第16話
「イーリスよ、お前に対する処分を言い渡す……死刑だ!」
周りを囲む聴衆からどよめきが起こる。何しろ、天使達の間でこのような重い処分が下されるような事など今までありえなかったからだ。しかもその処刑の対象が、かつて天使長という身分であった者だという事も、彼女らをさらに興奮させている。
天使の長たる者が、実は魔界の王に想いを寄せており、内通していた……これは前代未聞のスキャンダルだ。日頃上品を装っている天使達の間でも、常にこの噂で持ちきりだった。
――まさか、あのイーリス様が、恐ろしい魔王と……。
――やっぱりあの時城を抜け出したのも、魔王に会いに行く為だったのかしら?
――汚名返上の機会を与えたシルヴィア様の御顔に泥を塗る行為……断じて許せません!
様々な憶測が漂う中、渦中のイーリスは一言たりとも口を開く事は無かった。武装を取り上げられ、取調べを受けている間もずっと。
最初はイーリスを擁護しようとしていた者もいたのだが、彼女のそんな態度と、次第に論調を強めるシルヴィアとその一派に対する恐れもあってか、段々とそういった声も聞こえなくなっていった。それに、あの揺ぎ無い証拠があるのだ。一人の天使がその瞳に焼き付けた、忌まわしい光景が。
そしてついにイーリスに対する処分が言い渡される日が来た。手かせを付けたイーリスが、かつて彼女の仲間であった天使長達の前に引き出される。イーリスの直属の部下であった者達の何人かは、その光景から目をそむけた。
天使長達の最後の詰問が始まっても、目を閉じ、無言を貫くイーリス。やがて、彼女に対する判決が下された。だが、その言葉を耳にしても、イーリスは口を開く事は無かった。
薄暗い地下牢の中でイーリスは一人目を閉じ、考え事をしていた。自分はなぜ、彼女達に対して何の反論もしなかったのだろう。包み隠さずに本当の事を喋っていれば、少なくとも処刑される事は無かったのではないだろうか。
もちろん、あの口付けに関しては何の申し開きも出来ないが、あれとて相手を油断させる為の芝居だ、などといった嘘を付く事は出来たはずだ。イーリスは自分の内側を覗きこみ、心を包む建前の皮を一枚一枚ゆっくりと剥がしていった。
――見苦しく言い訳するのが気に入らなかったからか?
――あの光景を見せられた時の羞恥に耐えられなかったからか?
イーリスは深く深く心の奥底に沈んでいき、そこにあるたった一つの答えを見つけた。そして彼女は目を開く。かすかな笑みと共に。
――なんだ……ワタシは本当にあの魔王の事が好きになり始めているのだな……。
悪魔のくせに、二つの世界を平和にするなどといった、天使ですら考えた事の無いであろう誇大な妄想を本気で実行しようとしている愚かな奴。
異形の頭に隠れた、とても愛くるしい顔。
その顔に似合わず、自分を軽くあしらってしまう程の力強さ。
また、敵であるはずの自分を助けるために死地へと飛び込むその勇気。
その何もかもがイーリスの心を惹きつけているのだ。そして、その気持ちに気付いた以上、もう天使長として働く事など出来ない。自分はあの魔王、それと、今まで共に戦ってきた天使達に殉じて、処分を受け入れようとしているのだ。
――全く、本当に愚かな奴だな、ワタシは……。
心の中で呟いたイーリスの耳に、階段を下りてくる足音が聞こえる。固い石段を叩くその音はどうやら一対のみのようだ。わざわざ彼女の顔を見るために地下牢まで単独でやってくる者など、イーリスにはたった一人しか思い浮かばない。
やがて扉についている覗き窓の向こうに、ランタンらしき赤い光が見えた。窓に明かりをかざし、中の様子を確認しているらしい人影。イーリスは差し込む光のまぶしさに目を背ける。
ドアの向こうにいる存在は、イーリスが大人しくしているのを確認して入り口のカギを開けた。
「ご機嫌いかがかしら、イーリスさん」
鉄製のドアが軋む音を立てながら一人の天使を招き入れる。シルヴィアの声は、肌寒い地下牢には不似合いな、楽しげな響きを持っていた。イーリスも顔を向けながらにこやかにこう答える。
