第6話
あの戦いから数日後、イーリスはまた戦装束を身にまとい、鏡に向かっていた。
手加減されていた事に気付いたあの日から、イーリスの心は錆びた鉄のように脆くなってしまっていた。今でも、あの時の事を思い出すと、ぽろぽろと何かが剥がれ落ちていきそうな気がする。強い心を取り戻すためにはどうすればいいのだろう。結局、彼女が出した答えはこれだった。
「ワタシは、所詮戦う事でしか己の意味を見出せないのだな……」
寂しそうに自嘲するイーリス。前は戦う事こそが自分の全てだと誇りに思っていたのに……あの敗北を喫するまでは。いや、あれはあの魔王にとっては戦いですらなかった。だから敗者よりも、もっと惨めなのだ。
自分が愚かな行為を始めようとしている事は分かっている。何の命令も無く出陣するなど普段の自分ではありえない行動だ。もちろん、こんな命令違反をすればいくら天使長の自分といえども、なんらかの処罰を受けるであろう事も。
「部下達もしばらく肩身の狭い思いをするかもしれんな……許せ」
イーリスは睫毛を伏せ、小さく呟いた。今回は自分の独断での出撃だ。もちろん部下を連れて行くつもりなど無いが、自分達のリーダーがそんな行動を取ったと知ったら彼女達は動揺するだろうし、他の天使達からも色眼鏡で見られるだろう。小さな逡巡がイーリスの中に生まれる。だが……。
イーリスはゆっくりと目を開いた。もうその瞳に迷いは残されていなかった。
「行くぞ。イーリス」
彼女は鏡に映る自分に呟いた。
装身具が立てる金属音を響かせて歩くイーリスの目に、大きな門が見えてきた。
この城の四方にある門の内の一つで、人間風に東西南北で言うとここは南門になる。
なお、門という名称で呼ばれているが、これらは普段閉ざされており、通過する事は出来ない。しかし、この城に住む者達がその事で困った事は一度もない。翼を持つ彼女達は、城のいずこからでも飛び立てるからだ。
この門扉が開く理由は主に二つ。
先日のイーリス率いる第十八中隊が帰還した時のように、軍団としての行動が起こされる時。
そしてもう一つは先の理由とも関係するが、敵地に急襲をかける時。
この四方の門の正体は、天使達を高速で目的地まで飛ばす、一種のカタパルトのようなものなのだ。魔界へ進軍する際に、彼女達はこれらの門から勢い良く飛び出すのだ。白い流星群のように。
魔界に到達するまでの時間はここから出ていくのが一番早い。イーリスは堂々と歩を進めた。
戦時体制ならばこの門には多くの天使が見張りにつくのだが、今は悪魔の進行報告も無いのか、それぞれ槍を持った二人の歩哨がのんびりと世間話らしきものをしているだけだ。その二人はイーリスに気付いたのか慌てて背筋を正した。だが、イーリスの格好に疑問を持ったのか、怪訝な表情を彼女に向けている。
――さて、どうやって頼んだものか?
イーリスは彼女達に近づき、口を開いた。
「ふむ、見張りご苦労」
「は、はい! ありがとうございます。イーリス殿!」
二人は緊張しつつも元気よく答えた。
「さて、早速だが……門を開けてくれないか?」
「は……? 門をですか?」
「うむ、そうだ」
見張りの二人は顔を見合わせる。彼女達は疑問と不安が混ざり合ったような表情を浮かべていた。
「お言葉ですが……軍団としての行動命令が出されていない限り、この扉を開ける事はできません。もちろん、イーリス殿といえども同じ事です」
「ふむ……そうか」
「はい……申し訳ありませんが」
二人は恐る恐る口にする。天使長ほどの者ならばこんな当たり前の事は知っているはずだろうに……ひょっとして先ほどの不真面目な勤務態度に対する戒めか何かだろうか?
不安げな歩哨達に対してイーリスは続けた。
「だがそれでも開けて欲しいのだ」
「は!?」
門番達の表情が不安を通り越して恐怖に変わる。イーリスの顔色を窺うが、もちろんそこに冗談を言っているような気配は無い。慌てて二人は視線を交わし、やがて一人は槍を両手に構え、もう一人は懐に手を伸ばす。警笛を取り出すつもりなのだろう。
「わ、私達にはそんな事は出来ません! それ以上同じ事をおっしゃるのでしたら、我々は役目にしたがって……!」
見張りの口上の途中でイーリスは素早く動いた。細剣を抜き、目にも止まらぬ速さで槍を持った天使に突き付け、もう一人が懐から出す手を左手で掴んだ。
「!!」
二人の顔から血の気が引く。イーリスは済まないと思いつつも、行動を止める事はしなかった。
「頼む……これ以上手荒な事はしたくない」
「は……はい……」
「門を開けてくれるだけでいい。ワタシが出て行った後で上に報告しろ。そしてワタシに脅されて城門を開けてしまったと言え。そうすればオマエ達が処罰される事は無い」
「な、なぜこんな事を……まさか悪魔の側に付くおつもりですか?」
見張りの天使はかすれた声で疑問を口にする。
「ふっ……やはりそう見えるか……何、ちょっと魔王に挑んでくるだけさ」
「!?」
二人は驚きで目を見開いた。な、なぜそんな事のために?
