保健室にて
保健室は消毒液と湿布、その他諸々の薬の臭いがしている。清潔感溢れる室内の薬品棚は割とごちゃっとしている。
私はソファに腰かけて、麦茶を飲んでいた。嘔吐した魚谷は隣に座っている。時たま私の顔をチラッと見ては眉をひそめて申し訳なさそうにする。
「進級式早々、まさか保健室利用があるなんてね」
看護教諭、看田は麦茶が入ったグラス片手に紙袋と黒いビニールを組み合わせた簡易エチケット袋を魚谷の目の前に置く。
「なんか、すみません……」
「いいのよ」
看田先生は自分の机に座る。魚谷は一口麦茶を飲んだ。
「魚谷くん」
魚谷の体がピクッと動く。先生でもダメなようだ。
「進級式だから、私がいないと思って保健室に来れなかった?」
魚谷がゆっくりと頷く。
「こんな時でもね、私はここにいるのよ。そのための看護教諭なんだからね」
魚谷がまた頷いた。話さない代わりに、相槌を打つ。話さないというより、話せないのだろう。もし仮に看護教諭と話せたとしても、私がいるから話せないとか。
「魚谷くん、私、邪魔なら帰るよ。担任……誰かはわからないけど、適当に伝えとくから」
「いや、才川さんはここにいて。私、これから放送室に行かないといけないの。校長先生のお話が長かったせいで放送で担任発表。ここ最近、いつもこれなのよ」
看田先生は首を掻く。掻いた跡が赤く残る。
「すぐに戻るけど、何かあったら放送室に来て。その間魚谷くんをお願いね」
看田先生はそれだけ言い残すと保健室から出ていった。
この部屋には私と魚谷が取り残されている。
「……ちょっと離れようか?」
私は魚谷の隣から退こうとしてソファから立ち上がる。魚谷が私を見上げる。魚谷の麦茶のグラスはとっくに空になっていた。
「麦茶、入れてあげる」
私は魚谷の目の前からグラスを取ると、冷蔵庫へ向かった。その間に魚谷が紙とペンで何か書き始めた。カリカリと紙を削るような音がする。
「何を書いてるの?」
こぽこぽと麦茶をグラスに注いで魚谷のところに戻る。魚谷が自分の向かい側にメモを置く。
「はあ、ここに座れとな。ほい、麦茶」
私は魚谷の真向かいに座る。目の前に置かれたメモに目を通す。
「ごめんなさい……?何を謝る必要があったの?」
魚谷が私からパッとメモを奪い取って、ガリガリと書き足す。
「つられて吐いたのは仕方ないことだし、そそくさと教室から出ていったのも、吐きそうだったからでしょ?体育館であったときには、既に1回は吐いてた。……教室で私を見ていたのは、そういう意味だったんだと、私は思ってるよ」
魚谷は頷いている。私の予測はあらかた合っているようだ。魚谷は更にメモに書き足す。
「さいかわさんは、やさしい……?優しいのとは違うと思うけど。ただ、目の前で吐かれて、はいじゃあ、ガンバー。って魚谷くんを放置するのも何か違うでしょ?私は普通のことをしただけだよ」
魚谷は更に言葉を文字にしていく。……もしかしたら、本当は色んなことを話したいのかもしれない。
「ねえ、魚谷くん」
魚谷は書いていた手をピタッと止めた。書きすぎたというようにアワアワとし始める。
「書くのも疲れるでしょ?WRITEやってる?」
魚谷は首を横に振る。そして、ポケットから携帯電話を出した。今時珍しいガラパゴスケータイ。使える機能はメールだけだろう。
「わかった。メアドを教えればいいね。そのメモ、貸して」
私は魚谷からメモを受け取るとスラスラと自分のメアドを書いていく。チラリと目を魚谷にやると、魚谷は涙目をしていた。顔が火照っている。
「魚谷くん、熱あるんじゃない?」
私はメアドを書き込んだメモを渡してから、手を魚谷のおでこにつける。魚谷がまたビクッと体を震わせる。とてつもなく熱い。高熱が出ている。
「うわ、やばいじゃん……。魚谷くん、ベッドで寝てな」
魚谷が立ち上がる。少しふらついているようだ。それでも、なんとかベッドまでたどり着く。そして、勢いよくベッドに倒れ込んだ。
ピンポンパンポーン、という聞きなれた音が部屋中に響く。どうやら放送が始まったらしい。
