第11話
魔王の部屋の中でノエルは、仮初の姿を脱ぎ捨て、ベッドの上にいた。部屋を訪れたフローラと共に。
ノエルは正座をした状態で、もの凄いプレッシャーに耐えながら。フローラは膝を崩して座り、不機嫌そうにそっぽを向いたまま。
ノエルは、なぜ彼女がさっきのような発言をしたのか、そして今、なぜ不機嫌になっているのかの理由を必死に考えた。けれども結局答えは出ず、やがて勇気を出して、恐る恐る問いかける。
「あ、あの……フローラさん? その……怒ってます……?」
直後、ノエルは自分がした質問の無意味さに気付いた。フローラの機嫌が悪いのは明白なのだ。その証拠に、フローラは寝具の上で身体の向きまで変えて、さらに不機嫌になったというアピールをした。
彼女のこの反応を、ノエルはつい可愛らしいと思ってしまったが、それを口に出せる雰囲気でもなく、何を話せばいいのかと思考を巡らせる。
こういう事に不慣れなノエルは、どうすればいいのかさっぱり分からなかったが、ふと、配下の悪魔達がそういう男女のもつれが起きた時の対応の仕方、という話題の時に言っていた内容を思い出し、実行した。
ノエルが彼らの雑談を盗み聞きをしていたその時、とある悪魔が周りに確かこう言っていたのだ。俺だったら謝り倒す、と。
「そ、その……ごめんなさい! フローラさん!」
ノエルはプライドも何もなく、ぺこりと頭を下げた。自分の下僕であるメイドに許しを請う魔王……この城に住む者がこの光景を見たら驚きのあまり卒倒するだろう。
「多分、僕が魔王の言動をしている時に、フローラさんを傷つけるような事を言っちゃったんだよね? だからフローラさんは怒っているんでしょう? 本当にごめんなさいっ!」
ノエルは情けなくもぺこぺこと頭を下げ続ける。やがて、フローラが少しだけ体の向きをこちらに向けた。だが、表情はまだむくれているように見える。ノエルはさらに思い当たる事を詫び続けた。
「他には毎日重たいミルクのビンを持ってきてもらったりとか、仕事があるのに長く引きとめたりとか、他にもいろいろあるけど、とにかくごめんなさいっ!!」
ただひたすらに平身低頭を貫くノエル。本気で情けない姿だが、ノエルは必死だった。その気持ちが伝わったのだろうか、フローラは顔を背けたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……別に、そういう事に怒っている訳じゃありません」
――さっきまで無言を貫いていた彼女が答えてくれた!
それだけでノエルは、長い洞窟をさまよい歩いた者がついに光差す出口を見た時のような気持ちになれた。
あの時の悪魔は続けてこうも言っていたのだ。無視が一番きつい。口をきいてくれりゃあ、あと一息だ、と。
「でも、僕がフローラさんを怒らせてしまっているのは事実なんですよね? きっと僕が調子に乗って馬鹿な言動をしてしまったんだ。だから……ごめんなさい……」
その悪魔曰く、最後は頭を下げたまま相手の反応を待て。
ノエルはじっと彼女の反応を待った。果たして許してくれるのだろうかと、不安で胸が一杯になる。彼女が僕の側を離れていったら、また自分は一人ぼっちだ。そんなのは……嫌だ。
気を抜いたら涙が出てきそうな己を叱咤し、彼女の反応を待つノエル。やがて、フローラの気配が少し変わった気がした。頭上から彼女の声が降ってくる。その声はほんの少しだけ柔らかい。
「ええと……本当に、ノエルさんが私に対して、酷い事をしたとかじゃないんですよ? ただ……」
フローラは一瞬口ごもる。ノエルは何を言われるのかと緊張し、神妙に耳を傾けた。
「ほら、この前私たちの所に攻めてきた天使がいますよね? ノエルさんが追い払った、たしかイーリスっていう名前の……」
なんだか話が予想もしていない方向に進み始めた。ノエルはこわごわ顔を上げる。その先には、何やら拗ねた表情のまま指で自分の三つ編みを持て遊び、ぶつぶつとつぶやくフローラの横顔があった。
「あの戦いの時、ノエルさんはあの天使の事を何だか凄く気にしていたように見えました。それからさっきも、あのイーリスっていう娘がこっちに向かっていると聞いた時のノエルさんが、すごくうきうきとしていたように見えたものですから……その……なんだか面白くなくて……」
