第8話
ある日の昼過ぎ、ノエルは困った事態に直面していた。あの天使との戦いによる体の不調……などではなく、極めて現実的な悩みだった。さらに言うならば、魔王としての悩みらしくない性質のものでもあった。
毎日すみずみまで綺麗に掃除されている廊下を、いつもの着ぐるみを装着して歩きながら、一人つぶやく。
「やっぱりメイドさんに買ってきてもらうしかないよなあ……」
小声で独りごちながら、小間使い達に与えられている休憩所へと足を運んでいるノエル。 悩みとは他でもない。魔界ねこ、ナナの事だった。
彼は毎日のように厨房からこっそり持ち込んでいたミルクをナナに与えていたのだが、ついに先日それが発覚したようで、ミルクのビンが別の場所に保管されるようになってしまったのである。
ミルクの窃盗事件などという小さなものは、さすがに彼の所にまで報告は上がってこないのだが、悪魔達の噂話で犯人捜しが行われている事を知ったノエルは、配下達に対して申し訳ない気持ちになっていた。
「今度からは直に届けて貰おう。ただ、うまく理由を考えないとね」
こういった事情で先ほどから頭を回転させているのだが、なかなかいいアイディアが浮かばない。そうこうしている内に、メイド達にあてがわれている部屋にたどりついてしまった。
中からは女性たちが集まっている部屋らしく、かしましい声が聞こえてくる。彼の前では竦んで決まった事しか話せなくなる彼女達も、自分がいないところではこうも明るく振舞っている事実を感じると、分かってはいたもののやはり寂しい。
彼女達は魔王の前でうかつな言動をしたら、取って食われるとでも思っているのだろうか。着ぐるみの中の彼は奥手で、女の子とはほとんど喋った事など無いのだが。
玉座の間で居並ぶ部下達を前にふんぞり返っている時よりも緊張している自分を感じつつ、勇気を振り絞ってドアを開ける。
がちゃっ。
開いたドアの先にいた魔王の姿をみて、楽しそうにはしゃいでいた彼女達の表情は一瞬で変化した。それこそ世界の終わりを告げられた者のように。
慌てて立ち上がり、服装の乱れを正すメイド達。ノエルも何か喋らなければと思うのだが、先ほどの彼女達の反応のショックがまだ少し残っており、時間を稼ぐ為に部屋の中にゆっくりと入っていった。自分の一挙手一投足に全ての視線が注がれているのを感じ、着ぐるみの中で汗を流しながら歩いていく。やがて部屋の真ん中あたりに来るとメイド達の方を振り返った。
彼女達は皆、自分の仕える主を仰ぎ見ているが、身体が小さく震え、怯えているのが手に取るように分かった。
――さて、どうしよう。
結局考えをまとめられなかったノエルは、途方に暮れた。その沈黙がますます彼女達の恐怖心に拍車をかける。とにかく何かを言わなければとノエルが口を開いたその時、先ほどノエルが入ってきたドアが、小さな音を立てて開いた。
そこから姿を現したのは、メイド長のフローラだった。ちょうど今休憩室に戻ってきたらしい。さすがに、ここにいるはずの無い存在に驚いていたものの、他のメイド達のような恐れを抱いた視線ではなく、ただ不思議そうな目で彼を見ていた。
「主様……? こんな場所にお越しになるなんて、一体いかがなされたのですか?」
訓練されたメイドらしく、静かにドアを閉じ、一礼してノエルに問いかけるフローラ。その堂々とした仕草に、まさしく世界の終わりに救世主が現れた時のような表情でフローラを見ている他のメイド達。
もっとも、助かったと感じていたのは魔王のノエルとて一緒だった。あちらから質問されたおかげで、何とか用件を口にする事が出来そうだ。ただ、どう言えば魔王の恐ろしさを損なわずにすむだろうか?