「ああ、そんなに悪くない」
「あらあら、鎖に縛られた状態でそんな口が聞けるなんて……ひょっとして貴方は特殊な趣味をお持ちなのかしら。ああ、でもよく考えたら変態さんなのでしたよね。何しろあんな魔王に想いを寄せるのですから」
「ふん……何しに来た?」
イーリスはシルヴィアの皮肉を取り合わず、単刀直入に聞いた。面白い反応を期待していたシルヴィアは少しムッとしたものの、すぐに余裕を取り戻し、返事をする。
「何しに来たなんて失礼ですわね。私は最後の挨拶にきましたのよ。我々はかつて共に天使長だった者。貴方も何か最後に言いたい事があるのではなくて?」
「別にワタシはオマエに言いたい事など何もないが?」
「ふうっ……相変わらず薄情な人ですわね……全く、私は伝えたい事がいっぱいありますのに……」
手に掲げたランタンの光を浴びて、うっとりと呟くシルヴィア。
「ふふっ、それらをぜ~んぶ聞かせてあげたいんですけど、貴方が抜けた分も働かないといけないので忙しいですし、簡単に言ってあげますわ」
ガラスの中のゆらめく炎がシルヴィアの瞳をキラキラと輝かせる。彼女は年端も行かない少女のように純粋な笑顔を浮かべながら悪意を吐き出した。
「うふふふっ、私ね、貴方の事がだ~い嫌いでしたの。あのいけ好かない態度といい。私よりも早く天使長に選ばれた事といい……全く、こうなってくれてせいせいしますわ。まあ、まさかあんな形でこんな結果になるなんて、思いもよりませんでしたけどね!」
にこやかに悪意をぶつけてくるシルヴィア。こんな事を言うために、わざわざ仕事を抜け出してこの地下牢まで来たのかとイーリスは呆れた。
「ふふっ、そうそう、それからね。貴方の処刑ですけど。私が責任を持って執り行う事になりましたわ。全く、一大イベントですわね。見晴らしのいい島で、綺麗な白い十字架に貼り付けてあげますわ」
処刑という、普通の者ならば気が進まないであろう行為を一大イベントと表現するシルヴィア。イーリスは、自分と同じ天使の彼女がそのような発言をするのを見て、何とも言えない気持ちになった。
――やれやれ、こいつの方がよほど悪魔的な思考の持ち主だな……それに引き換えアイツは……。
イーリスの頭の中に、あの魔王の姿が思い描かれる。恐ろしいマスクの下に隠れている、可愛らしい顔を思い出し、イーリスの唇にかすかな笑みが浮かんだ。それを見たシルヴィアはイーリスに余裕があるように思えて、心に怒りの火を滾らせた。
「何を笑ってらっしゃるんですの? 貴方の処刑ですのよ!? 少しは命乞いとかをして見せたらどう!?」
ああ、なるほど。本当はその光景を見たいが為にここまでやってきたのだな、とイーリスは彼女の行動の訳を理解した。こちらも別にシルヴィアの事が好きだったわけではないが、こんな奴がかつて自分と同じ階級にいたのかと思うと、なんだか情けなくなってきた。
「そうだな、こちらもたった今、オマエに言いたい事が出来た」
その言葉を聞いたシルヴィアはとたんに目を輝かせ、口角を上げながら聞いてくる。
「あらあら、何々、何ですの? 私も鬼ではありませんし、何なら上にとりなしてあげても……」
分かりやすい奴だ、とイーリスも微笑を浮かべながら続けた。
「何、ワタシもオマエと同じ事を言いたいだけだ。処刑された後はオマエの顔を見なくて済むからせいせいする」
シルヴィアの笑顔が凍りついた。イーリスも微笑を浮かべたままだ。しばらくお互いに見つめ合っていたが、やがて怒りを露にしたシルヴィアが憎憎しげに吐き捨てた。
「ほんっとうに最後まで気に入らない方ですわね……ふん、分かりましたわ。処刑の日を楽しみにしていなさい。私の手で貴方の息の根を止めてあげますから」
シルヴィアは憤然と足音を鳴らして出て行った。再び重い扉が閉じられ、明かりが遠ざかってゆく。ふたたび、地下牢を暗闇と静寂が包んだ。イーリスは目を閉じる。
――貴方の事がだ~い嫌いでしたの、か……。
「ふん、そんな事は知っていたさ」
音のない部屋にイーリスの呟きが漏れ、それきりまた無音の世界となった。