フローラの横顔を見ながら、こういった事に鈍いノエルも、思い当たった事が一つだけあった。
――まさかとは思うけどフローラさん……ひょっとしてひょっとすると……い、いや、でもしかし……。
口にすべきか迷うノエルだったが、やがて決心し、恐る恐るフローラに尋ねてみた。その思い当たる事が真実かどうかを確かめるために。
「あの……フローラさん……ひょっとして、や、焼き餅をやいている……とか……」
最後の方はかすれてしまってちゃんと喋る事が出来なかった。『焼き餅』のくだりでフローラがこっちに顔をゆらりと向けたからだ。
そしてにっこりと微笑むフローラ。だが、この笑顔はいつものノエルを幸せな気持ちにさせるものとは種類が違う。むしろ、さっきの玉座の間での笑顔と同じで、恐怖を感じさせるものだった。その背筋が凍りつきそうな笑みを貼り付けたまま、フローラはぼそりと呟く。
「焼き餅……やいたらいけないんですか……?」
「あ、あの……フローラさん……?」
身の危険を感じて、ノエルは正座をしたまま手をついてゆっくりと後ろに下がる。それを追いかけるように、フローラは身体の向きをこちらに向け、ベッドに四つんばいになり、少しずつにじり寄ってきた。
「私も、最初にノエルさんとあんな事になった時はすごくびっくりしましたよ? まさかあの恐ろしい主様の正体が、こんな可愛らしい男の子だなんて思ってもいませんでしたから」
「え、えっと……」
フローラの迫力に押されて後ろ手に少しずつ下がっていくノエル。その後をフローラはゆっくりと追いかける。
「最初は可愛い弟みたいな感じで見ていたんです。でもね……私たちを守る為に、ずっと戦い続けていた強いノエルさん。そして、私の前でだけ見せてくれる、繊細な心を持った優しいノエルさん。貴方の事を知るたびに、少しずつノエルさんに対してドキドキしていく自分がいたんですよ?」
「フ、フローラさん……」
やがてベッドの端まで追い詰められ、身動きが取れなくなってしまうノエル。いや、もちろんベッドから飛び降りるなりなんなりすれば、彼女から離れるのは容易い事だった。けれども、そういう発想はすでに動転したノエルの中からは失われていた。
「それなのに、ノエルさんはあの天使の事を気にしてて……なんだか私は胸が張り裂けそうで……」
動けなくなったノエルの頬をそっと撫でるフローラ。その顔は先ほどまでの怖気がする笑顔ではなく、優しい、しかしどこか憂いを帯びた表情だった。フローラの口から漏れる小さな吐息がノエルの鼻先をくすぐる。ノエルは真っ赤になってしまった。
「あ、う……」
「ノエルさん……私だけのものになってください……」
やがて、フローラの顔がノエルの顔に少しずつ近づいて……。
――ま、待って! フローラさん! ぼ、僕はそのフローラさんの事も、い、いや、そうじゃなくて!?
ノエルの中でいろいろな言葉が渦を巻くが、それが口をついて出る事はなく、気がついた時にはもう、彼女の唇はノエルのそれへと……。
「魔王さまぁっ!!」
ノエルとフローラを一瞬で覚醒させたのは、ドア越しに聞こえてきただみ声だった。ノエルは金縛り状態を脱してフローラから離れ、慌ててベッドに転がっている魔王の頭を被る。そして悪魔の王としての大声でドアの向こうにいる者に怒鳴った。
「何事だ! 騒々しい!!」
雷鳴のような怒声がドアを越えた先にいる悪魔に突き刺さる。その悪魔――ゼイモスはまさしく雷に打たれたかのように硬直した。
「お、お、お楽しみ中の所を、申し訳ございません!! あ、あの天使がこちらにやってくる速度が思ったより速く、すでに我らの……い、いや、魔王様の城の目と鼻の先まで接近しており、この事をお伝えしないわけには行かず……!」
ドアの向こうで必死に土下座でもしているのか、震える声で許しを請いながら報告をするゼイモスの声がノエルの耳に入る。それを聞いたノエルの顔が再び熱を持つ。
――お、お楽しみって何さ! べ、別に僕とフローラさんはそんな事……いや、あのままだとそうなっていたのか……!? いやいや落ち着くんだ僕!!
