第4話
忌まわしい魔界にも朝は訪れる。
天界に浮かぶ太陽が、その溢れんばかりの慈愛をこの世界にも投げかけるからだ。
深淵のごとき暗黒がその光に逆らえず、うっすらと魔界の全容を晒し始める時、この城の主は眠りから覚める。
もう少し眠っていてくれれば自分たちもゆっくりできるのに、と下々の者達は言う。もちろん、主には聞こえない程度の声で、だが。
起き出して来る主を迎えるために、朝の厨房は大忙しだ。料理担当の者達と、料理を運ぶ者達との間で、早く作れ! だの、悪魔三十人分に匹敵する料理をそんなすぐに作れるわけないだろう! だのといったやり取りが毎朝毎朝繰り返される。皆、自分達の主が大食漢で、舌に合わないものを献上すると処罰されると信じているのだ。
そんな騒がしい朝の訪れに胃を痛くしている者がいた。誰であろう、この城の主その人である。
「うう、今日はどうやってやり過ごそう……なんで毎日あんな大量にご飯を作ってくるんだろう?」
食堂に向かいながら、人並みの胃袋しか持たないノエルは着ぐるみの中でぶつぶつ呟いていた。伝説という物は尾ひれが着いていくものだ。いつからこんな事になってしまったのか、ノエルにもすでに見当がつかなくなっていた。
「昔、食べきれなくて仕方なく、まずいって一言嘘を言ったら、その時の料理担当が全員行方不明になっちゃったんだよな……」
もちろん城の者達は、主の手によって彼らが処分されてしまったと信じ込んでいる。それ以来、朝の厨房は地獄のような様相になってしまった。
「う~ん。どうしよう。さすがにお腹が痛いなんて言い訳、悪魔の王がすべきじゃ無いよな……」
うんうん唸りながら歩いているノエル。
本人は可愛く首を傾げている程度にしか思っていないが、腕を組んで暗い顔をし、大牙を剥き出してズシズシと歩いてくる主人を見た彼の配下たちは、慌てて全速で厨房に向かい、不機嫌そうだからいつもより多めに作れという指示を出す。そして料理担当の者達が一段と大きな悲鳴をあげるのだった。
◇ ◇
食卓に並んだいつもより多い朝食にノエルも悲鳴をあげていたその頃、純白の城で数多の天使達がラッパを吹き鳴らす。ふわふわの暖かい雲海に包まれた天使達に朝を告げる、美しいハーモニーだ。
その音色がやがて、イーリスを夢の世界から解き放つ。彼女は寝起きが悪いのか、夜具の中でもぞもぞとしながらゆっくりと瞼を開いた。
イーリスも天使の例に洩れず、眠る時は羽根を痛めないようにうつ伏せだ。さらに寝相の悪さがそうさせるのか、目が覚める時は大抵体を横たえ膝を曲げた状態で可愛らしく枕を抱きかかえている事が多い。普段の凛々しい姿を知る者が見たらあまりのギャップに仰天するだろう。
「む……もう朝か……」
誰にともなくつぶやくイーリス。まだ覚醒には程遠いのか、そのあどけない姿のままぼーっとした表情で目の前の枕を見つめている。
――なんだか変な夢を見ていた気がするな……夢……夢……いったいどんな夢を見ていたのだっけ……。
「……っ!!」
ぼやけていたイーリスの焦点が一瞬で絞られる。自分の身体に掛かっていた柔らかなシルクの布を瞬時に跳ね除けて起き上がり、下着に包まれた眩しい肢体が明らかになる。だがそんな事も気にならないのか、ベッドの上で仁王立ちになるイーリス。
「思い出した!! あの悪魔め、夢の中でまでワタシを……!!」
トマトのように顔を真っ赤にしながら声を震わせるイーリス。夢の世界にもあの恐ろしい悪魔が現れたのだろう、震える身体を両腕で抱きしめた。
「この恥辱……!! 夢の中でまであんな……!! あんな事を……!! 必ず報いを受けさせてやる……」
怒りに燃えるイーリスの耳に、天使達のラッパの音が聞こえてくる。
人間達の間では、天使のラッパは滅びを告げる先触れだと信じられているという。その伝説をあの悪魔に思い知らせてやる!!
