第14話
ノエルはその頃、自分の城にこっそり忍び込む方法に頭を悩ませていた。城の主なのだから堂々と帰ればいいのだが、今は正直フローラに顔を合わせたくない。彼女に会った時にどんな態度を取ればいいのか分からないのだ。
――うう……これってひょっとして、いわゆる三角関係ってやつになるのかな……。
役者は魔界を支配する恐ろしい魔王と、それに仕える一人の小間使い。そして最後は仇敵である天使だ。
こんな時、真の魔王ならばその二人をまとめて力ずくでモノにするというのが基本なのかもしれないが、悲しいかな、自分にそんな事が出来るとは夢にも思わない。何度考えても、両者の尻に敷かれる魔王というヴィジョンしか見えなかった。
自分を探しているのだろう、帰還中には翼を持った悪魔達の姿がちらほら見えた。動機は恐怖心から来る義務感なのだろうけど、こうして探してもらえるというのは何だか嬉しい。もっとも、今は彼らの気持ちに答える事は出来ないのだが。
すでに嵐の去った雲の中を、切れ間に気をつけながら飛び続ける。イーリスもこうやって侵入してきたのだろうか。先ほどの事を思い出し、また顔が熱くなる。
――い、いけないいけない。冷静に冷静に……。
深呼吸しながら飛翔し続けているノエルの瞳に、ようやく城が見えてきた。見張りの目に見つからないよう、慎重に慎重に自分の部屋の窓に近づくノエル。もちろん魔王の巨体はここからは入れない。だが、一旦様子を窺う為に彼は自室の割れた窓辺に張り付き、そっと首を出して中の様子を盗み見た。
――よし……誰もいないな……あとは一番近い廻廊からこっそり入って……。
「お帰りなさいませ、主様」
「わあっ!?」
ノエルは驚きのあまり魔王らしからぬ声を出してしまった。いつから隠れていたのだろうか、割れた窓の向こう側に一人の女性が立っていた。もちろん、メイド長フローラである。
「うふふ……何だかこっそりと近づく影が見えたものですから、またあの天使がやってきたのかと思って待ち伏せしていたのですけれど……まさか主様だとは思いもしませんでした」
『あの天使』という所を強調しながら、にっこりと微笑むフローラ。その笑顔は最近よく彼女が浮かべる、ちょっと怖い種類のものだった。要するに彼女はご機嫌ナナメなのである。
「え、えっと……た、ただいま戻りました。フローラさん……」
魔王の姿をしている事も忘れて、ついノエルとしての喋り方をしてしまう。フローラはそれには答えず、ぷいっと後ろを向いてしまった。
「全くもう……心配……したんですからね……あんな、危険な場所に行くなんて……」
かすれた声で途切れ途切れに言葉を口にするフローラ。もしかして泣いているのだろうか?
「貴方は……魔王なのですから、ちゃんと、城門から……堂々と入ってきてください……皆も、心配していたのですよ……?」
「う……」
正直、そんなに危険な事をしたという自覚はノエルには無かった。少なくともこの瞬間までは。しかし、冷静になって考えてみると、自分が無事戻れたのは僥倖以外の何物でもないのだ。あの大渦に飲み込まれたモノは皆、例外なく消滅してしまうのだから。
「うん……ごめんなさい……フローラさん……」
ノエルは素直に謝った。自分の軽率な行動に。そして、フローラを悲しませてしまった事に。
フローラは背を向けたまま、顔の辺りを手でごしごしと拭いて、こちらに振り向いた。まだその目は赤い。けれども無理矢理笑みを作ると彼女は言う。
「主様? その言葉は皆の前で言ってあげてくださいね。ちゃあんと魔王らしく、ですけど」
「う……はい……がんばります……」
つられてノエルも少し微笑む。部下の悪魔達に何と言おうかと頭を悩ませつつも。
「魔王様のお帰りである!! 門を開け!!」
門番が張り上げる声に応えるように、城の門が開く。その先にはいつものように、数多の兵や、小間使いが立ち並ぶ。皆、さまざまな表情を浮かべて。