ノエルは必死に頭を落ち着かせようと深呼吸をする。もちろん、被り物の下でのそれはかなり窮屈さを覚える行為ではあったが。
ゼイモスの言い訳が続く中、何とかノエルは自分を取り戻し、先ほどよりは幾分冷静に扉の向こうの部下に命令を下す。いつもの通り、やや不機嫌さを帯びた声で。だが今回に限っては、この不機嫌な声音は演技ではなかったのかもしれない。
「ゼイモスよ……! あの天使がもう俺の手の届く所にまでやって来ているというのは本当か……!?」
主の怒りに気付いたのか、先ほどより裏返った声で報告を続けるゼイモス。
「は、はひっ!! それはもちろん確かな事でございます!! わが直属の配下の報告なれば! はい! もし相違ありましたら彼奴らを処罰していただいてもかまいません!」
いつもの様に、自分の手柄を装いつつも、いざとなったら部下に責任を転嫁しようというゼイモスに、ノエルは呆れながらも指示を出す。
「ふん……ならば、俺が直々に出るとしよう……! すぐに行く! お前は先に行って待機していろ!」
「は、はいっ!!」
魔王の怒りが降ってこなかった事に安堵しながら返事するゼイモス。やがて走り去る足音がノエルの耳に聞こえた。
こちらもほっとするノエルだったが、先ほどからフローラの声が全く聞こえない事に気付き、びくびくしながら振り向いてみる。
視線の先には、既視感を覚えるような、ベッドに座ってそっぽを向いたフローラがいた。ノエルもおずおずとベッドに正座し、少し前と同じ情景となる。ただ一つの違いはノエルが恐ろしい魔王の顔をしている事だ。
いったい何を言えばいいのだろうかと思い悩むノエル。この恐ろしい形相をしたマスクは、そういう勇気まではノエルには与えてくれない。さっきのゼイモスも似たような気持ちだったのだろうかと思いながら、何とか自前の勇気を振り絞り、ノエルはフローラに話しかけた。
「あ、あの……フローラさん……僕……」
マスクを付けっぱなしの為、口から漏れだす声は世にも恐ろしい響きだ。だが、その声音はとても弱弱しく、救いを求める子供のよう。
「その……僕、フローラさんの事……」
口を開いたものの、結局何も意味のある言葉を伝えられないまま口を閉じてしまう。
果たして僕は彼女に何を言おうとしているのだろう? 僕は彼女の事をどう思っているのだろう? そして、あの黒髪の天使の事も、僕は……。
両者を沈黙が包む。やがて、フローラがゆっくりと振り向いた。その瞳にたゆたう感情は、一体どう表現すればいいのだろう? 悲しんでいる? それとも怒っている?
「ノエルさん」
「は、はいっ!」
ノエルはあわてて返事をする。予想に反してフローラの声は平常通りの物だった。それとも、彼女がそう聞こえるように無理をしたのだろうか?
