第13話
柔らかい風が二人の男女の顔を撫でていく。普段ならば戦場でしか対峙する事は無いであろう、悪魔の男と天使の女。だが今はお互い武器を抜く事もなく向かい合っていた。男は砂の上に正座をし、女は腕を組んでそれを見下ろした体勢で。
「あの……その……イーリスさん……」
「何だ童貞」
ノエルは口ごもる。先ほどからずっとこの調子だ。よほどあの時の事が腹に据えかねていたのか、イーリスはノエルの事を名前で呼ばない。先ほど一応自己紹介は済ませたのだが。もちろん、こんな着ぐるみを着ていた理由も全て説明した。
「ふん……まったく、まさかあの恐ろしい魔王がこんな張りぼてだったとはな……」
イーリスは不機嫌そうに、正座しているノエルの隣にある抜け殻の着ぐるみを見つめた。 確かに精巧に作られている。正直こういう風に中身ががらんどうである事実を目にしていなければ、作り物であるなどという疑問は露ほどにも浮かばないだろう。
その着ぐるみは前方がぱっくりと二つに裂け、内部の構造を晒していた。これも先ほどの魔王のマスクと同じでイーリスには理解できないパーツがごてごてと付いていた。
「しかし……結局騙されていたわけか……天使達も悪魔達も」
まさかあの恐ろしい魔王の中身がこんな少年だとは、悪魔達ですらここの砂粒ほどにも思うまい。もちろん天使達については言うまでもない事だ。しかもその恐ろしい魔王が、今自分の前に正座し、こちらの機嫌を伺っているのだ。シルヴィアがこの事実を知ったらいったいどんな顔をするだろう。
イーリスもあの魔王に一矢を報いる事が出来ればと、わざわざここまでやって来たのだが、まさかこんな結果が待っていようとは……正直、全く気分が高揚しない。むしろ何だかイライラするのだ。その理由はイーリスにもよく分かっていなかったが。
「おい童貞」
「は……はいっ……」
慌てて返事してしまったノエルは多少の自己嫌悪に陥る。せめて、ちゃんと名前で呼べだとか、その高圧的な態度を止めろだとか、魔王らしい振る舞いがあるのではないか? そうだ、自分は魔王なのだし、辱めを受けているかのようなこの状況を打破しなくては。
ノエルは勇気を振り絞って、彼女に反論する為に喉を震わせた。
「な、なんでしょうか? イーリスさん?」
愛想笑いと共に出てきた言葉はとても卑屈な物だった。目の前の天使の顔が嫌悪に歪む。
「やれやれ……魔王ともあろうものが、そんな情けない態度でいいのか? 以前ワタシと戦った時の高圧的な言動はどうした? それともその着ぐるみを着ないと何も言えないのか?」
「そっ、そんな事はないよ! それに、別に好きであんな傲慢な振舞いをしていた訳じゃ……」
「そうか? 嬉々としてああいうポーズを取っているように見えたが?」
「う……それは、その……」
自覚があったのか、痛い所を突かれてノエルは目を逸らした。確かに、悪魔達や天使達が自分を恐怖の眼差しで見上げる光景に、まったく興奮を覚えなかったといえば嘘になるかもしれない。しかし、あれはあくまで魔界を平和に統一するためのやむを得ない処置であって、別にそれが楽しいからしていたとかそういう理由ではない……はず。
けれどもそういう迷いを見て取ったのか、イーリスは何だか冷ややかな視線を投げかけていた。
「つまりオマエはその圧倒的な力と恐ろしい容貌でもって、魔界を支配しているだけではないのか? そしてそれに飽き足らなくなったオマエは、ついに天界をも手中にいれようとした……」
