十四
坂上家のキッチンに素っ頓狂な叫びが響き渡った。
「辞める? 仕事を?」
「コウジ、あんた何考えてんの?」
「うっわあ、三十歳になろうってのに引きこもりニートかあ」
「ちょっと奈美姉、まだ三十歳なってないし、二十七歳だし、引きこもりって決まってないし!」
「ニートは否定しないんだ」
「それも違うよ!」
「わふーん!」
庭で柴の老犬るーちゃんが仲間に入りたそうにしている。
母親たちの喚く姿におののきながら子どもらがおやつのお焼きをもぐもぐと頬張る。
「みそのちゃん、にーとって何?」
「Not in Education, Employment or Training の略よ」
「ぜんぜんわかんないよ」
「要するに仕事もなけりゃ仕事のあてもない状態にいる人のこと」
「みそのちゃん、なんでそんなこと知ってんの……」
「パパが教えてくれたもん」
五歳児の口からすらすら出てきてほしいことばとは違う。多美姉のだんなは子どもに何を教えているんだ、まったく。でも将来が楽しみだ。ほんとうに楽しみだ。
コウジは改めて家族を眺め、微笑んだ。
自分がどうしたいか、そのためにどう行動するか考えろ、か。
心の奥底に忘れがたく存在する惑星ナラクの風景。橘。吹雪丸。コウジの心は決まった。
もしかしたら必要ないかもしれないけれど、できるだけ自分で片をつけておきたかった。そうなるとなかなかに忙しい。
コウジは退職した。携帯電話も銀行口座もすべて解約した。今までの貯金はすべて母親の口座へうつした。ジムもやめた。服や本も処分した。
ずいぶん迷ったけれど、コウジは結局川へ向かった。雑居ビルや倉庫の建ち並ぶ街。潮の香り。夏の間、よく通った道だ。堤から河原へ下り、涼風に誘われるまま歩く。茂みが切れているあたりに見慣れた釣り人の背中が見えた。
「よう、久しぶり」
バタさんが陽気に笑った。
「なんだかずいぶんすっきりした顔だな」
そうかな、と頬からあごをさするコウジを見遣ってバタさんは真顔になった。
「行くのか」
「はい」
「そうか」
ふたりは並んで川を眺めた。
きらきらと陽光を反射する川面。河原の芝生。ぽつぽつと距離を置いて枝を広げる灌木。川に沿って優美な曲線を描く高速道路。鉄塔や建ち並ぶビル。コウジの故郷、東京の景色だ。
「コウジくんの世界はいいな。忙しないんだけどどこかやさしいな」
「はい」
胸がいっぱいになって何も言えない。
初めのうち、コウジは足下を掘り返して指輪をバタさんに渡そうと思っていた。バタさんがいらないと言うのならば、自分がこの指輪の世界に行って王妃様に突き返そうと、「あっさり忘れんなよ」と捨て台詞のひとつもぶつけてやりたいと思っていた。
でもバタさんの顔を見て気が変わった。幼い頃、若い頃の後悔もまたバタさんの今歩む道につながっている。元の世界の最後、舞踏会のときに諦めなかったからバタさんの今がある。
「迷いがないと言ったら嘘になっちゃうんですけど――でもぼく、これでいいと思うんです」
「そうか。コウジくんに道を踏みはずす病気をうつしたこと、俺は後悔している。本当にすまなかった」
「いいんです。ぼくはバタさんに会えてよかった」
一礼し、コウジは河原を去った。
からりと高く晴れた空。コウジは自室の片付けを終えた。がらんとして部屋には何もない。窓辺で白いカーテンが風をはらみ大きく膨らんだ。
着ていた服をすべて脱ぎ、ゴミ袋に詰めた。クローゼットを開ける。視界に入れないよう意識から締め出していた馴鹿のコートやズボンなどナラクで牛おっさんにあつらえてもらった服もすべて戻ってきた日のままだった。服、靴や背嚢、残っているすべてを取り出す。
コウジの世界はここ東京だった。今まで、どんなに道を踏みはずしてもこの世界に帰れる、帰るつもりでいた。
――でもこれで最後だ。ぼくの知るぼくの世界はこれが最後だ。
ナラクの素朴な織りのシャツのボタンを留めながらコウジはひとつ、ひとつ自分の気持ちを確認する。
今だったらまだこの世界にとどまれる。ナラクで待っている人がいないかもしれないのに、それでも自分は行くのか。橘を振り切って帰ってきた時点であの世界で過ごした一年間は存在していないのではないか。
――いいんだ、それでも。
どうなるか分からないというのに、意外なくらい気持ちが軽い。
階段をのぼってくる足音がする。ドアが勢いよく開いた。カーテンが大きく膨らむ。
「コウジ! ――うわ、着替えてるの」
次姉の多美が部屋に入りかけてぐるん、と回れ右した。
「ああ、うん、ごめん着替え中。何か用あった?」
部屋のすぐ外でほんの少し、ためらう気配がある。
「あのさ――別に今訊かなきゃいけないことでもないんだけどさ、仕事辞めちゃったけどこれからどうすんの?」
「うん。ちょっと遠くへ――」
「海外とか?」
海の外どころか世界の外なんだけども。
「もしかして、昔好きだって言ってた金髪巨乳美女のところ?」
「そう」
妄想じゃなかったんだ、という多美のつぶやきが部屋のすぐ外から聞こえる。失礼な。
――ちょっと困ったな。
この時間帯は誰も部屋に来ない、そう思っていたのに。道を踏みはずす決心が鈍りそうでつらい。
「あのさコウジ、さっきちらっと見えちゃったけど変わった服だね」
「そうだね」
「――わたしたちが同居で越してくるの、ずいぶん先だよ? なんでそんなに部屋片付いてるの?」
コウジは答えられなかった。




