第18話
イーリスは十字架に張り付けられたまま、目を閉じて静かに時を待っていた。もうしばらくしたら自分は処刑されてしまうというのに、不思議と心は穏やかだった。
「ふう……全く、本当につまらないですわね……何か言ったらどう?」
辺りにいる他の天使を気にしてか、シルヴィアが小さく囁く声が聞こえた。イーリスは目を開け、そちらの方に顔を向ける。そこには不満げな顔をしたシルヴィアが浮いていた。この期に及んでも取り乱さないイーリスが気に入らないのだろう。イーリスは口元だけで笑いながらシルヴィアに対して返事をする。
「ふむ……といっても、特にオマエが喜びそうな事は思いつかないがな……」
長い間張り付けられていたせいか、その声にはいつもの張りがない。だが、決してシルヴィアが望んでいるような怯えて弱弱しい声などではなかった。シルヴィアはやれやれと首を振った。
「せめて何か言い残す事とかはありませんの? 一応、聞いておいてあげますわよ」
「言い残す事、か……」
イーリスは口を閉じ、静かに考えを巡らせた。もうすぐ自分は処刑され、もはやこの天界に存在する事は出来なくなる。だが、別に最後に言い残したい事など……。
そう考えたイーリスの脳裏に一つだけある事が思い浮かんだ。しかしそれは、別に今まで戦いを共にした天使達に言い残したい事ではなく、むしろ、こんな時に浮かんでくるはずのない、悪魔側に立つ者の顔だった。
――アイツにもう一度会いたかったな……。
イーリスはノエルとの出会いを思い浮かべていた。初めてまみえた時の戦い。その結果に不満を抱き、魔界に忍び込んでまで再度戦いを挑み、またも敗北した事。次元の裂け目に巻き込まれそうになった自分を助けてくれた事も。そして、最後の別れの口付け……。
イーリスはふっと微笑んだ。また会おうという約束を、果たせない事だけが最後の心残りだったと気付いたからだ。もちろん、こんな事を目の前の天使に言う必要もない。
「ふむ……特に無いな。そろそろ時間ではないのか?」
「ええ……そうですわね……」
シルヴィアは天を見上げた。天界を照らす太陽が、そろそろ真上に来る時間だ。その時、イーリスの刑は執行される。
「ふふっ、まあ、安心なさいな。ちゃんと苦しまないようにしてあげますわよ」
シルヴィアはにこやかにイーリスに伝えた。一点の曇りもないさわやかな笑顔だった。イーリスも、シルヴィアに対して笑みを返した。
ついに太陽が中天にかかった。いよいよ、イーリスの処刑が行われる時間だ。この処刑を見に来ている大勢の天使達はざわめいた。幾人かは悲しんでいる者もいようが、ほとんどの者は、魔王と通じていた天使に対して憤怒の視線を投げかけていた。そんな中、シルヴィアの声が響き渡る。
「さあ、皆さん! 御覧なさい! ついに魔王に組しようとしていた裏切り者の天使が断罪されますわ! この神聖な槍によって!」
シルヴィアは持っていた槍を高く掲げる。穂先が太陽の光を浴びてきらめいた。天使たちは、おお……! と歓声を上げる。
「本来ならば、このような死刑の執行など私のような者がやる事ではありません。しかし、堕ちてしまったとはいえ、かつては私の同士であった者……せめて最期は私の手で、その汚れた魂を浄化せんとこの役目を志願いたしました」
大仰な手振りで他の天使達に訴えるシルヴィア。その姿は彼女を取り巻く天使達にある種の感動を抱かせ、一部の者に涙を流させた。
イーリスはそんな光景を見ながら、よくもまあ、あんな言葉がすらすらと出るものだと呆れていた。もっとも、そんな事も今となってはどうでもいい事だ。
もし自分の魂が世界から消滅し、またこの天界に生まれてくるという事があるのだとしたら……その時はまたあの魔王と戦えるだろうか? そんな事を考えながら、静かにシルヴィアの口上が終わるのを待つ。
ようやく演説が終わったのだろう。シルヴィアは、イーリスに向き直った。
「では、そろそろ始めますわ……」
槍を構えたシルヴィアがゆっくりと近づいてくる。まさに彼女は死の鎌を抱えた死神のようだ。だが、そんな死を告げる神が這い寄る姿を見ても、イーリスの心が怯える事は無かった。
「も、申し上げます!!」
突然、刑の執行を遮るかのように大きな声が響き渡った。イーリス、シルヴィア、そして他の天使達全ての視線がその飛び込んできた発言の主に注がれた。一斉に目を向けられたその天使は哀れにも縮こまってしまう。シルヴィアは苛々を隠せずに声を荒げた。