「そ、それは違うよ! さっきも言ったように、僕は魔界を平和に納めたいと思っているだけなんだってば! あと可能なら天使達とだって仲良くしたい……」
「フン……お題目は立派だが、それはおそらく無理だろうな」
「な、なんでだい?」
「はっきり言うが、我々は恐らく永劫に分かり合えない種族だろう。きっと天地が分かれた時からそういう決まりなのだよ。少なくとも、我々の間にそんな時代があったという歴史はこれまでに無かっただろう?」
「それはやってみないと分からないじゃないか?」
「他にもまだある……仮にオマエがその夢物語を他の悪魔達に伝えたとして、それについてくる悪魔達がいると思うか? おそらくまた内戦状態に逆戻りだ。そう思っているからこそ、オマエもこの演技をずっと続けているわけだろう?」
「う……」
「全く……そんな子供じみた事が実現できると思っていたのか? 砂糖菓子のように甘い奴だな、オマエは」
ノエルは何も反論する事が出来なかった。もちろんイーリスの言う事が正しいと思ったからである。いや、きっと心のどこかで、そんな事は不可能だとずっと思っていたのだろう。口ごもるノエルの姿を見てイーリスはため息をついた。
「はあ……まあ、正直オマエみたいな悪魔がいたという事実は、中々面白い発見ではあったがな。天界で発表したいくらいだ」
ノエルは馬鹿にされているのか、褒められているのか分からなかったので、何も言えずイーリスの様子を窺った。まあおそらくは前者だっただろう。イーリスはそんなノエルを見下ろしながら、不愉快そうに命令口調で言った。
「ほら、そろそろ立て。それとも女にいいように責められるのが好きなのかオマエは?」
「ち、ちがうよっ!!」
ノエルは慌てて立ち上がった。
――そりゃフローラさんにも頭が上がらないけどさ……ノエルは心の中で呟きながら、服についた砂を払う。そして、ゆっくりとイーリスを見上げた。……そう、見上げた。
「……オマエひょっとしてワタシよりも背が低いのか?」
「こっ、これは靴の差だよ!」
そう、ノエルはイーリスよりも目線が低かったのである。たしかにノエルの言うとおり、靴を履いているイーリスと、履き物をしていない今のノエルでは身長に差が出るのは当たり前だが、それを差し引いてもイーリスの方に軍配が上がりそうであった。ほんのわずかな差ではあるだろうけど。
「……全く……本当にこんな奴にワタシが……」
不満そうにぶつぶつと呟くイーリス。その頬はなぜだかうっすらと朱に染まっている。怪訝に思ったノエルはイーリスに問いかけた。
「どうかしたの? イーリス」
「なんでもない! というか、今気付いたが名前で気安く呼ぶな! この童貞!」
イーリスは顔を赤くしながら――おそらく先ほどとは違う理由で――まくし立てる。また童貞呼ばわりされたノエルは、少し涙目になっていた。
「そ、それじゃ何て呼べばいいのさ……というかむしろ僕としては名前で呼んで欲しいんだけど……」
「ふん……オマエなんか童貞で十分だ」
すげなくノエルの意見を切って捨てるイーリス。
「じゃ、じゃあ僕だって君の事を処女と呼……ぐへっ!?」
いらない事を言ってしまったノエルにイーリスの右ストレートが突き刺さる。拳をぐりぐりしながらイーリスは凄んだ。
「あ? 何か言ったか?」
「な、なにも言ってません……ごめんなさい……」
ふん、と未だ不服そうに鼻息を出しつつも、拳をノエルの顔からどけるイーリス。ノエルは彼女に対して全く頭が上がらない自分に気付いていた。フローラに対する時といい、自分は先天的に女性に敵わない性質なのだろうか?