「別に理解してもらう必要は無い。さて、早く開けてもらえないか? 正直、剣が動かないように支えておくのも疲れるんだ」
「!! は、はいっ!!」
現在の状況を思い出した二人は慌てて開門作業を行う。二人がそれぞれ持った金属の板を出し、離れて門の所定の位置につく。この門は二人で同時に仕掛けを解かないと開かないようになっている。
門番達はお互いに視線を投げかけるが、後ろにいるイーリスの存在を思い出したのか、首を振り、開門の作業を始めた。といっても、動作自体は簡単で、金属の板を台座に嵌め、同時に回転させるだけでいい。
やがて大きな音を立て、門は開いていく。そして扉が開ききると、イーリスは門の力を発動させる言葉を唱えた。すると、まばゆい光に包まれた円筒状の道が中空に向かって構成され始める。見張りの二人はそれを黙って見続けるしかなかった。彼女達が報告するまでもなく、異変に気付いた他の天使達が飛んでくるだろう。
イーリスは光の道に乗り、飛び立とうとするが、その前に二人の見張りの方に向き直った。
「すまなかった。そしてありがとう」
それだけを言い残し、イーリスは勢いよく飛び立った。
二人の歩哨はしばらく呆然としていたが、自分達がしなければならない事を思い出し、慌てて門を閉じ始めた。
イーリスはいくつもの白い雲を付きぬけ、ぐんぐん飛翔していく。もはや後ろを振り返る事も無く。
◇ ◇
少し視線をそらした彼の目の端に、白い光点が映った気がした。
「ん!?」
あわてて顔の向きを戻し、水晶玉に目を凝らすが、もはや何も映っていない。
見間違いか? 彼は首をひねった。
「どうした? 早く帰ろうぜ。もう交代の時間だしよ」
ふぁぁ……とあくびをしながらやせ細った一人の悪魔が、相棒のずんぐりした悪魔に話しかける。
「い、いや……なんかさっき白い光が一つだけ映った気がしたんだが……」
「ああ……? 光が一つだ? 見間違いじゃねえのか?」
その悪魔は水晶に近づき、覗きこむ。だが、彼が言ったような白い光点はどこにもない。
「ほれ見ろ、何も映ってないじゃないか」
「う、う~ん……」
「それに光が一つって事は天使が一人って事だろ? 天使がわざわざ一人でこの魔界に進行してくると思うか? この前あんなにぼこぼこにされたのによ」
へへっ……と彼は笑う。もちろんそれをしたのは彼ではなく、彼の主だが。
「む、むう」
少しずつ疑念が消えていくのを感じる丸っこい悪魔。やっぱり見間違いだったんだろうか……。
「だからよ、早く帰ろうぜ。もう交代の連中もそこまで来てるんだしよ」
彼の言うとおり、部屋の外から小さな喋り声が聞こえてくる。それがずんぐり悪魔の疑惑を打ち消す最後の一押しとなった。
まあ、気のせいだろう。多分。
「ああ、そうだな……じゃあ行こうぜ。俺も疲れちまったよ」
「まあな、いつもの事だが疲れるわ。ずっと座りっ放しってのはよ」
うーん……と小さく伸びをして体を解す長身の悪魔。太った悪魔もやがて椅子から立ちあがり、帰る準備を始める。
本来ならば交代の手続きが済むまでは、この二人は水晶玉をきちんとチェックしておかなければいけないのだが、魔王の強さに慢心している彼らは最近そうした細かなところで手を抜き始めていた。無論それは今回やってきた交代要員の二人にも言える事だ。
「よう、お疲れさん。特に何もなかったか?」
部屋に入ってきた交代要員が彼らにねぎらいの言葉をかける。
「ああ、特に問題ないさ。この前天使どもはあんな酷い目にあったんだしな」
長身の悪魔がそれに答える。隣で太っちょの悪魔が何か言いたそうな顔をしていたが、特に誰も彼に留意しなかった。
「ははっ、それもそうだ。まあ、おかげで退屈な仕事ではあるがな」
交代の手続きをてきぱきと済ませる彼ら。ようやく仕事から解放された二人の悪魔は扉を開けて出て行く。その部屋の入り口には小さな看板がついていた。
物見部屋。