まずは何と言おうかと思いながら、ノエルは城門をくぐる。
――心配をかけたのは事実だけど、謝るのもなんだか魔王らしくないよなあ……。
またいつもの魔王らしくしなければ、という考えの下、必死で頭を捻るノエルだったが、どんな風に言えばいいのかさっぱり思いつかない。だが、自分を出迎えた悪魔の中に見慣れた卑小な姿を見つけた時、自然と口が動いていた。
「ふん……残念そうだな? ゼイモスよ」
途端、標的となった悪魔は慌てて額突いた。これもある意味自然な行動であったかもしれない。
「な、なにを仰るのですか!? 魔王様! わ、わ、わたしなど、おそらくこの城で、い、一番貴方様の無事を願っていた者でありますのに!!」
がくがくと震えながら――もちろん心の片隅で考えていた事を見透かされた事に――必死に弁明をするゼイモス。そんな下僕に、魔王はゆっくりと近づく。
「ふむ……実はあの天使は、俺を姑息にもあの次元の裂け目に引き込もうと策を弄していたわけだが……どうという事はない。あの渦ごと蹴散らしてやったよ」
おお……!! と周りからも声が上がる。自分達の主の強さに酔いしれるように。ゼイモスも慌てて顔を上げながらそれに追従する。
「さ、さすがは魔王様! あの恐ろしい次元の裂け目すら物ともせぬとは!! 貴方様の強さに叶う者など、もはや誰もおらぬでありましょう!」
その世辞にまったく表情を動かさず、彼は不機嫌な声で続けた。
「ふん……そうだ。もはや天使など敵ではない。だがな……一つだけ気がかりがある」
ゆっくりと腰をかがめ、ゼイモスに視線を合わせる魔王。彼我の身長差が大きいため、間近で覗きこむという風には出来なかったが、おそらく魔王としてはそのつもりであったろう。恐怖のあまり目を逸らしたいと思いながらもそんな恐ろしい事も出来ず、必死でゼイモスは魔王を見上げた。
「最近、どうも俺に対して反感を持つ連中が、こそこそと何かを企んでいる、という噂が耳に入ってな……」
ぽん、とゼイモスの肩に軽く手を乗せる魔王。実際、魔王は軽く乗せただけだが、ゼイモスにとっては巨大な錘を乗せられたかのように感じられた。
「は……はひ……そ、それは恐ろしい事を考える愚かな奴もいた事で……」
震える声で相槌を打つゼイモス。何時の間にやら周りの悪魔達も一言も発しなくなっている。この静寂に恐怖を感じながらもゼイモスは魔王の言葉を待った。
「まあ正直、そんなやつらが束になってもどうと言う事はないが……少々面倒だと考えている。そう、ほんの少しな?」
鉤爪を備えた魔王の手に軽く力が込められる。ゼイモスは極大の万力で肩が潰されるかような錯覚を起こしていた。
「はっ……! はひぃっ……! まったく、面倒な事で……!」
恐怖と痛みに顔を歪めながらも、やはり相槌を打つしかないゼイモス。
「ふん……そこでだ……お前が常に周りに目を光らせ、そんなわずらわしい事が起きないようにしろ……理解したか?」
その時の魔王のぎらつく目は、分かってるんだぞ? と言っているようにしかゼイモスには見えなかった。ついにゼイモスは泣きじゃくりながらわめき出す。いつものような哀れを誘う声で。
「わ、わがりまじだあっ!! わだぐじが責任を持っでそんな事がおぎないようにじまずうううっっ!!」
その答えに満足したのか、魔王は恐ろしげにニヤリと笑い、ようやく腰を上げた。その邪悪な笑みに、周りの部下達も新たな恐怖を感じて震えている。自分の支配力が部下達に及んでいる事を確認するかのように、魔王は彼らをゆっくりと眺め……いつもの圧力を感じさせる声で部下達に言った。
「よし、お前たち、ご苦労だった。持ち場に戻れ」
やがて颯爽と彼は歩きだす。地べたで震えるゼイモスと、まだ恐怖から立ち直れていない悪魔達を残して。