ノエルは一人思考の渦に嵌っていた。何だか悩み出したノエルを落ち込んでいると思ったのか、イーリスはやや気まずそうに視線をそらし、口を開いた。
「あー……まあ確かにお互いに名前を呼ばないのは不便だな……特別に名前を呼ぶ事を許してやる」
すごく尊大な事を口にするイーリス。しかし、それを耳にしたノエルの表情はぱあっと輝いた。
「本当!? ありがとう!」
さっきまでの泣きそうな顔が嘘に思えるくらい、屈託のない笑顔を浮かべるノエル。その笑顔を見たイーリスは心の中で呟いた。
――全く、何だかワタシの方が魔王みたいじゃないか……。
「これからもよろしくね、イーリス!」
「あ、ああ……こちらこそよろしくな、ノエル」
この時初めてノエルの名を口にしたイーリス。その表情は、天使の長を務める者らしくない、なんだか間の抜けた顔だった。
ようやくお互いの名前を呼び合った二人。イーリスはふとある事を思い出し、大地に鎮座しているそれを指差した。
「ところで、その着ぐるみだが……壊れたりはしていないのか?」
彼女が指し示したのは、ノエルがいつも纏っている大きな魔王のパーツだ。主が中にいないそれらは、それこそ死んだようにぴくりとも動かない。
――魔王を倒したと言ってこれを天界に持ち帰っても、誰も信じてはくれないだろうな。イーリスは半笑いを浮かべて首を小さく振った。
イーリスのやや不安げな疑問に、ノエルは特に気にした様子もなく答える。
「うん……結構頑丈に作ってあるから大丈夫なはずだよ。ちょっと試してみようか」
ノエルはこちらに向かって内装をさらけ出している胴体に近づく。そして、着ぐるみに対して背中を向け、そのまま体をスーツの中に押し込んだ後、内蔵されているボタンを押した。
「っ!?」
驚くイーリスの前で、スーツは前面が閉じられ、一瞬でノエルの体をあの恐ろしい魔王の体が包み込む。もっとも、頭がまだ可愛らしいノエル本人の顔のままなので、かなり滑稽な姿である。
その姿のまま準備運動らしき動作をするノエル。イーリスはその間抜けな光景に笑いを堪える事が出来なかった。
「くくっ……! オマエ、今度からずっとその格好でいたほうがいいんじゃないか!? きっと魔界も平和になるぞ?」
イーリスの冷やかしにノエルは今の自分の姿を思い出し、赤面した。
「だ、駄目だよ。こんな格好じゃ迫力がないから……ちゃんとマスクを付けないと」
運動をやめたノエルは、地面に転がっている頭部パーツを拾い上げ、被った。
「うん、機能に問題は無いみたいだ」
「っ!?」
今度は先ほどとは違う理由で驚くイーリス。先ほどまでの愛くるしい声ではなく、魔王としての、低い、威圧感のある声がその口から漏れ出たのだから無理もない。
「そ……それもその着ぐるみの機能なのか……?」
「うん……じゃなかった。ああ……その通りだ。お前たち天使には想像もつかん高度なテクノロジーだ」
着ぐるみの中に入った事で身長が高くなったノエルはイーリスを見下ろし、いきなり尊大な口調で喋り始めた。魔王の姿をしている時にはそうしなければならないという、彼の悲しい習性なのだろうか。さきほどまでの、腰の低いノエルの正体を知っているイーリスに対しては何の威厳も無かったが。
「はあ……全く。オマエは凄いのか馬鹿なのか分からないな……」
イーリスのかすかな呟きが砂塵に乗って消えていった。
しばらく他愛の無い会話をしていた彼らだが、そろそろお互いの領地に帰らなくてはいけないだろう。もう、二人の体に疲労は残っていない。ここに留まる理由は無い。
魔王と天使はどちらからともなく目を合わせ、飛んだ。
彼らは高く舞い上がり、雲を付きぬけ、そして、先ほどあの大渦が発生した、魔界と天界の境目で向かいあう。
「ここからが天使の領域だ。そしてそちらは悪魔の領域」
険しい顔をしたイーリスは、空中の一箇所を指でなぞってラインを引く。そう、今彼らの間に一本の見えない線がある。そこに何かがあるわけでもない、ただの見えない一つの境界線、ただの不文律。だが、決定的に彼らを隔てる大きな壁が。
「うん……」
ノエルはうなずく。イーリスは冷徹な表情を崩さずに続けた。
「そしてワタシは天使だ。そしてオマエは悪魔なのだ」
「うん……」
うなずく事しか出来ないノエル。恐ろしいその声音は魔王としてのモノだが、寂しげなその言葉はノエルとしてのモノだった。結局、自分達は相容れない者同士なのだとイーリスは言いたいのだろう。先ほどの時間は、所詮小さな奇跡でしかないのだと。
