第7話
自分の部屋でナナとじゃれていたノエルは、突然大きな揺れを感じて驚いた。そして直後に響く、聞き覚えのある声。
「これは……あの時の天使の……!?」
ノエルは慌てていつもの着ぐるみを装着し、部屋を出る。
周りの空気は騒然としていた。どうやらあの天使がこの城に攻撃を仕掛けてきたらしい。ノエルは驚きつつも、なんだか少し浮かれている自分を感じていた。だけど周りの者達には気付かれないようにしないといけない。荒々しい足取りで玉座の間へと向かう。
「お前たち、うろたえるな!!」
ビリビリと大気が震えるほどの怒号を放ち、広間に足を踏み入れるノエル。浮き足立っていた悪魔達は首をすくめ、恐る恐る自分達の主を見上げた。
「報告しろ」
玉座に着きながら言う魔王に、慌てて悪魔が駆け寄った。先ほどその椅子に座りそこなった、自称魔王軍のナンバー2、ゼイモスである。
「は、ははっ!! ご、ご報告いたします! どうやら、天使が我らの本領に忍び込み、攻撃を仕掛けてきた模様です。奴は第六天使長イーリスと名乗っています。今、空を飛べる者どもが迎撃に出ておりますが、いかんせんすばしっこい奴のようで、まだ捕獲には至っておりません」
まだ捕まっていないのか……良かった……と思いつつもノエルは、ゼイモスの発言の中のとあるフレーズが耳に止まり、ゆっくりと玉座を立ち、一歩一歩階段を下りてゼイモスに近づいた。
「ゼイモスよ……今、気になる事を言ったな」
「は!?」
少しずつこちらに歩いてくる魔王を見上げ、先ほどの報告に何かまずい点があったかと反芻し、慌てて言い直した。
「も、申し訳ありません! まだ捕獲には至っておりませんが、繰り出した部隊は我が直属の精鋭部隊です! あと少しもすればあの天使を捕らえてくる事でしょう!」
早口で報告をし直したゼイモス。だが、魔王は歩みを止める事なく、ゆっくりと首を振った。
「違う、そこじゃない」
「……!? も、申し訳ありません! た、確かに忍び込まれたのは事実ですが、その時点で捕捉出来なかったのは、物見部隊の怠慢かと思われます!! ど、どうかご自由にやつらを処分してくださいませ!!」
物見部隊とそれを指揮する者は青くなり、ざわめいた。しかし、そんな事は意も介さず、魔王はさらに首を振った。
「違う。そんな事はどうでもいい」
ふたたび部下達がざわめく。では一体何が主の気に障ったというのだろう?
「……!? あ、あの……その……!!」
ついに言う事が無くなったのか、目の前で立ち止まった魔王を見上げ、視線を落ち着きなくあちらこちらに動かすゼイモス。魔王はそんなゼイモスの下顎を、鉤爪の付いた手で掴んでぐいと引っ張った。
「お前はこう言ったな……我らの本領に……と」
「は……はひ……」
怯えながら返事をするゼイモス。そんなしもべを見ながら、魔王はゆっくりと断言した。
「我らの本領ではない……俺の本領だ……俺の領地だ!!」
「……!?」
まったく気にもしていなかった単語が、主の機嫌を損ねていた事に驚くゼイモス。これには周りの配下達も度肝を抜かれた。
天使が攻撃を仕掛けて来ている事よりも、そして配下達がそれに対して何の役にも立っていない事よりも、その一言の方が大事なのか? 彼らは魔王の支配欲を改めて見せ付けられ、恐れおののいた。
「言い直せ」
「はっはひっ!! ……ご、ご報告いたします! どうやら、天使が魔王様の本領に忍び込み、攻撃を仕掛けてきた模様です! 奴は第六天使長イーリスと名乗っています! 今、空を飛べる者どもが迎撃に出ておりますが、いかんせんすばしっこい奴のようで、まだ捕獲には至っておりません!!」
泣き出しそうになりながら、ゼイモスは主が望んだとおりに報告のやり直しをする。魔王はそれにようやく満足したのか、ゼイモスの顎から手を離した。
「そうだ……忘れるな。お前たちもな。ここが俺の領地だという事を」
ぐるりと周りの悪魔達を睥睨しながら宣言をする魔王。配下達は慌てて直立し、口々に再度忠誠を誓う返事をした。
ようやく満足したのか、魔王の意識は天使の方を向いたようだ。彼はゼイモスに自分が直々に出ると伝え、同時に部下の引き上げを命じた。
