らぐーん
『放課後、話があるんだ。カフェ「らぐーん」に来てほしい。』
そんなメールが私の携帯に届いていた。WRITEがあるこの世の中で、メールを送ってくる人物は一人だけだ。
そのメールの後に、WRITEも入っていた。
『少なくとも、告白じゃないから安心して逝ってこい』
幼馴染みからだった。正直幼馴染みのWRITEは必要ない。そして、ウザい。
カフェ「らぐーん」は四丁目にある。堂和町四丁目。そこは音義高校最寄り駅、堂和駅の目の前だ。放課後になれば、駅前のカラオケボックスや有名チェーンのカフェ、ゲームセンターに高校生達が集まって遊んでいる。駅の隣にはショッピングセンターがあり、女子高生たちが服を眺めている。
ところが、カフェ「らぐーん」は繁華街から少し外れたところにある。辺りは静かで、たまに散歩中の犬同士が吠えあっていたり、買い物帰りの主婦の声がしたりする。私自身、こんな場所があることは知らなかった。夕陽の中に写る街並みは、ありきたりだが、どこか美しく感じた。
今度、カメラに収めたいと思った。今度はカメラも持っていこう。
カフェ「らぐーん」は、2階建ての住宅の1階部分を改築して作られたカフェだ。看板にはひらがなで「らぐーん」の文字と、細長い謎の生物が描かれている。細長い丸に三角が丸の上にちょこんと丸にくっついて描かれている。……いるか?しかも、幼稚園に通っている年齢くらいの子が描いたような拙さと可愛らしさだ。
私はカフェの扉を引き開けた。からんからんと乾いたベルの音とふわりと薫る紅茶の匂いがすると、私の親と同じくらいであろう、40代後半くらいの男性が「いらっしゃい」と呟いた。
店内を見渡す。声を出さない彼を見つけるには、こっちが探すしかないのだ。勉強中の大学生の男と、パソコンのキーパットを叩くハイテクおじいさん。楽しそうに世間話をするおばさん。どこにも、魚谷の姿はない。
「あの、男子高校生は来てませんか?」
私はカウンターの男に話し掛けた。マスターというやつだろうか?マスターは首をかしげた。ここにはいないのだろうか?
「うん?なんだい?」
聞いてなかったようだ。店員のはずなのに、適当だ。駅前の店舗だったら、まず食い逃げされそうな店員だ。
鞄の中でブーッというバイブ音が響いた。振動が体に伝わる。
『一番奥のテーブル席だよ』
カウンターの横の通路を覗き込むと、手を挙げている誰かがいた。私はスタスタとその席に向かう。その人物は、私をここに呼び出した張本人だ。
どんどんと進んでいくと、魚谷の笑顔が見えた。なんでこんなにも嬉しそうなんだ。飼い主が帰ってきたときの犬のようにも見える。
「待たせちゃった?」
魚谷は首を横に振った。そして、メールを打つ。
『待ってないよ』
まだ何も頼んでいないようだ。空になったお冷やのグラスだけがテーブルに置かれていた。待っていなかった。ちょうど来たところ。という訳ではないことが私にもわかる。そして、言葉を発することない彼が何も頼まないこともわかった。
「とりあえず、何か飲もうよ」
私はメニューを魚谷に手渡す。魚谷は食い入るようにメニューを眺める。よっぽど喉が渇いているらしい。私はアイスティーでいいや、だなんて考えていると、魚谷がメニューを私に渡した。
私はもうメニューは決まっている。ただ、ふと目に入ったある言葉に意識が持っていかれた。
「イルカパフェ?」
らぐーん。つまりはラグーン。これは潟や礁湖のような浅い湖、巨大な水溜まりのような地形を差す言葉だ。なのに、イルカ。イルカは海に存在しているはずなのに。
『ここのイルカパフェ、美味しいよ』
「食べたことあるんだ?」
魚谷は頷いた。メニューに写真は付いていない。文字列と数字だけだ。白と黒のメニュー表。
「じゃあ、注文するけどいい?」
魚谷は頷いた。魚谷はまだかまだかと目を輝かせている。一昨日までは冷たい視線を人に浴びせてきたというのに、よくもまあ、そんな目をできたもんだ。
「すみませーん」
私は少し声を張って店員を呼ぶ。
『ここの席、たまに忘れられるんだ』
なんでそんな席を選んだんだこの人。声を発することなんてしないくせに。通りで反応がないわけだ。私はもう一度、さっきよりも大きな声で店員を呼ぶ。
すると、メモパットを持った女の子がペタペタと音を立てて走ってきた。
「申し訳ございません!お待たせいたしました!ご注文をお伺いします」
「イルカパフェ1つ、アイスティー1つ。魚谷くんは?」
魚谷は1つずつ指で指していく。それを店員が確認しながらメモに暗号を書いていった。
「ご注文を確認いたします。イルカパフェ1つ、アイスティー1つ、ショートケーキ1つ、アップルティー1つ。以上でよろしいですか?」
「はい」
「ご注文ありがとうございます。失礼いたします」
店員は丁寧にお辞儀をすると、カウンターの方へペタペタと走っていった。私は意味もなく店員の後ろ姿を眺めた。後ろでひとつに束ねたポニーテールが左右に揺れている。歳も私たちと対して変わらないだろう。
「今日は部活は無しなんだ」
『オフシーズン。やることといっても、走るか筋トレだけだから』
私たちの会話はテンポが遅い。私の返事は30秒から1分後。
「そうなんだ。水泳部って夏しか泳げないから大変そう」
魚谷が携帯のボタンをカチカチと鳴らす。私はその間は言葉を止めて、魚谷の携帯をみつめる。
『そんなことないよ。市民プールが室内プールだから、そこで練習したりしてる。才川さんは、どんな写真を撮ってるの?』
「私がいつも撮っているのは、風景の写真だよ。道端の花や木の枝に止まった鳥とか」
魚谷は携帯に向き合い始める。それを私が止めた。携帯を持つ魚谷の手首を握る。魚谷は驚いた顔で私の手を見た。
「ねえ、私に話があるんでしょ?その話をしよう?」
魚谷の手首を離す。握ったところが、少し赤くなっていた。力を入れてしまっていたらしい。
「アイスティーとアップルティーです」
さっきの女の子が紅茶の入ったグラスを2つ、テーブルに置いた。グラスに水滴がついている。ガムシロップが一個ずつ。アップルティーのグラスの中には、薄切りのリンゴが入っていた。
「あの……」
女の子が私に話し掛ける。少しオドオドしている。
「……?」
「あ、あの……伏木中の陸上部の才川さんですよね?」
陸上部。私が中学生のときに入っていた部活だ。そのことを知っているのは、中学の人間だけ。もちろん、白石も知っている。高校は中学の人間がいないところを選んで入った。だから、本当に部活のことを知っているのは中学校の人間だけだ。この人も、そうなんだろう。
「よく、知ってるね」
「はい!憧れてたんです」
憧れ。私は憧れられるような人間ではない。そんないい人間ではない。
「そうなんだ。ありがとう」
今、私はどんな顔をしている?しっかり笑えているだろうか?