「その……もう会えないのかな……? 敵同士とかじゃなく……」
おずおずと口を開くノエル。魔王の振りを忘れてしまったかのように、その声は儚げだ。厳しい表情でノエルを睨みつけていたイーリスだが、その顔がふっとやわらいだ。
「全く……そんなに悲しそうな顔をするな」
「う……でも」
俯く魔王の顔。そのミスマッチな光景にイーリスは噴出す。
「くくっ……今でもオマエがあの恐ろしい魔王だなどとは信じがたいよ」
「あうう……ご、ごめん……」
ますます下を向いてしまう魔王。そんな彼に、イーリスはやれやれと呟きながら、言の葉を紡ぐ。
「なあ魔王……いや、ノエルよ。そんなに卑屈になるな。少なくとも、ワタシは尊大な態度を取っているオマエも嫌いではなかったぞ」
「えっ!? えっ!? えっ!?」
びっくりして顔を上げた魔王の口から混乱したような声が漏れる。ノエルの慌てた声が、威厳ある悪魔の王として音声変換されているのだから、かなりユーモラスな状況だ。だがイーリスは、そんな魔王を見てにこりと笑った。ノエルが今まで見た事の無かった、彼女にとても似合う、魅力的な笑みで。
「そういえば、礼を言っていなかったな。ワタシをあの時助けてくれてありがとう。正直、オマエが守ってくれなかったら、ワタシはあの渦に飲み込まれて消滅していただろう」
イーリスの笑みに見蕩れていたノエルは、しばらく心ここにあらずといった感じだったが、お礼を言われた事に気付いて慌ててイーリスに返事をした。
「う、う、うん。その……どういたしましてっ!!」
マスクに隠れて見えないが、おそらくノエルの顔は真っ赤になっているのであろう。イーリスはくすくすと笑うと、魔王にそっと体を寄せて……。
「これはほんの気持ちだ。貴重なものだぞ。受け取ってくれ」
そして、魔王のマスクの頬に軽くキスをした。もちろんマスクの上からなので、彼女の唇の感触など分かるはずも無かったが、ノエルをパニック状態にするにはそれだけでも十分だった。
「~~~~!!」
ノエルから体を離したイーリスも、こんな事をしたのは初めてなのか、頬を朱に染めている。そして照れ隠しなのか、視線を合わせず口早にこう言った。
「ではな……また会おう」
そして、彼女は羽根を広げ、飛んでいってしまった。彼女の帰る場所である天界へ。ノエルは、どんどん小さくなっていく彼女をぽかんとしながら見送った。
「キス……されちゃった……」
少しだけ動揺が収まったノエルは、この日、キスをされたのが二回目である事を思い出していた。なんだか遠い昔の事のようであるが、飛び出してくる前に、フローラにもマスクの上からキスをされていたのだった。先ほどイーリスがしてくれた場所の、丁度反対側に。
「こ、今度イーリスに会ったらどんな顔をすればいいんだ!? い、いや、それよりもフローラさんにどんな態度を取ればいいんだろう!?」
魔王らしくもなく、頭を抱えるノエル。城に帰る事も忘れ、魔界と天界を隔てるボーダーラインでしばらく悶々としていた。
魔王を混乱させた張本人のイーリスは、ひたすらに天界を目指して飛んでいた。自分の火照った顔を冷まそうとするかのごとく、可能な限りの最高速で。
「くそっ……バカな事をしてしまった。なんであんな奴にあんな事を……!」
あんな事とはもちろん口付けの事である。彼女は今まで誰かに対してそんな行為をした事は無かった。
「いや……まて、あれは頬っぺただ。それ以前にあれはマスクの上からした事だ! ノーカウントだ! ノーカウント!」
らしくもなく、ぶつぶつと呟きながら飛翔し続けるイーリス。その彼女の心の死角を突くように、それはいきなり襲い掛かった。
「!?」
飛び続けるイーリスの前に、突然巨大な蜘蛛の巣のごとき、白い網の目が広がった。イーリスは慌てて飛行角度を変えようとするが、速度を出しすぎていた事もあり、それを避ける事もできずそのまま突っ込んでしまう。
蜘蛛の巣の中心にかかったイーリスを、花びらがつぎつぎと閉じていくようにねばつく太い糸が包み込んでいく。
哀れ、彼女は繭の中に捕らえられた虫のように、身動きの取れない状態になってしまった。
「な……!? 対悪魔用捕縛トラップだと!? どうして……」
繭の中でもがくイーリス。そんな彼女に聞き覚えのある高慢な声が降り注いだ。勝者の余裕を滲ませながら。