フローラはさっきと同じように、少しずつノエルに近づいてくる。今度はノエルは後ろに下がる事はなく、フローラを見つめ続けた。やがてノエルの前で止まるフローラ。そしてゆっくりと口を開く。
「ノエルさん。目を閉じてください」
「は、はいっ!」
きっと叩かれるのだろう。彼女の気持ちに真摯に向かい合わなかった報いなのだ。ノエルはぎゅっと目をつぶる。彼女はもう今までのように僕に笑顔を見せる事は無いのだろう。だけど仕方ない事だ。せめて最後だけは彼女の気持ちに応えたい……。
マスクの下で涙を流しそうになるのを何とか堪え、フローラの拳が振り下ろされるのを待つ。でも、何時までたっても衝撃は訪れない。ノエルがいぶかしんでいると、マスクの頬にやさしく触れる暖かい感触があった。
えっ……? 慌てて両目を開けるノエル。その先には少し顔を赤らめたフローラがいた。
「今日はこれで勘弁して上げます。あの天使が迫っているのでしょう? 早く行ってください」
えっ……? えっ…………? えっと……さっきの感触はひょっとして……。
「ほら、早くしてくださいノエルさん。でないと、マスクを取り上げてさっきの続きをしちゃいますよ?」
「えっ!? そ、それは、その嬉しいけど……困る……って! いや、その……!!」
フローラの前であたふたとしてしまうノエル。それは、頭だけ魔王の姿をしている今の格好と相まって一層滑稽に見える。だがフローラはそんな彼の頭を優しく撫で、こう囁いた。
「ノエルさんは優しいですけど、こういう時はちゃあんとはっきりとしないと、私も愛想を尽かしてしまうかもしれませんよ?」
「そ、それは嫌です! ……あ」
こんな時だけはっきりとした返事が出来る自分に呆れてしまう。さっき彼女の事を焼き餅やきだと思ったが、自分も相当独占欲が強いに違いない。ノエルは赤面し、それをごまかすように慌ててベッドから降りた。そして彼女の視線を感じながら、魔王の姿を完全に纏う。先ほどまでの軟弱な少年の姿はもうどこにも無い。少なくとも表面的には。
「……フローラさん。行ってきます」
「……はい、お気をつけて」
ノエルはそのまま急ぎ足で部屋を出て行った。巨体が通りぬけた後に扉は音を立てて閉まり、後にはフローラと、修羅場が過ぎ去った事に気付いたのか、ベッドの下から這い出してきたナナが取り残された。
ナナを膝の上に抱っこし、背中を撫でながらフローラは一人呟く。
「ノエルさん。次は聞かせてもらいますからね。本当のノエルさんの気持ちを……」
その優しい手が気持ちいいいのか、ナナは彼女の膝の上で丸くなる。フローラはいつまでも小さな猫の背中を撫で続けた。
「あの天使はどこにいる!?」
ノエルはゼイモスを連れて見通しのいい楼閣の上にやってきていた。薄闇に加え、黒雲が強風によって激しく煽られている。魔王の瞳といえど、中々天使の姿を捉える事は出来ない。
「は、はい。私の部下の報告によりますと、あの大きな雲の中に入ったあと、出てきた様子は無いとの事で……」
私の部下、というところを強調するゼイモスだが、彼の主はそれを意に介した様子もなく、ゼイモスが示した巨大な雲を見上げる。今日は魔界を取り巻く嵐も強い。吹きすさぶ風の轟音がノエルの鼓膜を震わせた。いやな感じだ、空間が不安定になっているのか?
これではあの天使――イーリスを見つけるのは少々骨が折れるかもしれない。だが、さすがにこの状況では、配下の悪魔達が動くのを完全には制御できまい。なるべく早く決着をつけなくては……。
――イーリス……彼女はなぜこんな危険な事をするんだろう?
ノエルの心に疑問が浮かぶ。もちろんそれに対する答えをここで得る事など出来なかった。
――おかしいな……番犬どもの気配など感じないが……?
