ここが、私たちの世界
慶子にとっては働く場。
利用者にとっては生活の場。
ここが、私たちにとって一番楽しいと思える場所にしたい。
豊治は、65才で現役を引退するまで、計算機の会社で工場長をしていた。喜寿を迎える年に脳梗塞を発症し九死に一生を得たが、脳梗塞による軽度の認知症を発症し、自宅で療養していた。しかし、排泄面で妻信子への介護負担が大きくフラワーフィールドカンパニーに入所した。
豊治が入所して二日目の夜,慶子は夜勤に当たった。おむつ交換や記録がひと段落し、慶子は懐中電灯を持って22時の巡視で居室を回った。豊治のいる2号室のドアを開けると、誰かが入り口付近の洗面台の前に座っていた。懐中電灯で照らすと豊治であった。夜はオムツをつけ、歩き回らないはずの豊治であったが尿意を感じてトイレへ行こうとしたのであろう。慶子は同僚を呼び、一緒に痛みやけががないかを確認した。痛み、外傷なし。体温36度5分。血圧、上143下72。脈70。血中酸素濃度98パーセント。血圧がやや高めだがバイタルは正常。
翌朝、慶子が書いた事故報告書を見て主任が聞いた。
「前田さんは、何時に寝たの?」
「6時半には居室にお連れしていました。すでにオムツがつけてあって。」
どこの施設も効率を重視して、利用者を一律に早く寝かせたりする。慶子の施設もまた同じである。しかし、入居始めの利用者はケアスタッフコーナーで夜遅くまで見守りして観察するようになっていた。それを、先輩が気を利かせて早く寝かせたのである。それに甘えて、豊治の行動を予測できなかったのは慶子の落ち度である。
・・・わたしが、ちゃんと前田さんのことに気をつければ、前田さんが歩こうとするところに気がついたのに。・・・
と、自分を責めた。
それからというもの、豊治は眠くなるまで職員の近くで過ごし、22時の巡視の前にオムツを着け休むようになった。ケアスタッフコーナーの前にあるテレビで、野球を観るのが好きで、ホークスが勝ったときには涙を流したりする。そして、そのほかのときにも涙を流し、何もしていないときにも涙を流して口をゆがめて泣き出す。
・・・前田さんはなぜ悲しいのだろうか・・・
慶子はそう考えるようになった。
昼休み、慶子は先輩の藤瀬さんと話をしていた。藤瀬さんに尋ねる。
「前田さんは、何をしたら泣かずにすむのでしょうか?ご家族にもっと会いたいのでしょうか?この前、アイススケートのテレビを見ていたら、泣かれたのでご家族の思い出があるのかと聞いたら頷かれたので。」
藤瀬さんは答える。
「確かに前田さんにはご家族がいるけど。そこには戻れないの。前田さんもそれはわかっているし。他の利用者もご家族の事を思っていても会えない。利用者の楠本さんは会えない息子さんは社長になって忙しいんだ。頑張っているんだ。という話が本人の中で出来てる。そして、ここが前田さんや楠本さんの世界になる。前田さんは、今は、奥さんとアイススケートをするよりもきっと木下さんと楽しいことをしたいはず。木下さんとアイススケートをする夢を見たいはず。家族を忘れてしまうぐらいここを楽しくすればいいのよ。」
この言葉はこれからの慶子の、利用者との関わり方に大きな影響を与えた。
午後から、慶子は利用者の方々と壁面画づくりをしている。慶子は図案のお話を利用者に説明する。
「ここで、豊治さんが歯医者さんをしてまおの歯磨きをしています。サクラさんは看護師の役。私はまおを押さえてます。」
まおとは、フラワーフィールドカンパニーで飼っているトイプードルという種類の犬である。トイプードルといっても、白や黒の毛が混ざり雑種といって良いかもしれない。ペットショップで売れ残った仔犬を施設長がアニマルセラピーのためにもらってきたのである。
壁面に貼る大きな絵を貼り絵しながら、慶子と利用者は楽しい夢を描いていった。
壁面画の製作が終わる頃、豊治の妻信子が訪れた。信子はお土産のヨーグルトを豊治に食べさせ、何やら豊治と話をしている。そして、4時をまわったときに、
「バスの時間だわ。もう行かなくちゃ。」
と、豊治に言う。そして、ホールでお絞りをたたんでいる慶子に挨拶をする。
「では、よろしくお願いします。もうすぐ孫が生まれるから、お手伝いをしないといけなくて。これから、あまりこれなくなるけどお父さんのことよろしくお願いします。」
そう言って帰っていった。
慶子は、学びながら介護福祉士の勉強をしている。
実務者研修からも、学んでいくことがたくさんあります。