「あらあら、貴方みたいな方にはお似合いだと思いますけれど? 元第六天使長のイーリスさん」
イーリスはその声の方に振り向いた。といっても、自由に体が動かない状態だ、目をそちらに向けるのが精一杯だったが。
「シルヴィア……! これは一体何の真似だ!?」
凄まじい怒りを視線に込めながら、声の主を睨みつけるイーリス。だが、シルヴィアはそんな視線など気にもならないのか、ふっと肩を竦めた。今更気付いたが、イーリスの周りを下級天使達が取り囲んでいる。彼女達は全員イーリスに対して冷ややかな視線を投げていた。
「ふふっ……何の真似だと言われても……私は貴方に対して相応しい行動を取っただけですわ……悪魔の手下となった貴方にね」
「なっ!?」
驚愕するイーリス。しかし、周りを取り囲んでいる天使達に動揺の気配は無い。彼女達は全員、シルヴィアの発言を受け入れているようだ。イーリスは何とか言葉をひねりだし、反論した。
「バカな……ワタシは悪魔の手下になどなっていない! 訳の分からない事を言うな!!」
シルヴィアはいっそう口角をつりあげ、やれやれと首を振った。
「まったく、しらばっくれるとは潔くありませんわね……貴方が魔王の軍門に降った事はすでに周知の事実なのですよ?」
「な、何を言っている!? そんな事がある訳がないだろう!!」
「ふうっ……仕方ありませんわね……ルキア! こちらにいらっしゃい!!」
「はっ!!」
ルキアと呼ばれた少女がシルヴィアとイーリスの前に進みでた。彼女はシルヴィアに対して恭しく一礼をした後、イーリスの方を敵意の篭った視線でにらみつけた。イーリスはこの少女とは面識がなく、自分がなぜそんな目で見られるのか見当もつかない。
「ふふっ……この子は偵察隊の一員なのですけど、今日、とても興味深い光景を彼女は発見しましたの。そしてそれを目に焼き付けて帰ってきてくれたのですわ……言葉通りにね」
偵察隊として育て上げられる彼女達は、自分が見たものを瞳に文字通り焼付け、それを後で空間に投影する能力を持つ。当然イーリスもそんな事は知っていた。
「偵察隊の能力に関してはワタシも勿論知っている! 一体何を見てきたというのだ!!」
「あらあら……ふふふっ……正直貴方にとっては恥ずかしい光景なのですけど……見たいというのでしたら仕方ありませんわね……ルキア!」
「はい……」
ルキアは目を閉じ、力を集中させる。空間に画像を映し出す為の準備をしているのだろう。だが、それよりもイーリスは、今のシルヴィアの台詞に不吉な予感を覚えていた。
――恥ずかしい光景だと!? まさかそれは……!!
先ほど自分が顔を真っ赤にし、脇目も振らずに高速で飛ぶ原因となった出来事がイーリスの頭に蘇る。あの黒き悪魔に体を寄せて、そっと……。
「よせっ!! やめろ!! やめてくれ!!」
その事に思い当たったイーリスは必死に叫ぶ。しかし、そんな哀れな悲鳴はもちろんシルヴィアを喜ばせるだけだった。シルヴィアは可笑しくてたまらないといった表情をしながら、とどめとなる命令を下した。
「ふふっ!! 悪魔の手先となった者の懇願など聞く必要はありませんわ!! やりなさい、ルキア!」
やがてルキアの瞳が開き、そこから空に向かって光が放たれる。そして、雲がゆっくりと流れる蒼穹に、モノクロームで切り取られた光景が映し出された。それは、イーリスが最も恐れていた瞬間を写したものだった。
一人の天使の少女が、恐ろしい魔王に口付けている瞬間の……。
「うふふ……! あはははっ……! まさか天使長ともあろう者が、魔王に懸想するなんてね!前代未聞ですわ!!」
「ああ……」
がっくりとうなだれるイーリス。もちろん、あのキスはそういうつもりでしたものではなく、彼女が魔王の手下になった訳でもない。だが、そんな言い訳が通じると思うほどイーリスは愚かではなかった。こんな決定的な画像が語る以上の真実があるだろうか?
「うふふふっ……全く……最低ですわね、貴方は!! これは上の方たちにもきっちりとした裁きをしていただかなくては、示しがつきませんわ!!」
白黒の画像の前で、高笑いを続けるシルヴィア。イーリスは、その哄笑が聞こえなくなるように聴覚をシャットアウトした。ゆっくりと意識を沈めていくイーリス。なぜか最後に浮かんだのは、自分がこんな目にあった元凶とも言える、あの魔王の姿だった。