思ったよりも大切
私は急いで振り返る。そこには、目出し帽に、黒いパーカーの男がマスターに包丁を突き付けていた。店内の空気が、張り付く。
「強盗……」
魚谷が席から立ち上がって、カウンターの方に駆け出そうとする。私は勢いよく飛び出した魚谷を両手で通せんぼした。止まれない魚谷が私に突っ込む。
魚谷に押し倒される形で私は魚谷を抱き止めた。
「落ち着きなって魚谷くん……、あたたた……。強盗の目的は金だよ。下手に抵抗しなきゃ、傷害事件にはならない。ここは金を払うのが得策なんだ」
魚谷が暴れる。私から逃れようと必死にもがく。……魚谷にとってこの店は特別なんだろうか。
「金を出せェッ!!」
「ふん、お前にやる金なんざないわ」
マスターは抵抗をしてしまっている。強盗犯の罵声、要求の声が大きくなる。このままじゃいけない。マスターが刺される。
「わかったよ、魚谷くん」
もがいていた魚谷の体がピタッと止まった。私は手を離す。
「ただ、藪から棒に動いたって被害が増すだけだよ。落ち着いて。…………あと、いつまでこうしてるつもり?」
魚谷は顔を真っ赤にしながら起き上がった。バッと私から飛び退くと、両腕で顔を隠した。
「……魚谷くんが突っ込んでくるから悪いんだからね!?」
私は靴と靴下を脱いでから、テーブルの上に乗る。そして、静かに息を吐いた。心拍数を整える。
「魚谷くんは私が合図したら、グラスを思いっきりテーブルに叩き落として。大丈夫、グラスを割ったくらいじゃ弁償にはならないから」
私はテーブルとテーブルをひょいひょいと渡り歩く。ひんやりとした感覚が足を伝う。強盗に近付くにつれて、嫌でも心拍数が上がる。
「出せっつってんだろッ!死にてえのかァッ!?ア?」
「死ぬ気はねぇし、金も渡さねえ。この金は、息子の進学費なんだよ」
「死ねッ!」
強盗犯がマスターに向かって包丁を振りかざす。
「今だよ!」
私たちが座っていたテーブルから、ガシャーン!とグラスが粉々に割れる音がした。強盗犯の動きが止まる。そして、またガラスが割れる音がする。今度はもっと大きな音だ。
「ちっ、誰だァッ!!?邪魔するやつから殺す!!」
私はテーブルの下に慌てて潜る。マスターから離れた男は、魚谷のいるテーブル席に向かっていく。ふと見えた目は、かなり血走っている。
「よくやったよ、魚谷くん!」
私はテーブルの下から出ると、男の背中を思いっきり蹴り飛ばした。男はバランスを崩し、床に倒れる。転んだ拍子に包丁が床を転がっていった。相手に武器はない。
「ってぇな!!この糞野郎!!」
男は立ち上がると、私に向かって拳を振り上げる。
「足ががら空きだよ!」
私は男の足を掬う。バランスを崩した男は再び転ぶ。さっきとは違い、仰向けに転んだ男の股間に自分の足を置く。嫌に柔らかい感触。素足では少々気持ちが悪い。次の瞬間、私の体が宙を舞った。腹部に痛さを感じる。それと同時に吐き気を催した。鳩尾を蹴られた。酸っぱくてドロリとしたものが、私の口から出る。口の中に吐瀉物が残る。
「女のくせに、生意気なんだよ……。女はいつもそうだ!馬鹿にしやがって!!」
踏ん張って立ち上がろうとする私の胸ぐらを男が掴んだ。私が男の顔面目掛けて、口の残して置いた吐瀉物を吐き出す。
「ったくさ、ここ何日で、私は何回リバースすりゃあいいのさ!私はゲロインじゃないんだっての!!」
男が目出し帽を慌てて脱ぎ捨てる。私の口の中が胃酸でピリリと痛む。
私はその男の顔に見覚えがあった。…………この顔にピンときたら、110番!のポスターだった気がする。109番だっけ?
110でも、109でも、なんでいいわ!!
私は仕返しと言わんばかりに、男の腹部に蹴りを入れた。男も私と同じく、吐瀉物を口から吐き出す。
「はぁ……。口の中いったいわ…………」
吐いたときにかなり体力を使ってしまったのか、私はその場にへたれこんだ。足に力が入らない。そして、未だに警察は110番と109番のどちらだったのかモヤモヤとしている。
「疲れたぁ……」
カフェにいた人が、男の腕を縛っている。魚谷が慌てて私のところへ駆けつける。その手は、血で真っ赤だった。ガラスが刺さっている場所もある。
その手で魚谷は私の体を支えた。
「窓ガラスを割ったの?」
魚谷が頷く。窓ガラスを素手で割る馬鹿がどこにいるんだか。そんな手で、私の体を支えるものだから、ワイシャツの白が赤く染まっていく。めでたくない紅白だ。
「はは、馬鹿だなあ。それじゃあ、泳ぎ辛くなっちゃうでしょうよ」
「…………馬鹿っ」
魚谷が私を抱き締める。ん?今、しゃべった?