「ふん……フローラか、丁度いい。お前にやってもらいたい仕事がある」
名指しされたフローラは目を見開き、自分の胸に手を置いてノエルにたずねた。
「は、はい……私に出来る事があれば、何なりとお申し付けください」
「ふん、安心しろ。誰にでも出来るような事だ」
しまった。と思ったがもう遅い。フローラの顔が少し悲しみを帯びてしまう。魔王らしくあろうとするあまり、いつもの傲慢な言い方になってしまった事を後悔しながらも、今更取り消す事は出来ない。そのまま考え考え用事を伝える。
「実はお前に買ってきてもらいたい物がある……魔界ミルクだ」
かなり恥ずかしい思いをしながらも何とか言い切る事が出来た。だが、さすがにフローラの顔が怪訝なものになる。他のメイド達も何やらお互いに視線を交わしているようだ。
――まずい……やっぱりミルクなんて魔王が欲しがるような物じゃないよな……。
魔王の風格に傷がついてしまった事を感じ、内心慌てるノエル。そこにフローラからの疑問の声がかけられた。
「魔界ミルク……ですか? 構いませんが、一体どのような事にお使いになるおつもりなのでしょう?」
ノエルはどうにか威厳を取り戻せる言い回しがないかと頭をフル回転させ、そうだ! これだ! という閃きと共に言い放つ。
「ほう、お前は主がわざわざ何をしたいかを言わないと動かないのか? ただの小間使いの分際で?」
辛辣な言葉を叩きつけられたフローラの瞳にじんわりと涙が浮かぶ。それを目にしたノエルはまたも自分の失言に気付いたが、もちろん手遅れである。しかも、支配者としての喋り方に慣れてしまっている口は、さらなる台詞を勝手に吐き出してしまう。
「ふん……行け。可能な限り早くな」
「は、はいっ……」
悲しそうな顔を隠しつつ、ドアを開けて出て行くフローラ。それを呆然と見送るノエル。
やがて、自分の後ろに大勢のメイドがいる事を思い出した彼は、振り向いて悔し紛れにこう言った。
「おい! 俺は休憩させる為だけに、お前達を雇っているわけじゃあないんだがな!?」
ひっ! という悲鳴と共に、飛び上がらんばかりの反応を見せる色とりどりの花。
各々謝罪の言葉を口にしながら、凄まじい速度で押し合いながら部屋を出て行った。もちろん死にもの狂いの形相で。
ぽつんと取り残されたノエル。
「フローラさん、ごめん……ごめんなさい……あんな事を言うつもりは無かったのに……」
ノエルは、部屋の真ん中で泣き出した。その嗚咽は被り物に吸い込まれ、誰にも聞こえる事は無かった。
「困ったわね……どうしましょう……」
フローラは大きなビンを両手で抱え、途方に暮れていた。もちろん、それは先ほど魔王から買出しを命じられた魔界ミルクの大ビンだ。
ミルクを買ってきたはいいものの、主は玉座にもおらず、軍議室にもおらず……。
やむを得ず魔王の自室までやってきてノックもしてみたのだが、全く反応が無かったのである。
「ん~~、さすがにお部屋の前に置いておくっていうわけにもいかないし……あら?」
その時フローラは、いつもは固く閉じられているドアに対して、かすかな違和感を感じた。
「ひょっとして……」
フローラはそっとドアの取っ手をつかみ、引っ張る。かなりの重さを彼女の腕に伝えたものの、そのドアは少しずつ開いていった。
やがてフローラの目に魔王の部屋の光景が飛び込んでくる。もちろん彼女は、いや、他の悪魔達も含めて、魔王の部屋に入った者など今まで誰もいなかった。
「これが、主様の部屋……」