「は? しかし、奴らも精鋭。きっとそのうちに捕獲の報告があるかと……」
まだ理解してないらしいゼイモスに、魔王は言葉を返した。ゼイモスが再び震え上がるほどの不機嫌な声音で。
「何度も言わせるな。俺が出ればすぐに片がつく。邪魔をするなと言っているんだ」
「は、は、はいっ……!! し、失礼いたしました! 急いで部下達に引き上げの命令を出します!!」
ゼイモスは固い床に頭をこすり付けて主に返答する。魔王はそんな彼を見てフン、と鼻腔から不機嫌そうな音を洩らし、背を向けた。
「急げよ。お前の言う精鋭どもが巻き込まれても知らんぞ」
「しょ、承知いたしました!!」
これ以上主を怒らせぬよう、ゼイモスは声を限りに承服の言葉を叫んだ。先ほど玉座の前で考えていた野心などすでに吹っ飛んでいた。
「悪魔どもが引き上げていくな……まさか諦めた訳ではあるまい」
魔王の領地に襲撃をかけた天使――イーリスは去っていく悪魔達を注意深く見据えながら一人呟く。そんな中、彼女は自分の四肢に鳥肌が立っているのに気付いた。それと、かつて感じた恐怖心が湧き上がってきている事にも。
「とうとうお出ましか?」
あの恐ろしい魔王の気配を感じる。ようやく本人が出てくる気になったのだろう。部下を引き上げさせた理由は分からないが……。
イーリスは緊張に震える唇を舌で舐めた。じっとその時を待つ。やがて、空気を震わすような気配が城から飛び出してきたのを感じた。
「ついに出たな! 魔王よ! あの時ワタシに手加減した事を後悔させてやる!!」
イーリスは細剣を鞘から抜き放った。彼女の愛剣は確かな手触りを返してくれる。体の震えもそうする事で幾分治まった。もうすでにこちらの居場所が露見しているのか、魔王はあの竜のような皮膜で風を切り、一直線に突っ込んでくる。
望むところだ。イーリスは白い羽根を広げ、雲の中から飛び出した。
ノエルは城の中で一番高い塔の上に立っていた。次々と帰還する悪魔達が見える。どうやらあの天使は、彼らに捕らえられずに済んだらしい。ノエルはほっと安堵の息をもらした。
目を文字通り光らせ、彼女が隠れているであろう、浮かぶ雲を次々と凝視する。魔王の眼力は、こんな時にもある程度役に立つようにできている。
やがて、その魔眼は雲の中に潜む影を捉えた。
「見つけた……」
ノエルは巨大な翼を広げ、石床を蹴った。あの天使とまた会える事に喜びを覚えながら。
突然雲の中から飛び出してきた純白の姿に、ノエルはやや不意を突かれる形となった。天使の剣は寸分違わず魔王の首を狙っている。ノエルは空中で辛くも頭を傾げ、寸でのところでその切っ先を回避した。
「ち……外したか……」
出会い頭の一撃をかわされたイーリスは小さく舌打ちし、素早く間合いを取った。それを耳にしたノエルは振り向きざまイーリスに語り掛ける。
「ほう、いきなり攻撃をしかけてくるとは……ずいぶんと礼儀知らずな天使もいたものだな?」
いつもの尊大な魔王としての口調で。
イーリスは怒りで顔を紅潮させ、言い返した。
「黙れ。悪魔に礼儀など不要だ!」
イーリスは立て続けに突きを見舞う。ノエルはそれを巨体に似合わぬ動きでかわし続けるが、内心焦っていた。
――まずいな……ここだと近すぎる。皆の目があるよ……。
イーリスがいきなり飛び出してきた事は、ノエルにとっては計算違いだった。まずはこの城から見えないところまで彼女を追いやるのが彼の最初の目的だったのだが。
ちらっと後ろを見た魔王の目に、配下の悪魔達がこちらを見上げる姿が見えた。それとフローラを始めとするメイド達の姿も。イーリスに怪我をさせるわけには行かないが、彼らの前で無様な戦いを見せるわけにもいかない。さっきのような発言を部下の前でしたからには尚更だ。
「どこを見ている!」
イーリスの裂帛の声と共に、光輝を纏った剣の一撃が繰り出される。天使達が得意とする、魔力を剣に這わせて攻撃する技だ。着ぐるみの防御力は高いと言えども、当たれば無傷ではすまないだろう。背後に気を取られていたノエルは、危うく光の刃に闇の外装を切り裂かれるところだった。
――駄目だ。今は手加減なんて考えている時じゃない!!
