第12話
「ぅ……うん……」
イーリスは目を開いた。やがて瞳は焦点を絞り、遥かに高い空が彼女の目の中に飛び込んでくる。彼女の瞳に映るもの、それはどこまでも広がる蒼穹と、風に任せ、優雅に流れる白い雲の群れだけだった。
「こ……ここは……?」
どうやら気絶していたようだ。イーリスは慌てて上半身を起こす。体の節々が痛んだため、途中からゆっくりとした動きになってしまったが。イーリスは自分の所在を確認する為に周りを見渡した。
ここは、というかこの一帯は、巨大なクレーターのようになっていた。イーリスはその大きなすり鉢の中に倒れていたのだ。
「そ、そうか……ワタシはあの時、魔王に助けられて……」
おそらくこのクレーターも次元の裂け目による物だろう。気が遠くなるほどに大きい傷跡がこの大地に穿たれていた。
イーリスは今になって体が震え出している事に気付く。先ほどは無我夢中で実感が無かったが、あれに飲み込まれていたら本当に跡形も無くなっていただろう。イーリスは体を抱きしめ、恐怖が去ってくれるのを待った。
「そういえば……あの魔王は!? まさかあれに飲まれてしまったのではないだろうな!?」
本人の立場からすると、それはきっと望ましい事なのだが、イーリスはそうあって欲しくないと思っている自分に気付いた。
――そうだ、あの魔王を倒すのはこのワタシの役目なのだ。あの恐ろしい悪魔が、あんな大渦などにやられるはずがない!!
イーリスは痛む体に鞭打って立ち上がり、歩きだした。もちろん、どこかにいるであろう、あの憎たらしい魔王を探す為に。とはいえ、あの魔王を探し出して一体どうしたいのか、彼女は心の内に答えを見つける事は出来なかった。
広い荒野をひたすらに歩き続けるイーリス。ただただ魔王の姿を求めて。
しかし、本当にこのクレーターには何もない。周りを見渡しても視界に入ってくるのは、天界と魔界の砂が交じり合ったような砂礫の大地のみ。聞こえる物といえば、やわらかな風の音と、彼女が身につけている細剣の刀身と鞘が奏でる、無機質なハーモニーだけだった。
「飛べるなら楽に探せるのだが……」
呟きながら彼女は翼に力を入れる。だがその瞬間、彼女が予想していた通り背中に鋭い痛みが走った。あの大渦から逃れようとした時に負担をかけすぎたのだろう。イーリスは首を力無く左右に振った。
「しばらく翼は使えないか……全く、様は無いな……」
羽ばたく事は出来なくともこの両足で探す事は出来る。彼女は腐る事なく、周囲に気を配りながら捜索を続けた。
「ん……? あれは……」
イーリスの目に、なにやらおかしな物が映った。いや、あの形はどこかで見た事がある物だ。それが単体で存在するという事はまずありえないので、見た瞬間にはその正体に全く気がつかなかったのだ。イーリスは駆け出した。
「魔王……」
それは、あの恐ろしい悪魔の頭だった。生気が無くなったその目は、虚ろに空を見つめている。これが、この場にこんな形で投げ出されているという事は、答えは一つしかない……。
「やはり、オマエはあの次元の裂け目に飲み込まれてしまったのか……?」
イーリスは、寂しげに呟いた。こんな決着の付け方を望んでいたわけではないのに……あの悪魔は消えてしまった。最後に敵である自分を助けて。
「所詮、ワタシはオマエの足元にも及ばない存在でしかなかったというわけか……」
イーリスの頬を涙が伝い、砂の大地にいくつもの染みを作っていく。この零れ落ちる雫が、悲しさによるものなのか、それとも悔しさによるものなのか、もはやイーリスには分からなかった。
「馬鹿な奴だ……なぜあんな事を……」
感情の整理もできぬまま、イーリスはその頭を抱き上げようと手を伸ばした。
――この魔王の墓でも作ってやろうというのだろうか? 自分も馬鹿な事をしているな……。
そう心の片隅で感じつつ、捩れた角が生えたそれを持ち上げ……イーリスはある事に気付いた。
「む……? 何だ? ずいぶんと軽いな……」
いくら頭だけしか残っていないとはいえ、天使達の攻撃を物ともしなかった強靭な肉体の一部なのだ。これほどまでに軽いという事があるだろうか。彼女はその頭を持ち上げ、ふと思いついてその頭――もちろんノエルが作った魔王のマスク――を裏返してみた。
「……!?」
そして彼女は絶句した。当然、そこに凄惨な切り口を見たからではなく、ただの、がらんどうな空間を見たからである。正確にいうとただ空っぽだった訳ではなくて、いろいろと訳の分からないパーツが内側に所狭しと付いていた。
だが、これがどう見ても魔王の生きた頭では無かった事は明白だった。頭に生えている捩れた二対の角も、拳で叩いてみるとコンコンと軽い音を返してきた。
「こ、これはまさか……ただの被り物か!?」
イーリスは愕然と呟き、よろめいた。今まで信じていたものが音を立てて崩れていくような感覚を覚えて……。
――ま、待てよ!? 待て待て! 何だか大事な事を忘れていないか!?