黒雲にまぎれてイーリスは魔王の居城を窺っていた。いくら周りの嵐が強いとはいえ、ここまで敵の懐に飛び込んだのだ。あの臭いのきついヘルハウンドどもの存在に気付けないなどありえないのだが……。
やはりシルヴィアに担がれたかと思ったイーリスだが、彼女が装備を整える為に地下室に向かう途中でも、天使達の間では魔王がヘルハウンドを大量に飼いはじめているという噂で持ちきりだった。いくらなんでも、天使全体が自分を騙すために芝居をする訳もあるまい。イーリスは注意深く観察を続けた。
だが、今日は予想外に嵐が強くなりつつある。あまり長居すると強風に捕らわれ、地面に叩きつけられてしまうかもしれない。さすがにそれはごめんだった。
敵もすでにこちらには気付いているようだ。斥候の姿がちらほら見える。とは言え、まだ自分の居場所を完全には捉えていないらしい。動くならば今だろう。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、とも言うしな……人間たちの言葉だったか」
人間も時々良い言葉を作り出す。イーリスは行動を開始した。虎の子を得るために。
風に吹かれて千切れ飛ぶ雲に隠れ、城の近くに飛翔する。その時、先ほどまで彼女が隠れていた大きな雲の周りを悪魔達が囲んだ。間一髪だったようだ。イーリスは幸運に感謝しつつ、城の各窓を鋭い視線で凝視する。
やがて、彼女の目に四足で動く姿が見えた。彼女が考えていたよりそれは遥かに小さかったが、番犬の子供だろう。
一匹しかいないようだが、ようやく見つけたぞ。イーリスは自分の行為が無駄骨ではなかった事に小さく笑みを浮かべたが、その窓の向こうで蠢く別の影に気付いた。
少なくともあの魔王のシルエットではないが、おそらくヘルハウンドどもの生産を担っている者に違いない。コイツから詳しい話を聞くとしよう。
イーリスの目が三日月のように細くなり、冷たいナイフのように輝く。彼女は羽根を開き、力強く飛んだ。引き絞られた弓の弦から放たれる、一筋の矢の様に。
彼女が四足獣を目にした窓……ナナとフローラがいる魔王の部屋に向かって。
イーリスの細剣が魔王の部屋の窓を貫く。美しく誂えられた瀟洒な装飾もろとも、透き通ったガラスが耳障りな音を立てて砕け散った。
「きゃああああああっ!?」
フローラは突然の衝撃に悲鳴をあげた。いきなり窓ガラスが爆発したかのように粉砕され、人影が飛び込んできたのだ。いくら気丈な彼女とはいえ、驚いてしまうのも無理はない。フローラは慌ててナナを抱き上げ、うずくまる侵入者から距離を取った。
その侵入者は風でばたつくカーテンを背にゆっくりと立ち上がる。背中の羽根を羽ばたかせ、キラキラと輝くガラスの粒子を撒き散らして。やがて顔を上げたその曲者の顔を、フローラは痛いほどに知っていた。
「あ、貴方は! イーリス!」
「ほう……さすがに魔王の直属の部下だけの事はある。ワタシの名前を知っているとはな」
羽根を折りたたみ、フローラを見据えるイーリス。フローラは初めて間近で見るその顔に、一瞬だけ見蕩れてしまった。
――第六天使長イーリス……。
黄金の模様で縁取られた白い衣装と鎧を身に纏い、そこからすらりと伸びたこれまた白い四肢。そして割れた窓から入る風になびく黒髪を持った彼女は確かに美しい。
しかし、一瞬とは言えイーリスに見蕩れてしまった事がフローラの嫉妬心を燃え上がらせたのか、彼女は滅多に出さない激しい声を上げて黒髪の天使と対峙した。
「あ、貴方にノエルさんは渡しません!!」
それを聞いて怪訝な顔をするイーリス。
「ノエル? それは誰の事だ? 何を言っているのかさっぱり分からないが……ふん、まあいい。仕事を果たすとしよう」
イーリスは細剣を構える。フローラは身体を硬直させ、ナナを一層強く抱きしめてイーリスを睨みつける。イーリスはそんな視線も意に介さず、目の前の女に向かって冷静に言い放つ。
「オマエはどうやら戦闘要員ではないらしいな? 悪魔とはいえ、そういう連中を痛めつけるのは好みではない。だからワタシの言う事に従えば命までは取らない……その獣をこちらによこせ」