ノエルは意識を目の前の強敵に集中させる。
仮にこの着ぐるみが切り刻まれ、生身が晒されでもしたら、それはノエルの敗北を意味しているのだ。ノエルは気合を入れ、体を回転させる。捻りを加えた尻尾での一撃だ。まさか魔王がこんな攻撃をしかけてくるとは思わなかったのか、イーリスはそれを避けきれず、咄嗟に体の前で交差させた両腕で受け止めるのが精一杯だった。
「ぐうっ!」
その腕を守る手甲も衝撃までは消してくれない。たまらず弾き飛ばされるイーリス。大きく飛ばされながらも羽根をはばたかせ、体勢を整えようとするが、それを見逃すノエルではない。今がチャンスとばかりに魔王の口腔が咆えた。
「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
それは大気を振動させ、城で両者の戦いを見ていた悪魔たちをも震え上がらせる。ほとんどの者は耳を押さえうずくまった。だが、何かに心奪われたかのように戦いを見ていたフローラは、その中には含まれていなかった。
「あれが……第六天使長イーリス……」
フローラの目は魔王と相対していた天使に釘付けとなっていた。彼女の美しい黒髪、整った鼻梁、すらりと伸びた手足。あれこそまさに天使と呼ぶのに相応しい。
ノエルの連打を受け止めながら後退していく天使。やがて、それを追いかける魔王とともに、その姿は見えなくなってしまった。
だが、フローラの心からあの天使の姿は中々消える事はなかった。そして、天使と対峙していた自分の主に対する違和感も。
イーリスを城から遠ざける為、上下左右に避けづらい攻撃をひたすらに繰り出すノエル。狙い通り、イーリスはそれを後退しつつ受け止めるという展開となっていた。
――そろそろ城からは見えなくなったかな。
そう思ったノエルは一旦イーリスから距離を取る。そんなノエルを睨みつけるイーリス。 先ほどまで猛攻にさらされていたイーリスだが、その呼吸は大して乱れていない。確かに手加減はしていたが、並の天使や悪魔ならあの攻撃で身動きも取れなくなっているだろう。ノエルは魔王の仮面の中で舌を巻いた。
「ふん……さすがは第六天使長といったところか。この程度の攻撃では効き目が無いようだな」
賞賛の言葉を口にするノエル。だが、悪魔の賛辞など嬉しくもないのか、イーリスは剣を振り、叫んだ。
「黙れ! 今回もさんざん手加減をしているのだろう、あの時のように!!」
ぎくり、とノエルの体は硬直した。
確かにあの戦いの時、美しい彼女の体に傷が残らないようにある程度手を抜いていたのだが……どうやらそれは、彼女の心の方をいたく傷つけてしまったらしい。この時ノエルは、なぜ目の前の天使が単身乗り込んできたかについて、ようやく理解できた。
だがそんな手加減をした理由は、なんだか彼女に惹かれるものを感じたからだ、などとはもちろん言えない。ノエルはいつも通りの憎まれ口を叩いた。
「ふむ……ようやくそれに気付いたか……当たり前だろう、天使などわざわざ本気を出すまでもない」
「く……!」
憤怒に顔を赤く染めたイーリスが再び攻撃を仕掛けてくる。魔王を睨みつけるその怒りの表情ですら美しい。その美貌に見蕩れ、ノエルは攻撃を避けながら、ついまたいらない事を言ってしまう。
「少しは腕を上げたかと思ったが、やはりその程度か。全く成長していないな……どうせまだ処女のままなのだろう?」
「んなっ……!」