慌ててかぶりを振り、自問するイーリス。
――これと同じ光景をワタシはどこかで見なかったか!?
そう、それも最近だ……夢の中か何かで。目を閉じ、暗闇の中で記憶の糸を手繰るイーリス。どこかで……どこかで……。
しばらくして、彼女はゆっくりと瞼を開けた。
「そうだ……てっきり死の間際に見た夢だと思って忘れるところだった……」
イーリスはあの時、確かに見ていたのだ。あの恐ろしい悪魔の頭が外れ、中から全く魔王の二つ名に相応しくない、とても可愛らしい少年の顔が現れたところを。
「あいつが……魔王の正体だったというのか? あんな虫も殺せなさそうな軟弱な顔の奴が?」
先ほどとは違う理由で放心するイーリス。しかし、やがて彼女の体が小刻みに震えだした。もちろん恐怖の為ではない。
「ふ、ふふ……つまりワタシを騙していた訳か……!? こんな……チンケな張りぼてで!?」
彼女の目が激しく燃え上がった。先ほどまでの、戦う目的すら失いかけていた彼女とはまるで別人のようだ。
「ふふふ……これがここにあるという事は、本体も近くにいるという事だろう……? まさか渦に飲み込まれてはいまい。思い知らせてやらねば気が済まん……!」
イーリスは低い声で呟きながら、荒々しい足取りで魔王の捜索を再開した。その表情は、どこかしら楽しげに見えた。
砂礫が風に乗ってサラサラと流れていく。あの渦からの逃避により力を使い果たしたのか、魔王は空に顔を向け、何も無い大地に横たわっていた。少女のような、愛らしい顔をむき出しにして。首より下は恐ろしい異形の形をしているが、それも首回りを良く見ると、作り物である事が容易に分かる。
「ふん……やはりそういう事なのか……」
魔王を見下ろす天使――イーリスは独りごちた。彼女はやがて、ぴくりとも動かない魔王の体に馬乗りになり、むき出しの少年の顔をそっと両手で包んだ。顔を近づけてみると、少年の可愛らしい口からは小さな吐息が漏れているのが分かる。どうやら命に別状は無いらしい。複雑な気持ちのまま、イーリスはその顔を見つめた。
可愛らしいその顔と、その首から下の恐ろしい悪魔としての外見。そのギャップは、彼女から憎しみを奪い去っていた。もちろん、まだ怒りそのものは心の中に残っているままだが、いつのまにかこの悪魔の事をもっと知りたいという欲求が彼女の中に芽生えていた。実際、魔王の本当の姿すら彼女は知らなかったのだから。
「オマエが……魔王……」
いったいコイツは何者なのだろう? この可愛らしい顔が、本当の正体なのか? そして、内面はやはり、魔王の二つ名に違わぬ残酷な精神を持ち合わせているのか? しかし、この悪魔はさっきワタシを助けてくれた……。
では、この顔つきから予想されるような、優しい心を持った悪魔だとでも言うのか? あの常々吐き出されていた傲慢な台詞は演技か何かだとでも?