イーリスはフローラが抱きかかえる四足獣を剣で示し、そう言った。これに驚いたのはフローラだ。
「な、なんですって!? なんでナナちゃんを欲しがるの!?」
フローラの言葉を聞いて、呆れたように肩を竦めるイーリス。
「ふん、ナナちゃんとは……そんな恐ろしい獣にまさかそんな可愛らしい名前を付けるとはな……悪魔のセンスは分からん」
ふっと嘲笑するイーリス。恐怖に怯えていたフローラはその仕草をみてムッとする。
「恐ろしい悪魔ですって!? こんなに可愛らしい子に向かってよくもそんな事が言えた物ね!」
ぎゅうっとさらに強く、ナナを胸に抱くフローラ。胸から非難めいた小さな鳴き声が上がるが、フローラにそれを気付くだけの余裕はない。もちろん、さらに離れた所にいるイーリスにそれが聞こえるはずも無い。二人は何もかもすれ違ったまま対峙を続けた。
「悪魔と美醜の価値観について語り合う気は無い……さあ、早くその恐ろしい魔物を渡せ。そして案内するのだ。その魔獣を大量に繁殖させているという忌むべき部屋にな!」
「な……!?」
イーリスは驚愕するフローラに冷笑を向けながら一歩を踏み出す。
――この悪魔の女はようやくワタシの目的に気付いたようだ。全く鈍くさい奴だな。これだから悪魔というものは……。
だが当然、イーリスが考えていたような理由でフローラが絶句していたわけではない。獣を胸に抱くメイドは恐る恐る、眼前の天使に尋ねた。
「あの……まさか……恐ろしい魔物って、ヘルハウンドの事……?」
「ふん、ようやく認めたか? 自分があの恐ろしい地獄の番犬をその両腕に抱いている事を。どうせオマエも魔獣を増産する計画に関わる一人なのだろう?」
フローラへの距離を詰めながら油断なく彼女を見据えるイーリス。
見たところ戦闘を行えそうなタイプではないが、この女も悪魔の一員。油断は出来ない。
イーリスが歩みを進めるのにつれて、フローラの肩が小刻みに震えだす。
――恐怖に震えている。やはり非戦闘員の女か。
イーリスはそう判断し、すばやく彼女が抱きかかえる魔獣を奪おうと手を伸ばす。だがその時。
「ふふふっ……あはっ……」
「な!?」
イーリスは目を見開いた。恐怖に震えていると思っていた女が、いきなり笑い出したのだから無理も無い。しかしもちろん、フローラは恐怖で震えていたのではなく、ただ単に笑い出すのを堪えていただけだった。フローラは笑いを抑えようとしながら、イーリスに真実を告げる。
「うふふっ……貴方はいくつか勘違いしているわ。まず一つ。ヘルハウンドを量産する計画なんて行われていません。確かにそういう噂はあるんですけれどね……ふふっ」
その噂が流れている事の当事者であるフローラは可笑しくて堪らなかった。まさか、あの噂が天界にまで届き、ありもしない計画を潰す為にこの城にまで天使が乗り込んでくるなんて!
そんな事を露とも知らないイーリスは、さっきまで怯えていただけに思えたメイド姿の悪魔が、今では主導権を握っているように思えて苛立つ。刺々しい口調で悪魔を詰問した。
「何だと……!? だが天界で噂は持ちきりだぞ!? それに今その手に抱えている魔獣はどう説明するつもりだ!」
剣を、フローラが抱える獣に向けるイーリス。その仕草はとても優美で、何も知らない者が見たら心を奪われてしまうであろう。けれども真実を知っているフローラには、それは果てしなく滑稽なものに見えた。
「あはははっ……ご、ごめんなさい! わ、笑いが……と、止まらな……!」
ついに笑いすぎで両腕の力が抜けてしまったのか、彼女の腕から黒い獣が飛び出す! あわてて身構えるイーリスだが、その獣の鳴き声が彼女の耳に入りこんだ。
「にゃあー!」
「なっ!?」
驚きのあまり硬直し、その獣をまじまじと見つめるイーリス。そして彼女の瞳は、この生物が、自分が想像していた忌まわしい魔獣ではなく、ただの愛らしい小さなねこであるという事実を捉えてしまう。
――ば、ばかな。これはただの可愛らしいねこではないか!? 先ほどまでワタシが思い描いていた恐ろしい計画はどうなっているのだ!? 本当にそんなものは無かったのか? ではあの時のワタシの決意は一体なんだったのだ!?