普段のフローラならば、少なくともこれ以上の事はせず、ドアを閉じ、この場を去っていただろう。だが誰も見た事が無い魔王の部屋に対しての興味が、何度打ち消しても心に浮かんでしまい、彼女はついに一歩を踏み入れてしまった。
さすがに魔王の部屋といったところか、豪華な調度品がいくつもならんでいる。だが、それだけだ。悪魔達が魔王に対してイメージしているような、恐ろしさを感じさせるような物は、ここには一つもない。例えば、軍議室に転がっている拷問道具のような。
それにこの部屋はとてもすみずみまで丁寧に掃除されているようで、散らかっているような物もほとんど無い。この部屋を見たものは誰も、あの恐ろしい魔王が住んでいるなどとは思わないだろう。
前から心の片隅で考えていた疑惑が、少しずつ確信に変わりつつある事を感じ始めるフローラ。
「やっぱり……主様は、常々恐ろしく振舞っていらっしゃるけど……」
つぶやくフローラの耳にかすかな音が聞こえてくる。それはドアと壁を隔てた先から、こちらに向かってきているような重量感ある足音だ。フローラはさすがに慌てた。この部屋に向かって歩いてくる者など、あのお方しかいないではないか。
「ど……どうしましょう……!」
らしくなく、おろおろと周りを見渡すフローラ。その間にも足音はどんどん近づいてくる。
フローラは意を決して、ミルクのビンを抱えたまま豪華なベッドの下に潜り込み、そっとドアの方をうかがった。
やがて、足音はドアの前で止まり、ゆっくりと扉が開いていった……。
ノエルはいつもの格好の重さを感じながら、のしのしと廊下を歩いていた。途中で部屋の鍵をかけてなかった事に気付き、やや早足で自分の部屋に向かっている所である。
「まあ、誰も僕の部屋なんかに近づいたりはしないだろうけどね……」
一人寂しく呟きながら、巨大な足を交互に動かすノエル。フローラにミルクを買ってきてもらうように頼んだ後、何か食べさせる事が出来る物は他に無いだろうかと、厨房に忍び込んでいたのである。そして、ようやく見つかった戦利品をこっそりと着ぐるみの中に隠し持ってきていた。
「何が好物なのか良く分からないけど……これだけあればきっと好きなものが一つはあるはずさ」
いそいそと部屋に向かうノエルの目に、ようやく部屋が見えてきた。秘密が露見しないように遠くの部屋を使っている自分が悪いのだが、それはもう仕方が無い。それに最近は同居者も出来てくれたし、昔ほど寂しくはない。
ドアの前で立ち止まり、取っ手を掴んで開け放つ。いつもの部屋の空気が彼を迎え入れた。中に入ってドアを閉め、魔界ねこのナナの姿を求めてきょろきょろと首を振る。だが、視界内にはいないようだ。先にこの着ぐるみを脱いでしまおう。ノエルは頭に手を伸ばしつつ歩き出した。
開いた扉からゆっくりと中に入ってくる魔王。フローラはその姿を固唾を呑んで見守った。彼女の主は後ろ手にドアを閉め、ゆっくりと部屋の内部を見渡す。中にいるであろう、何物かを探すかのように。
やはり自分が部屋に忍び込んでいる事がばれてしまっているのだろうか。フローラの心臓が早鐘を打つように激しく鼓動する。仮に魔王が彼女の推測通りの者だとしても、こんな事をしているメイドを許しはしないだろう。ベッドの下でフローラはぎゅっとミルクのビンを抱きしめ、恐怖を押さえ込もうとした。
やがて歩を進め始める魔王。フローラは身を固くしたが、こちらに向かってくるわけではないようだ。ほっと一息つきながら、しかし彼女は魔王の姿から目を離せずにいた。やがて、魔王は手を頭に伸ばし……。
ずぼっと頭を引き抜いた!