イーリスがその事を考えた時、彼女は先日この魔王から言われたある言葉を思い出し、かあっと顔が熱くなるのを感じた。そう、こいつはあの時あんな事を言ったのだ。やはりこの場で始末するべきではないか!?
憤怒の形相で物言わぬ魔王を睨みつけるイーリスだが、この顔を見ている内にある事に気がついた。
あの時、この魔王はあんな発言をしたが、ひょっとするとコイツも……、……なのではないだろうか……?
「う……ううん……」
その時、ついに魔王の口がかすかに動き、覚醒の気配を見せた。だが、イーリスはそれに大した反応もせず。この体勢のままで彼の目覚めを待った。彼があの恐ろしい魔王なら危険な行為のはずだが、きっと大丈夫だろうとイーリスはすでに確信していた。やがて、魔王のまぶたがぴくりと震えた……。
ノエルは、金縛りにでもあっているかのような気持ちになっていた。昔、着ぐるみを着たまま眠ってしまった時、朝になって目が覚めた時に感じたものと同じ感覚だ。でもその割には頭の辺りに風が当たって気持ちいい。寝ぼけながらも、ノエルは口を開いた。
「んん……もう朝なの……?」
こぼれ出た声はいつもの自分の声だった。
――うん、別に間違って魔王の姿のまま寝てしまったわけじゃ無いみたいだ。
「ふ……ふふっ……」
――え!?
いきなり聞こえた自分以外の声に慌ててノエルは瞼を開く。しかし、目に飛び込んできた強い光に慌てて目を閉じる。だが、一瞬だけ女のようなシルエットが見えた。
――な、何? ここはまさか外なの? そして誰か僕の上に乗ってる!?
パニックを起こすノエル。先ほどの笑い声の主は、こみ上げてくる笑いを抑える事が出来ないようだった。
「あはははっ……さ、さっきの声……! 可愛らしかったぞ……!!」
上から聞こえてくる笑い声。
――ま、まさかメイドさんの誰かに僕の正体がばれた!?
ノエルはまぶしさに耐えながら、恐る恐るもう一度目を開けた。そして、ある意味さらに悪い事態が発生している事を理解してしまった。
「き、君は……!? イーリス!?」
動転し、ノエルとしての口調で喋ってしまったが、よく考えてみると魔王のマスクが外れた状態だったので、ある意味恥の上塗りにならずに済んだのかもしれない。なぜかあの天使長イーリスがノエルの上に乗っかっているのだ。
――い、いったい何がどうなってるんだ!?
頭を目まぐるしく回転させるノエル。そして、自分が何をしたのかが少しづつ甦る。そうだ、咄嗟だったとはいえ、たしかあの時……。
――そうだった……あの時僕は彼女を助けようとして、あの大渦に……。
寝ぼけた頭が段々覚醒してきたのか、ノエルは最後に何があったのかを思い出す。あの渦の奔流に引かれ、マスクが外れてしまったのだ。フローラとナナ以外は知らない、この少女の様な外見をずっと隠してきたマスクが……。
そして、今、天使長イーリスにもそれを知られてしまったという事か。
しかしその落胆よりも、彼女を助ける事が出来たという満足感の方がノエルの中では大きかった。そして、もう芝居を続ける必要が無くなってしまったという事も。だから、ノエルは彼女に聞いた。
「あの……イーリス……怪我は無かった?」
さきほどまで笑っていたイーリスだが、ノエルの問いかけを耳にすると、一瞬で真剣な表情に切り替わる。
「ああ……何とか無事だった。オマエに助けられたのは正直気に入らないが」
イーリスの口から悔しそうな声が漏れる。やはり、悪魔に助けられたという事実は彼女にとって複雑なのだろう。
「だが、それとは別に聞きたい事がある……オマエは一体何者なんだ……?」
イーリスの目に光が宿る。そして、彼女の手が腰の細剣に掛けられている事にもノエルは気付いた。でも、きっとこの天使は自分の言う事を聞いてくれる。ノエルにはその確信があった。