頭の中がぐるぐると回り、イーリスはよろよろと後退した。
その時入り口のドアが激しく開き、一人の闖入者が現れた。もちろんこの魔王の部屋にノックもせず入ろうとする者などこの城には一人しかいない。先ほど窓をぶち破って入ってきた天使を除いては。
「フン、やはりここにいたか……こそこそと、泥棒のような天使めが! 大人しく俺に捕まる事だ……!!」
天使長の前だからか、いつもの魔王モードのノエルである。
イーリスの目の前に現れたこの城の主。先ほどまでのイーリスならば喜んで剣を向け、突進していたであろう。しかし、今のイーリスはショックに打ちのめされており、そのような気概など全く湧いてこなかった。
いや、むしろこの魔王の前に立つ事すら恥ずかしい。イーリスは慌てて顔を背け、風が吹き付ける窓辺に走り寄った。
「!! ま、待て! 行くな!!」
なぜだか魔王の口からいつもの様な傲岸な台詞ではなく、どこかしら焦っているような声が発せられる。フローラはその声音に違和感を覚えたが、イーリスはそんな事に気が付けるような精神状態ではない。
顔を伏せたまま、黒髪の天使は床を蹴る。そのまま、荒れる雲の中を突きぬけていってしまった。
「ああっ! ま、まずい!」
魔王――正確には魔王の着ぐるみを付けているノエルだが――は、あたふたと窓に駆け寄り、逃げた天使を追いかけようと試みる。だが、破壊されたとはいえ、この魔王の巨体が通れるような窓ではない。ノエルは入ってきたドアに急いでUターンしようとした。その行動に異常を察知したのか、フローラがノエルの側へと駆け寄った。
「あの……何かあったんですか? ノエルさん」
そんなにあの天使の事が気になるんですか……?
悲しい瞳をしながらノエルへと問いかけるフローラ。しかし事の次第は彼女の想像を越えていた。
「そ、それが、さっき部下の報告を受けたんだけど、今、天界と魔界の狭間に大きな次元の裂け目が出来つつあるらしいんだ!」
「え……!?」
ノエルの言葉に絶句するフローラ。
この世界は、天界と魔界というある意味真逆な存在が隣あって両立している奇跡のような世界だが、やはり歪が発生するのだろう。何年かに一度、二者の間に巨大な空間の渦が誕生する。
この世界の住人から次元の裂け目と呼ばれるその巨大な渦は、嵐を前兆とし、天界と魔界の中心点に現れた後、全てのモノを吸い尽くし、やがて霧散するという。
数年前に大渦が現れた時は、ちょうどそこで争っていた天使と悪魔の大部隊を全て呑み込み、消滅した。もちろん、帰還した者はいなかった。天使も悪魔も例外なく。
ノエルが何を考えているかに気付いたフローラは、慌てて彼の巨体に追いすがる。
「だ、駄目です! 行っては駄目です! ノエルさん!」
「……大丈夫だよフローラさん。危険な事はしないから……」
恐ろしい顔をした魔王の口から、とても優しい声が漏れた。だが、もちろん嘘に決まっている。それはあまりにも優しすぎる嘘だった。
「やめてくださいノエルさん! そんな事をしたらノエルさんまで消えてしまいます!」
鉤爪の付いた腕で優しくフローラの肩を抱くノエル。フローラの瞳からついに涙がこぼれ落ちる。
「私では駄目なんですか? 私ではあの天使の代わりになれないんですか? 私では……」
子供のように泣きじゃくるフローラに、ノエルは自分の心のままにこう答えた。
「フローラさん……よく聞いて。僕はフローラさんを彼女の代わりにしようだなんて思わないよ。だって僕はフローラさんの事が大好きだから」
ノエルの口からこぼれ出た、大好きという言葉に、あ……と赤面するフローラ。
「でもそれと同時に僕は、今あの天使を見捨てたら必ず後悔するって分かるんだ……だから……ごめん」
ノエルはそれだけつぶやくと、フローラをそっと振りほどき、駆け出した。もはやフローラにそれを止める術は無かった。
「ノエルさんの馬鹿……」