そこに彼がいるかのように、イーリスは怒りに滾る目で虚空を睨みつけた。
城の中に、天にも届きそうな七本の柱がそびえる吹き抜けの広間がある。その柱の内の一つに立っているのは戦装束に身を包んだイーリスだ。彼女は朝の激昂から冷めたのか、瞑目し、静かに時の訪れを待っている。
柱の間を流れる雲が彼女の姿を覆い隠し、やがては風に雲が流され、再び彼女の姿が現れる。それを何度か繰り返したあと、イーリスは気配を感じ、瞼を開けた。
「全く、朝から張り切りすぎですわよ」
嫌味と共に別の柱の上に現れたのは第七天使長シルヴィア。イーリスはそちらを一瞥し、興味が無いようにまた目を閉じた。
「くっ! 無視ですか……相変わらず不愉快にさせてくれる方ですわね……」
シルヴィアはまだ何か言いたそうだったが、他の天使長達が集まってくる気配に気付いたのだろう、しぶしぶ口を閉じた。
やがて、残りの五本の柱全てに羽根を生やした姿が現れる。
自分より上位の者を含む六人の天使長達に向けて、イーリスは言い放った。
「あの悪魔を放置しておいてよろしいのですか」
唐突な発言に他の天使長達からどよめきの気配が漏れる。天使長といえど、やはりあの恐ろしい悪魔とはあまり関わりたくないのだろう。イーリスは不機嫌な気持ちになりつつある自分を自覚しながら訴える。
「奴をあのままにしていては、この世界に平和は訪れません。全軍を挙げてあの悪魔を討伐すべきだと思います。幸い、奴以外は烏合の衆です」
よどみなく続けるイーリス。それを遮るように、一人の天使長が手を挙げた。
「落ち着け、イーリス。君は長になって日が浅いから分からないかもしれないが、何事も準備は必要だ」
その意見に同調する気配を見せる他の天使長達。もちろん、その準備という言葉が欺瞞以外の何物でもない事はイーリスにも分かっていた。
「しかし! 今はまだ大丈夫といっても、その内にあの悪魔達が本格的な侵略を開始するかもしれません! そうなってからでは遅いのですよ!!」
くやしさに声を張り上げるイーリス。だがその叫びも他の天使長の心を動かす事は出来ない。
「なあ、イーリスよ。今の君からは私怨が感じられるぞ。ただ個人的な恨みを晴らしたいだけではないのか?」
「っ! そ、それはっ……!!」
そんな事は無い! と思いながらも、口には出す事が出来ないイーリス。そういう疾しい心がある事実に自分でも気付いているからだろうか?
呆れたような表情で彼女を見ていたシルヴィアも口を開いた。
「はあ……大体ですわね。貴方の三つの中隊の内の一つは、死者が出て無いだけでほぼ壊滅状態でしょ? 頑丈な貴方とは違って一晩で動けるようにはならないのだから、少しは休ませてあげたらどう?」
シルヴィアの指摘にイーリスの顔が真っ青に染まった。彼女の言葉に頭を殴られたようなショックを受けたのだ。そんな簡単な事も気付かなかっただなんて……そして、指摘されるまで思いつきもしなかった、もう一つのある可能性にも。
虚脱状態となったイーリスを少し哀れむように見下ろしながら、他の天使長達は退出を宣言した。次々と消えていく気配。だが、イーリスはしばらくその場を動く事は出来なかった。
自室に戻ったイーリスの後ろで、軋むような音を立てながら上質の木で誂えられたドアが閉じていく。
今の自分の心を代弁しているのだろうか? 今まではこんな音を立てる事は無かったのに……。
まだ青い顔をしているイーリスはふらふらと姿見の前に歩を進める。先ほど気付かされた、恐ろしい推測が正しいかどうかを確認する為に。
鏡に映る、戦装束をまとった純白の天使。その姿見の前で彼女は装束を恐る恐る脱ぎ始める。胸当て、手甲、脛当て……。
やがて全ての装備を外すと、そこには白い裸体を晒した、小さな天使がいた。泣き笑いの表情を鏡に映しながら。
「あはは……なんて事だ。自分ではもう少しであの悪魔に届くと思っていた……それなのに……」
イーリスは、昨日悪魔の一撃を受けた箇所の肌をすっと撫でた。そこは、真っ白で柔らかく、なんの痛みも返してはこなかった。
「はは……手加減されてたんだ……ホントに……これ以上ないくらいに……」
鏡の前で、イーリスは泣き崩れた。その慟哭はしばらく止まる事は無かった。