「~~~っ!?」
魚谷の方は頭を打ったらしく、頭を押さえて足をバタバタ動かしている。
「ふふっ、ドジだなあ。今、ひんやりシート持ってきてあげるから寝てて」
私は冷蔵庫からひんやりシートを1枚取り出す。透明のフィルムから冷たいのが伝わってくる。
2年生の担任から発表されていく。だけど、私も魚谷も放送なんて聞いていない。
「はい、冷たいけど我慢ね」
私は魚谷のおでこにシートを貼り付ける。魚谷は目をギュッと瞑って冷たさに耐えている。私は魚谷に掛け布団を掛ける。魚谷はすぐに携帯のボタンをカコカコと鳴らして文字を入力し始める。
私のスマートフォンが震える。着信、1件。見知らぬメールアドレスから。
『才川さん、教室に戻らなくて平気? 魚谷』
「余計な心配しなくていいよ。私も吐いてるんだし、サボりにはならないでしょ?」
またカコカコと音を鳴らす。そして、すぐにメールが届いた。
『ならいいんだけど……。俺なんかと一緒にいたら、他の人に噂されるんじゃない?』
「はあ…………。どーして、人の心配ばっかりするのよ。今は自分の体調を心配しなよ。私は大丈夫だから」
さっき聞いた声が聞こえる。看田先生の声だ。結局、自分のクラスの担任はわからず仕舞いだ。
「魚谷くん、私たちのクラスの担任って誰だろう?」
カコカコ。
『中田?』
「やだ、ありえない。担任が中田先生だったら、私は学校行きたくなくなるなあ。サボっちゃおっかなあ」
魚谷がクスクス笑っている。そして、またカコカコと打ち込んだ。
『才川さんって、意外と不真面目なんだね』
「余計なお世話だっつーの」
私はベッドの脇に置いてあった椅子に腰掛けた。魚谷が潤んだ瞳で私を見つめる。小動物のような瞳だ。
「さ、少し寝てなよ」
私は大きくあくびをする。魚谷が少しだけ微笑んだ。なんだ。笑えるのか。
魚谷はどうやら感情が豊かなようだ。さっきからころころと表情を変えている。
ヴーッ!と私のスマホが揺れた。私はスマホを見る。案の定、魚谷からのメールだった。
『今日はごめんなさい。俺の体調管理が至らないせいで、面倒を掛けさせちゃって。でも、助かったよ。ありがとう。また、こうやってメールしてくれると嬉しい』
魚谷は不安そうに私を見つめている。どことなく、怒られたときの犬のような顔をしていた。
「私でよければ、いくらでもメールするよ。いいから、寝てなっての」
魚谷はニコリと笑うと、そのまま寝てしまった。携帯電話も開きっぱなしだ。私はそっと携帯を閉じてあげる。無機質な機械が温かい。人の温もりがある。
ふと、人の気配を感じ振り向く。カーテンの向こう側には人影。誰かがいるようだ。
「先生……?」
「……あら、終わった?」
「寝ちゃいました」
「あら、賢者タイム?」
私はカーテンを鷲掴みにして乱暴に開ける。
「違うわ!!珍しく、大人しいと思ったら!やっぱり変態か!!」
看田先生がニヤニヤしながら笑っている。
「だって、保健室で男女二人きりって言ったら!セック」
「やめてよ!!未成年相手に、何言ってるのさ!」
「ははは!」
看田先生は短く笑った後、全ての表情をニュートラルに戻して真顔になる。三白眼というのだろう。小さな黒目が私を見る。睨まれている、そんな気分だ。
「魚谷くんが、誰かを半径1メートル以内に入れたことがないんだよ。才川さん。魚谷くんと何があった?保健室に来る前に」
「吐きました」
看田先生がはあ?と呟く。
「二人で仲良く嘔吐しました」
魚谷はスヤスヤと寝息を立てて眠っている。看田先生は言葉を詰まらせていた。というより、コメントが出てこないのだろう。
「と、とにもかくにも、彼が今唯一心を許そうとしているのがあなたなの。……だから、魚谷くんの力になってあげて」
「嫌です」
私はきっぱりと断る。他人の世話なんかしたくはない。
「私は彼とメル友になっただけです。じゃ、荷物持ってきまーす」
私は看田先生の隣を通り抜けて保健室のドアに向かう。看田先生は振り返りもせずに、小さくため息をついた。
「魚谷くんのもよろしく」