「……!?」
フローラが声をあげずに済んだのは、奇跡としかいいようが無いだろう。あの恐ろしい形相をした悪魔の頭が外れ、その下から女の子のような容姿をした男の子の頭が出てきたのだから。
「よいしょっと」
「……!? …………!?」
もうフローラの頭は混乱の極みに陥っていた。あの耳にした者全てを平伏させる、地獄の底から聞こえてくるかのような猛々しく、おぞましい声。
だがこの男の子は、とても可愛らしい声で喋るのだ。まさしく鈴を転がすような、という形容が似合う声で。
「ふんっ!」
「……!? …………!? ………………!?」
さらなる驚きにフローラは気絶寸前まで追い込まれた。
あの一振りで大地を粉砕しそうな両手の鉤爪。全てを踏み潰していくであろう、威圧感溢れる両足。そして、別の生き物のように動くあの尻尾、それらがついている魔王の身体が、前から二つに裂けたのだから。
そして何事もなかったかのように、この可愛らしい少年はゆっくりと魔王の残骸から降り立つ。
「ふう、いつもの事だけど、やっぱりこの時が一番解放された気になるなあ」
鏡の前で小さく伸びをする少年。
それをベッドの下から盗み見ながら、フローラは無数の泡のように浮かんでくる疑問を、何とかまとめようと努力をしていた。
――どういう事なの……? ま、まさか、この子が主様を殺して入れ替わってた!? で、でもそんな事がありえるのかしら? それとも、この子は影武者か何かとか!?
数多の想像がフローラの中を駆け巡るが、どれもこれもありえなさそうに思える。もっとも一番ありえないのは、今自分の目の前で起きている事だろうけれど。
フローラは知らぬ内にミルクのビンを強く抱きしめていた。そして、この部屋からこっそり出るという目的すらすでに忘れてしまっていた。
やがて男の子は探し物でもしているのか左右に首を振り、何者かに向かって呼びかけ始めた。
「ナナー。ナナー。どこにいるんだい?」
――ナナ?
ナナとは一体何者なのだろう、と考えているフローラの耳に、可愛らしい鳴き声が聞こえた。
「にゃあー」
――!? ……ま、魔界ねこ?
この魔王の部屋に最もふさわしくないであろう、小さな小さな魔界ねこ。
子ねこが、てててっと男の子に駆け寄ると、彼はそれを抱え上げ、ほお擦りした。
「ただいま。いい子にしてたかい? ナナ」
可愛らしい子ねこは、にゃあにゃあ鳴いて彼に肯定らしき返事をする。男の子はうっとりと相好を崩した。
「ふふっ。ナナは可愛いね。にゃあにゃあにゃあ」
聞く人がいれば恥ずかしくて出来ないであろう、ねこ語を使って会話をする男の子。だが、その台詞をばっちり耳にしてしまっている者が自分のベッドの下にいた。
――……わたし……悪い夢でも見てるのかしら……?
驚きを通りこして、もう現実逃避に入りつつあるフローラ。その瞳は段々焦点を失いつつある。だがそんなフローラを一瞬で覚醒させる出来事が起きた。
「にゃあーーっ」
男の子の胸に抱かれていたその子ねこが、何かを感じたのか急に彼の手を飛び出し、走り出したのだ。ベッドの下の隙間に向かって。
慌てて隠れようとするフローラ。だが、そもそも見つからないようにする為にこの場所に入り込んでいるのだ。ここからさらに姿を隠せる場所へなど、移動できるはずもない。
子ねこはそのまま寝台の下に入り込み、フローラに、いや、フローラが持つミルクのビンに突進し、表面のガラスにカリカリ爪を立て始める。もちろん男の子は、ベッドの下に入りこんでしまった子ねこを探す為にかがみ込み、そして……。
「ちょっと、どうしたんだいナナ? 何か変な虫がいた……とか……」
もちろん、そこにいたのは虫などでは無い。男の子の目が驚愕に大きく見開かれ、その顔が少しずつ状況を理解し……。
フローラは先ほどの自分と彼と、どっちがより驚いたのだろうと思いながら、全てを諦めるような境地に立っていた。そんな事は露ほど知らず、子ねこは無邪気にビンの表面を引っかき続けていた。