またもイーリスの顔が紅潮する。もちろん、今度は羞恥によるものだろう。ノエルは自分が何を口にしたか気付いてはっとなり、同じように顔を赤くするがもう遅い。
「ば……馬鹿にするなあぁぁぁっ!!」
怒りに目がくらんだイーリスは、防御を省みない真っ直ぐな突きを放つ。当たれば致命傷となりうるだろうが、そんな攻撃をノエルが避けられないはずがない。
失言に後悔しながらも、ノエルはイーリスの剣の軌道を冷静に見極め、突き出される刀身を手で握り、受け止める。そんな避け方は想定外だったのだろう、イーリスの目が驚きで開かれた。呆然としている彼女に対して、ノエルは最後の一撃を見舞う。
「未だ熟せずと言ったところか……早く熟せよ。そうすれば俺が刈り取ってやろう!」
「がっ!?」
言いながらノエルはイーリスの体を上から打ち付ける。もちろん今回もある程度手心を加えて。たまらず剣を手放したイーリスは地面に叩きつけられる。起き上がろうとしたイーリスの真横に、彼女の愛剣が突き刺さった。
「今回はこれくらいにしておいてやろう。次はもっと楽しませてくれよ」
イーリスに勝者の貫禄を見せつけ、去っていく魔王。イーリスはそれを黙って見送る事しか出来なかった。彼女は薄汚れた大地に倒れたまま空を見上げ、再び悔し涙を流した。結局、かすり傷すら負わす事も出来ないなんて……。
そんな彼女の目に、遠くからやってくる天使の一団が映った。いつのまにか、天界と魔界の境界線の辺りまで追いやられていたらしい。もちろん、彼女達は自分を助けに来たのではないだろう。
――ふん……全く馬鹿な事をしてしまったな……。
彼女は目を閉じた。近づいてくる天使達の羽ばたきを耳に感じながら。
◇ ◇
追って沙汰があるまで謹慎処分とする。天使長の身分も一時的に剥奪。
それがイーリスに下された処罰だった。イーリスはその命令に逆らわず、諾として受け入れる。
「全く、野蛮な方の考える事は分かりませんわね。なんであんな事をしたんですの?」
上品な笑みを湛えながら、シルヴィアがイーリスの背に向かって声を掛ける。イーリスはゆっくりと振り返り、シルヴィアの顔をまっすぐに見て答えた。
「そうだ、オマエに言ってもどうせ分かるまい。だから説明する必要はないな」
消沈していると思っていたイーリスから、毅然とした答えが返ってきた事にシルヴィアは驚いた。そして、その無礼な返答に対する怒りが遅れてやってくる。シルヴィアはイーリスを睨みつけながらこう返した。
「ふん……貴方なんか、帰ってこなければよかったのですわ。天界の恥さらしよ」
「帰ってこなければよかった、か……確かに、それもよかったかもな……」
ようやく落ち込んだイーリスの顔を見る事が出来て、少しだけシルヴィアの表情が満足げになった。
「ふん、いい気味ですわ。さっさと部屋に入って謹慎なさい。ちなみに、後から助けを乞うても私は何もしてあげませんわよ」
「安心しろ。ワタシもそういう事をする相手は選ぶつもりだ」
あっさりと強気を取り戻したらしいイーリスの言葉に、シルヴィアの顔が再度ゆがむ。イーリスはそれを一瞥し、去っていった。後にはぶつぶつと呟くシルヴィアだけが残された。
「ふん……何よ……馬鹿にして……やっぱりあの程度の処分では納得いきませんわ……」
シルヴィアはしばらく愚痴をこぼしていたが、やがてその場を立ち去った。
――いずれ目に物を見せてやらねば気がすみませんわ。
心の中に不快な感情を残したままで。