「何ですの!? 刑の執行が始まってからは、もし何かあっても報告は後回しにせよと厳命していたはず……!!」
シルヴィアに怒鳴られた彼女の直属の部下は、その怒声によって体の硬直が解かれたのか、精一杯の声を出して報告を再開した。
「そ、それが……この島に乱入してきた者がいます!! そいつはおそろしい力を持ち、天使達が束になっても止められないとの事……!!」
「何ですって!? 誰ですのその命知らずは!? まさか、イーリス一派の……」
最後の言葉は他の天使達に聞かれぬよう小声で呟くシルヴィア。イーリスもこの事態に目を丸くしている。そんな彼女達を前に、天使は泣きそうな声で続けた。
「何やら下級天使の話では、そいつは大きな体を持ち、鋭利な鉤爪、巨大な尻尾、竜のような翼を備えているとか!!」
「な、なんですって!? それはまさか!?」
「そうです!! なぜかあの魔王がこの島に……!!」
天使の悲鳴のような報告は、もちろんこの近くにいた他の天使達にも聞こえた。そこかしこから、魔王……? 魔王がやってきたの……? といったざわめきが漏れ、恐怖が波紋のように広がっていく。
シルヴィアは慌てて天使達の動揺を収めようと声を張り上げた。
「み、皆さん! 落ち着きなさい! 魔王など恐れる事はありませんわ! この周りは私の配下の精鋭達が守りを固めています。彼女達に魔王の処理は任せて今はイーリスの処刑を……!」
「ふん、無理だな。オマエごときの部下達では」
凛とした声がシルヴィアの口上を遮る。シルヴィアは今まで誰も見た事がないような、恐ろしい形相で声の主を睨み付けた。もちろん、その声を発したのはイーリスだ。十字架に捕らえられたままの彼女は、そんな事を微塵も感じさせぬ態度で言葉を続けた。とても嬉しそうに。
「ワタシですら手も足も出ない相手だ。オマエの部下なんかに止められるわけがないだろう?」
「な、何を嬉しそうに……これは貴方の差し金ですわね!? 答えなさい!!」
「ふん……まさか、そんな事が出来るわけが無いだろう? ただ……」
「ただ、何ですの!?」
イーリスは天使達を蹴散らしながらこちらに向かってくる、巨大な影を見つめながら呟いた。幸せに満ち満ちた表情で。
「もう一度会えるよう願ったのは事実だ……まさか、本当にそれを叶えてくれる者がいるとはな……」
あのお人よしの魔王は、どうやって知ったか知らないが自分の為にここまで来てくれたのだろう。イーリスの瞳から涙が一筋流れた。それはとても暖かくて心地のよい涙だった。
「うおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!」
魔王――ノエルは吠えた。周りから繰り出される剣を受け止め、あるいは叩き折り、ひたすらに飛び続ける。遠くに見える、巨大な十字架を目指して。
天使達は恐慌を起こしながらも自分達の職務を思い出し、一群で周りを取り囲んで、その手に生み出した光のつぶてを同時に魔王へ解き放つ。また、それに合わせて剣を構えた他の部隊が一斉に突撃した。術と剣による二段構えである。
剣士隊は光球の攻撃でダメージを与えた魔王に対する止めの役割を受け持ち、もし光球を魔王が避けるのならば、その回避行動に合わせ、剣の波状攻撃をお見舞いする。さすがによく訓練された動きだった。だが……。
天使達は驚愕に目を大きく開けた。魔王は降り注ぐ光の弾丸を物ともせずに、そのまま突っ込んできたのである。光球は魔王の体に弾かれ、大した傷も負わしていない。やがて、剣をかざした部隊も魔王の振るう鉤爪に吹き飛ばされ、隊列を崩した。
「どけえええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
天界の清浄な空気さえ震えだしそうなその怒号は、彼を止めようとする天使達を戦慄させる。最初は勇敢に掛かっていった天使達も、次第に回りを取り囲み、ただ魔王の動きを見守るだけになっていた。そんな中をノエルは巨大な十字架を目指して飛翔する。まだ遮る者は容赦なく跳ね飛ばし。
やがて十字架に囚われた一人の天使の姿が見えてくる。ノエルは我を忘れて絶叫した。
「イーリスッ!!」