「う、魚谷くん?」
肩が温かい水滴で濡れる。魚谷は泣いている?嗚咽を漏らしているように聞こえる。私を抱く腕に力が籠り始めたのが感じられる。
「馬鹿っ!……馬鹿ぁ」
泣きながら、抱き締めながら、馬鹿馬鹿と声を発している。今まで話さなかったくせに、ダムが決壊したかのように言葉が溢れ出している。
「はいはい、私は馬鹿ですよぉ」
「自分の、ことっ、大事に、ひぐっ。……して、よぉ……。……ぐすっ」
口ごもりながら、嗚咽に混じりながら。魚谷は一つ一つの音を発していく。優しい声だ。なんで喋らなくなったのか、私にはわからなくなった。
「…………この店、魚谷くんにとって特別な店だったんでしょ?例えばさ、マスターが魚谷くんのお父さんだったり」
「そのお父さんが、息子が女の子をぎゅっと抱き締めてるのを見ちゃったりなあ」
マスターの声が聞こえる。魚谷から泣き声が止んだ。…………マジか。マジでその展開か。
「どうも魚谷拓人の父、魚谷勲でーす」
にんまりと笑って私たちを見つめている、カフェ「らぐーん」のマスター。この男が魚谷の父だなんて。コップに水を注いで持ってきていた。
「拓人ー。来てたなら言えよー。彼女さんにサービスしてやるのにさほら、彼女さん。水飲みな。口ン中不味いだろ?」
魚谷が固まって動かない。私を抱き締めたまま、気絶しているんではないだろうか?私は水を受け取って少しだけ口に含む。少しだけ口の中の不味さが緩和される。
「魚谷くんのお父さん。私は彼女じゃないですよ。魚谷くんにお願いがあって、ここで待ち合わせしたんです」
「ふうん。ま、いいや。名前は?」
「才川早苗……」
「早苗ちゃん、ホント助かった。いやあ、強盗に金を渡しちまったほうが穏便に済むのは良くわかってんだけどさ。意地張っちまったんだよ。そのせいで早苗ちゃんに怪我させちまったな。…………本当にすまなかった」
マスターが土下座をする。
「ど、土下座なんていいですよ!ほら、今は犯人を引き渡すのが先でしょ!?」
「そ、そうだな……。治療費、払うからな」
「大丈夫ですって!」
ふと、私を抱き締める腕から力が抜けていることを感じ取る。私は恐る恐る、魚谷の顔を見た。白目をむいて眠っている。
「……魚谷くんのお父さん」
「ん?」
「この人、私を抱き締めたまま、気絶してまーす」
「は?」
魚谷は深い眠りに落ちたかのように、動かない。
「早苗ちゃん」
マスターが私の頭に、大きな手を置く。
「……息子の言う通りなんだぞ?自分を大事にしろよ」
「…………」
「じゃあ、言い方を変えるか。早苗ちゃんは、早苗ちゃんが思ったよりも大切にされてるんだぞ?それを裏切るな。……少なくとも、早苗ちゃんの為に泣く馬鹿息子がいるし」
「……そう」
マスターは私の頭を撫でていた手を退けると、魚谷の頭をひっぱたいた。魚谷が頭を押さえて涙目でマスターを睨む。
「お前が狸寝入りしてんのはバレバレなんだよ」
魚谷がまた私をぎゅうっと抱き締める。私はぬいぐるみか何かか?
「ほら、拓人。ちょっとは早苗ちゃんを休ませてやれ。早苗ちゃんはお前のぬいぐるみじゃねーんだからよ」
魚谷が慌てて私を離す。私は離された勢いで、床に倒れる。それで魚谷はさらに慌てる。
「拓人、慌てすぎだ。ソファ席で休ませてやれ。どーせ、今日は店仕舞いだし」
魚谷が私を抱き上げる。そして、近くのソファに私を寝かせた。そのとき、彼はボソッと私の目を見ながら呟くように言った。
「ありが、と」
彼の顔は夕日に照らされて、ほんの少し赤かった。私は蹴られたお腹をさする。割と痛む。自分のことを大事に、か。……他人に泣かれるのは嫌だから、もう少し自分を大事にしてみようと思わなくもなくなくない。
「どーいたしまして」
夕日が目に刺さって辛くて、私はソファの背もたれに顔を埋めた。