ここは天界と魔界の境界線を見守る者達の部屋である。
◇ ◇
境界線の辺りを突破してからは、イーリスは雲の中に隠れながら慎重に飛行していた。おそらく侵入した事は露見しているだろうが、ただの雑兵どもに捕まってやる気はさらさらない。
「ここまで来たのに、下っ端どもにやられたなどとあっては笑えないからな……」
薄暗い空を、雲を伝い飛翔する。その無駄の無い動きは、さすがに天使の長の一人に任命されているだけの事はあった。
しかし、魔界に入ってかなり長い時間が経ったはずなのだが、悪魔達が捜索に出ている気配すらない。イーリスは首をかしげた。
「おかしいな……まさか気付かれていないのか?」
――もしそうならば好都合だがな。
イーリスは翼に力を込め、速度を増した。先ほどよりも大胆に。
緊張感と高揚感が入り混じった心境で飛び続ける事しばし、ようやくイーリスの瞳に魔王の住む城が見えてくる。
噂には聞いていたものの、実物を初めて目の当たりにしたイーリスは、少しの間だけ城の威容に心を奪われた。
悪魔の王が住むにふさわしい、闇と暗雲に囲まれた高くそびえる巨大な漆黒の城。自分達の住む、真っ白で柔らかい雲に包まれた優雅な城とは真逆の存在だ。このような城に住む恐ろしい悪魔達は、いずれ我々の手で殲滅してやる。
だが、まずはあの魔王に挨拶をしてやらねば……イーリスは派手に行こうと決めた。
◇ ◇
ゼイモスは他に誰もいない王の間で、ある空間を見つめていた。その視線の先には今は主のいない、豪華な玉座がある。何を考えているのか、それを熱っぽい視線で見据えながら微動だにしないゼイモス。
「ふう……やっぱりいいもんだなあ……玉座ってのはよぉ……」
ゼイモスはうっとりとつぶやいた。
昔の、今の主に仕える前の事を思い出す。あの時はせいぜい数体のしもべ達が自分に付きしたがっているに過ぎなかった。もちろん、こんなに大きな城に住むなど夢のまた夢だった。それが今ではこの城の玉座に座る主の副将として名を連ねている。
以前誰かがそれを運がよかっただけだと言っていたような気がする。だが、もちろんこれがただの幸運なだけであるはずがない!
「俺の実力なんだよ……俺の真のなあ……!」
うわ言のようにぶつぶつと独り言を繰り返すゼイモス。
――あのお方の下にはン万の軍勢がいる。それはつまりナンバー2であるこの俺の下にその軍勢がいるって事だよなあ……!
何かに取り憑かれたかのように、ゼイモスはふらふらと玉座に近づき始めた。この椅子は魔王サイズだ。彼の卑小な身体がさらに際立つ。だが、彼はそんな事を気にもせず玉座の前に立ち……ゆっくりとそれを手で撫で始める。
「へへっ……いい手触りだな……見てろよ、いつか……」
そう、いつか。今はあのお方がいらっしゃるが、いずれその内……。
ゼイモスは上気した顔で、部下達がいつも並んでいる広間の方を向き、そして……。
「俺が、ここに座るんだよ……」
ゆっくりと腰を下ろし始めた。魔王が腰掛ける、巨大な玉座に。
「みぎゃああああああああっ!?」
その瞬間、大きな振動がゼイモスを襲う。主の椅子に座ろうと中腰になっていたゼイモスは空間に投げ出され、顔面から墜落した。
――ま、まさか魔王様か!?
あの場面を見られた為に主の不興を買ったか!? ゼイモスは慌てて顔を上げる事もなく土下座し、必死に弁解の言葉を口にし始めた。
「も、申し訳ありません!! 貴方様の玉座が汚れておりましたので、その汚れを拭こうとしていただけでして、別にここに座ってみたいなどという不埒な考えは決して……!!」
ひたすらに頭を下げながら、自分の主がいるであろう方向に頭を下げるゼイモス。だが、特にそれに対する返事はなく、恐る恐る顔を上げる。そこには誰もいなかった。辺りを見回しても他の悪魔の気配もない。そんなゼイモスの頭上に、大きな声が響き渡った。
「ワタシは第六天使長イーリス!! 出てこい、魔王よ。あの時の借りを返しに来たぞ!!」