「うん、それはきちんと話すよ。この着ぐるみもちゃんと脱いでから。だけど、まだダメージが残っているみたいでしばらく動けそうにないんだ。だからもう少し待ってくれる?」
ノエルのお願いを耳にしたイーリスの目が再び輝く。今度は、先ほどよりも剣呑な光を帯びていた。
「そうか……動けないのか……ならばちょうどいい。先に聞いておきたい事がある」
「う、うん……なんだい?」
少々焦りながら聞き返すノエル。イーリスはなぜか顔を紅潮させながら、先ほど彼女の心に芽生えた疑惑を口にした。
「ワタシとオマエが初めて戦った時の話だが……」
「う、うん……」
なんだか危険な気配を感じ始めるノエル。こっそりと体を動かそうとするが、やはり先のダメージが残ったままな事に加え、彼女が上に乗っている事も関係してか、微塵も動けない。内心慌てるノエルに気付いているのかいないのか、険しい瞳をこちらに向けたまま言葉を続けるイーリス。
「たしかあの時、オマエはワタシの事を、しょ、処女だとかなんとか言ったよな!?」
「!?」
少々どもり、さらに顔を赤くしながら件の単語を口にするイーリス。あの時の事を思い出し、ノエルの頬も紅潮してしまう。
――い、いや、たしかに言ったけどあれは魔王としての威厳を保つためにはああ言った方がいいんじゃないかなという深い考えでありさらにああ言う事により彼女を生かす理由をつくるという緻密な計算だったのであって別に他意はないんだよほんとだよああでもあの発言を気にしてるって事はやっぱり彼女はそうだったんだ良かったって何を考えてるんだ僕は!!
ものすごい速度でノエルの頭の中を思考が駆け巡る。けれども頭に浮かんだ台詞を口に出す度胸はなく、ノエルはおずおずと頷くしかなかった。
「う……うん……言いました……」
「ああ、言ったよな……今でもワタシはあの時の事をたまに夢に見るくらいなんだ……そう言えば二回目の戦いの時もそうだったか……」
段々イーリスの声が低くなってくる。
「だが、さっきふと思った事がある……」
「は……はい……」
怯えながら返事をする以外の行動が取れないノエル。いつの間にか言葉遣いも丁寧になっている。イーリスは顔を赤くしながら、とうとう最大の疑問を口にした。
「その女みたいな顔……あと、その女に慣れていないようなおどおどした態度……オマエも本当は、ど、童貞だろう!?」
「!?」
先ほどと同じく、また少し口籠りながら詰問するイーリス。もうどちらの顔もこれ以上ないくらい真っ赤だ。
――な、何を言ってるんだい僕は恐ろしい魔王だよ実際あの城では気に入った悪魔の女どもを夜な夜な部屋に引きずり込みもてあそんで女を寝取られた悪魔たちの怨嗟の声が毎夜響き渡るという噂が囁かれてるくらいなんだよほんとだよああでも実際の僕はずっとひとりだったし女の子の扱いにも慣れてないし童貞でしたごめんなさい!!
またもノエルの頭の中をいくつもの思考がぐるぐる回る。けれどもやはり今回もただただ頷くしか出来なかった。
「は……はい……そのとおりです……」
「ふん、やはりそうか……」
顔を赤らめつつ目を逸らし、口の中でなにやらぶつぶつと呟くイーリスだったが、その内にノエルの方に視線を向けなおす。その目は完全に据わっていた。やがて彼女の右手が固く握られ、大きく振り上げられる。
「あ、あの……イーリスさん……?」
「つまり、オマエは童貞のくせにワタシを処女だと馬鹿にしていた訳か」
「っ……!? い、いや、確かにあの時はそう言ったけど別に馬鹿にした訳じゃ……!」
めきょ。
言い訳を口にするノエルの顔に、イーリスの拳が突き刺さった。