「高校では続けられているんですか?」
「やってないよ、足を壊してしまって。残念だけど、……辞めちゃった」
足なんか壊してない。だけど、もう私が走ることはないだろう。それに、今は写真部にやりがいを感じている。それだけで十分だ。
「そうだったんですか……。なんか、すみません」
「謝らなくていいよ。ほら、仕事に戻らないと、ね?」
「は、はい!」
パタパタと女の子は去っていく。さて、魚谷はこの話を聞いて何を思っているだろうか?
「……中学の時は陸上部だったんだ。色々あったんだよ」
魚谷が同情しているかのように、哀れんだように私を見た。その目で見るのは、やめてほしい。そんな目で見るな。
「話を変えよう!うん!そうしよう!」
私はアイスティーにガムシロップを注ぐ。アイスティーに波状の模様が浮き出て、消える。
「そもそも、私は魚谷くんの話を聞きに来たんだ。私に何の話があったの?」
私は言葉の後にアイスティーを飲む。底に溜まったガムシロップが甘い。魚谷は携帯に向き合う。
『才川にお願いがあるんだ』
「叶えられることだったら考えるけど、絶対叶えてあげられるわけじゃないよ。魔法のランプの魔人でもないわけだし」
『俺は話せないんだ。昔にいろいろあって、声を出せないんだ。でも、昨日、声が出せた。本当に少しだけなんだけど』
声を出せない。昔にいろいろあって。……心の病気なのだろう。昔のことが今に影響している。そう考えるのが普通だ。
『きっと、才川さんとメールをするようになったからだと思う。俺は才川さんと話してみたい』
「ふふ、告白みたいだよ?……私は、魚谷くんが思うような人間じゃないよ。魚谷くんは、私のことを聖人のように思っているかもしれないけど……そんな人間じゃないんだよ」
魚谷が私の目を見る。力強く、意思のある目をしている。
「……それでも、魚谷くんが良いというなら手伝うよ」
魚谷の目が輝く。そして、口をごもごもと動かし始めた。
魚谷の口が開く。魚谷が何か話す。
「お待たせしましたー!イルカパフェとショートケーキです!」
明るく元気な声。そして、テーブルに青いゼリーと星形のゼリー、イルカの形のクッキーが入ったパフェと大きめのイチゴが乗ったショートケーキが置かれる。置いたのは、さっきの女の子だ。伏木中に通っていたと思われる女の子。
「以上でよろしいでしょうか!」
「……あ、はい」
伝票を置いてパタパタと去っていく。
「はは、邪魔されちゃったね」
魚谷がやる気が無さそうにうつ伏せになっている。ブー垂れている。
「まあまあ、食べようか」
私はパフェにスプーンを突っ込む。そして、口に運んだ。ひんやりとしたバニラアイス。そして、ソーダ味のソース。美味しい。魚谷はショートケーキの鋭利なところにフォークを刺した。少し乱暴に口に運ぶ。
「ははっ、魚谷くんって結構表情豊かだよね」
魚谷が自分の顔を触る。
「んふっ、そんなに触らなくてもいいじゃない?」
ブーッ!ブーッ!と机が震える。
『俺、そんなに表情豊か?』
「学校にいるときの魚谷くんって、どこか冷めきってるもの。つまんなそうに、興味無さそうに周りを見てる。てっきり、人間になんて興味がないんだと思ったぐらい」
魚谷が少し怪訝そうな顔つきになる。そして、カコカコと今までで一番速く、携帯のボタンを押した。直ぐにバイブ音が響く。
『才川さんだって、つまんなそうにしてる』
私も、か。
「そうだね。実際、そんなに面白くないよ。学校なんて。通わなきゃいけないから通ってるだけ。唯一の楽しみは写真部の活動くらいだよ。それは、魚谷くんもそうでしょ?」
魚谷が目を見開いて、私の後ろを指差していた。口をパクパクとさせている。
その時、店内に悲鳴が響いた。