フローラは床にくずれ、泣きじゃくった。彼と彼女の子ねこは、主人を慰めるかのようにフローラの側に近づき、そっと寄り添った。
「くそっ……くそっ……何で涙が出るんだ……! 何で……!!」
魔王の前から逃げ出したイーリスは、薄闇の中、雲に突っ込むのを気にもせず飛び続けていた。後方に涙の粒を飛ばしながら。つい先ほどまでは誇り高い気持ちだったというのに、今ではとても惨めな感情がイーリスを支配していた。
死を覚悟して魔界に挑んだにもかかわらず、蓋を開けて見れば恐ろしい魔獣の姿は一つもなく、いたのはただの愛玩動物だったというのだからお笑いだ。
「まるで……ワタシが馬鹿みたいじゃないか……! くっそぉぉぉぉ!!」
イーリスは絶叫しながら、ただただ飛翔していた。そうすれば全てを忘れられるという風に。
だから、彼女は次第に周りの空気が変質しつつある事に気付かなかった。いや、正確に言うとイーリスは変化に気付いた、だがすでに手遅れの状態だった。
「……!? 何だ!? 何かおかしい……」
翼を羽ばたかせるのをやめ、急停止して周りの気配を探るイーリス。むしろそのまま飛び続ければ、まだこの変わりつつある空間の中から抜け出せたかもしれなかった。
「ただの嵐じゃない……まさか!? 次元の裂け目が生まれつつあるのか!?」
やがて自分が巻き込まれつつある事態に気付き、悲鳴を上げるイーリス。その声をかき消すように、辺りに轟音が響き渡る。やがて、空間の中心に巨大な渦が発生し、見通せない闇に雷を這わせたそれは急激に世界を侵食し始めた。
「くっ!? こ、こんなところで!!」
慌てて大気の渦に背を向け、力の限り飛ぶイーリス。彼女の横で、周りの雲がどんどんちぎれ、渦の中心に引き込まれていく。
――くそぉっ!! こんなところでワタシは死ぬのか……!? どうせ死ぬなら、せめてあの魔王に……。
死を覚悟した彼女の脳裏に浮かんできたものは、他の誰でもない、あの恐ろしい魔王の事だった。自分は、そんなにあの悪魔に惹かれていたのだろうか? あの、全てを打ち砕く様な力強さに……。
やがて、彼女の翼も少しずつ力を失い、イーリスは絶望と共に瞑目した。巨大な渦は彼女を飲み込んで……。
「イーリス!!」
――ふふっ、ついにアイツの幻聴まで聞こえ始めたか……ずいぶんとアイツに心を奪われていたのだな……。
「イーリス!! 諦めるな! 裂け目はもうすぐ消滅するはずだ!!」
声と同時にイーリスの腕が巨大な手によって力強く掴まれる。イーリスは目を開き、自分の隣にいる影を見た。そこにはさっきまで求めてやまなかった、魔王の姿があった。
「……!?」
この感触、もちろん幻であろうはずが無い。魔王はイーリスの体を渦から守ろうしているのか、彼女の体を強く抱きしめる。イーリスは驚き、続いて自分の口から漏れた言葉にさらに驚愕した。
「よせ! オマエも巻き込まれる! 馬鹿な事はやめろ!!」
「大丈夫! 過去の観測結果から考えても、もう消滅時間が近づいているはずなんだ! きっと逃げ切れる!!」
耳をつんざく轟音の中で、何故か彼の声だけははっきりと聞こえた。そして、己の心臓の一瞬の高鳴りも。彼の腕に抱かれたまま飛ぶイーリス。
疲労と安心感からか、少しずつ彼女のまぶたが落ちていく。やがて、彼女達を包み込もうとしていた大きな渦は、まるで最初から存在していなかったかのように唐突に消滅した。最後に、魔王の頭をその体躯から奪い去って。
――……!?
イーリスは、夢見心地のままその光景を見ていた。恐ろしい魔王の顔の下から突然出てきた新しい顔。その異常な事態に驚く事もなく、彼女は束の間、その横顔に見蕩れた。
――ふん……なんだ……本当は、ずいぶんと可愛らしい顔をしているんじゃないか……。
イーリスはそのまま意識を失った。とても暖かいものに包まれるような、心地よさを感じるままに。