって、本来開いてないはずの教室をこっそり開けて使っているのだし。旧校舎とかいう存在があればよかったのだけれど……。
「わかった、魚谷くん。少し外を見ながら話そうか」
私は窓際に移動し、思いっきりその窓を開け放った。ひんやりと冷えた風が、教室に吹き込む。教室内に滞った埃臭く古くなった空気が、爽やかな空気へと変わる。朝、という時間にぴったりの空気だ。
「うん!これぞ朝って感じの風だね」
魚谷が私の右隣に来て、共に外を眺める。気持ち良さそうに、遠くを眺めている。その横顔は儚く、指先で触れただけで壊れてしまいそうな雰囲気を醸し出していた。
私はその顔を、パシャリとデータに記憶させる。
反射的だった。反射の後に、撮らなきゃいけないという意識がやってくる。すでに撮った後だというのにだ。切れ長の目の中に、空が写っていた。
美しかった。
魚谷は驚いて、視線をカメラに向ける。
「え…………?」
「ごめん、思わず反射的に撮っちゃった。それぐらい綺麗な画だったんだよ。見たい?」
魚谷は首を横に振って、見たくないことを私に伝えた。
撮った写真は、魚谷の顔がしっかり入り込んでいる。顔を写さないと言った手前、この写真はコンテストには出せない。魚谷は自分の携帯に視線を動かし、指先で操り始めた。
「そっかー。今のはコンテストには出さないから安心して。誰にも見せるつもりもないし」
スマホが揺れた。魚谷からの言葉が、私のところに届いたのだろう。
『もし、その写真を使ったら、コンテストで優勝を狙えそうなの?』
もし、この写真を使ったら。それは、あの横顔を公衆の面前で晒すということだ。
美しさの価値観は、人によって違う。透き通った黄緑の葉が美しく、未来を詠う人もいれば、赤や黄色に色を変え、その生を終えた葉が美しく思い、生の儚さを詠う人もいる。
とどのつまり、何を言いたいかというと。私がいくら魚谷の横顔が美しいと思っても、他の人がそれを美しいと思うかは謎なのだ。私が魚谷と関わりを持っているからこそ、美しいと感じることができたのかもしれない。
他の人は、「魚谷」という人物を知らない。知っていても無口で、無愛想なクール系イケメン。別名、人魚王子。私とて、魚谷のことをよく知らないのだから、尚更だ。
「優勝できるかはわからない。私は審査員じゃないし。…………ただ、もっと綺麗な写真を撮れるかもって思うんだ。だから、この写真はコンテストには出さないことにする」
そう告げると、魚谷は少しだけホッとしたような顔をした。どうやら、私のことを気遣っての言葉だったらしい。
それに、やってみたい撮影シーンが頭に浮かんだ。その場で考えた言葉が、私の想像を掻き立てた。魚谷の魅力は、ここにはない。魚谷が一番美しく輝ける場所は、きっとここじゃない。
「今日は、これでおしまいにしよう。今ので、もっと素敵なことを思い付いたんだ」
魚谷が私の顔を見ると、少し微笑んだ。ホッとしているらしい。表情筋の緊張がなくなっている。
「写真を撮られるのは苦手?」
魚谷は眉尻を下げて頷く。
「私も苦手だなあ。撮られるより撮る方だからさ」
ブーッ。スマホが震える。両手で携帯を持っている魚谷が、餌を目の前にした犬のような爛々とした目で私を見ていた。表情がコロコロ変わりすぎだと思う。
『才川さんの写真を撮ってみたい』
「え?」
ブーッ。
『ダメ?』
「ダメではないけど……。どうして?」
ブーッ。
『才川さん』
「こっ、ち、むい、て」
魚谷のところどころ詰まった声。私は驚いて魚谷の顔を見た。魚谷が笑っている。その刹那。
ピヨッ!
…ピヨッ?
「ふふっ」
小鳥の鳴き声がした後、魚谷が画面を見て喜びを漏らしてから携帯の画面を私の方に向ける。そこに写っているのは荒い画質で輪郭がガタガタになった驚いている私の顔。
「と、撮ったの!?」
魚谷はその写真が写った携帯を大事そうに両手で持っている。その顔は、満開の笑みだ。
やり返してやろう。
「魚谷くん!」
魚谷が驚いた顔をして、危うく携帯を落としそうになる。私は魚谷の腕引っ張る。魚谷の体がこっちに来ると、私は左手を魚谷の腰に回した。
私はスマホをカメラモードにして、カメラを内側に設定する。
「はい、スマホを見て!!」
魚谷は言われるがままに私のスマホを見る。両手で携帯を大事に持ったままだ。
カシャ!!
驚いた魚谷の顔、少ししか笑ってない私の顔。二人の顔がスマホの画面に写っている。
「やってやったりー!」
「っ!!」
魚谷は顔を真っ赤にして私を見ている。
「うん!しっかり撮れてる!じゃあこれを、現像して魚谷くんにあげよう!携帯だと、トリミングしなきゃいけないし、画像が荒くなっちゃうんだよー」
「ありがと?」
「いえいえ」
魚谷は照れながら笑っている。私は一眼レフを専用のケースに入れて片付ける。
時刻は6時20分。そろそろ、顧問をしている先生達がやって来る時間だ。
「魚谷くん!そろそろここから出ないとだよ!勝手に教室開けちゃったから怒られちゃう!」
「!!?」
「先に出て!」
魚谷はわけがわからないという顔をして、教室を後にする。私はドアの鍵を閉めて、廊下側の壁の下に着いた小さな扉から這い出る。魚谷が私の目の前に手を差し伸べてくれた。私はその手に引かれてズルズルと腹で床を掃除しながら廊下に出る。
「さて、と。次はね写真部の部室に避難!写真部の部室の鍵は私が昨日のうちに借りてるから、のんびりできるよ。朝は誰も部室に来ないし」
私はスタスタと歩き始める。魚谷は置いていかれないように、私の背中を追いかけるように歩き出した。