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そしてぼくは道を踏みはずす (一)  作者: まふおかもづる
第五章

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十三

 コウジはジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めゆっくりと、先に立つバタさんを追って歩き始めた。酒屋に寄って、ゆるゆるといつも釣りをする場所へ向かう。


「なんで……」

「なんでって何のことだよ」


 ぱりぱりとレジ袋を鳴らし取り出した缶ビールを「ほいよ」とコウジに手渡し、バタさんは自分でもひとつ手にとってぷしゅ、とプルタブを押し開けた。


「ほれほれ、開けろ、そいでこうしてごちーん、ってぶつけてってのがこっちの世界の流儀なんだろ? ――ほい、乾杯」


 並んでごっくんごっくんビールを喉に流し込んだ。しゅわわわ、と泡が身体の中をはしゃぎながら駆け下りていく。


「かーっ、うまいな!」

「はい」


 酔いが回るにはまだ遠い。でもふんわりと気持ちが軽くなった。



「コウジくんの『なんで』ってのはきっと今日あそこで俺が待ってたことを指すんだと思うけど、何のことはない。バタさん、顔の広いヒモなの」


 つまるところ広い人脈でコウジの営業先とアポイントメントまでつかんでいた、と。すさまじい情報収集能力だな。コウジは苦笑した。


「なんで、ってのは俺も言いたい。どうしてここに来ないんだよ――ってまあな」


 どう言い訳したものか、と俯くコウジをちらりと見遣ってバタさんはぐい、とビールをあおった。


「うちの女房がなんか言ったんだろう。悪いな」


 無言を通せば肯定したことになると分かっていても嘘は言えなかった。


「貴いひとからいただいた指輪のこととかいろいろな、女房は何か知ってるんだろう。俺には話してくれないが」


 ビールを呑んで少し軽くなった気持ちがずっしりと重くなった。でもコウジからは何も言えない。

 十年前に道を踏みはずしたのを最後に、数日寝込んで起きたらいつもついて回っていたがさがさした道のような何かが消えてなくなっていたのだという。バタさんは焦った。一刻も早く元の世界へ戻り王妃の無事を確かめなければ――手厚く看病し、好きなだけここで暮らせば良いと申し出てくれた親切な女に感謝しているものの、焦りが募る。王妃と自分をつなぐ思い出の品、指輪が手もとに戻れば帰れるのではないか。自分が決まって現れる庭に指輪が落ちてはいないか、と草むしりをして掃除をして庭木を剪定して、家の外だけでなく内側もバタさんはぴかぴかに整えた。しかし指輪は見つからない。一年、また一年と時が過ぎ、


「俺は気づいた。この世界で時間を重ねて俺は老いつつある」


 自分には関係のないことなのにコウジは申し訳ない気持ちで一杯になって何も言えない。


「そう気づいたらなんだかな、それでいいような気がしてきたんだよ」


 ふとバタさんが表情を引き締める。


「ひとつだけ、教えて欲しい。俺の貴いひとは助かったんだろうか」


 少し迷ってコウジは答えた。


「あの場は切り抜けたそうです。そのあと掩護があったかどうかまでは――」

「そうか。それだけ分かれば十分だ。――助かったんだな」


 バタさんは泣いた。

 日にさらされて地面は乾き、草や灌木(かんぼく)は熱波でしおしおと勢いを失っている。しかし夏が終わろうとしている。夕凪(ゆうなぎ)が終わり川面の温気(うんき)を風がやわらかく払うと、虫の音が二つ、三つちりちりと聞こえ始めた。


「すまないな、どうも年をとると涙もろくなっちまっていけない」


 くすん、と鼻をすすってバタさんは照れくさそうに笑った。


「バタさんは後悔しないんですか」

「意外に野暮だな、コウジくん。――それよりきみはどうなんだ」


 河原のこの場所でバタさんの奥さんから話を聞いて以来、コウジはずっと考えていた。道を踏みはずす病気が治ったバタさんは元の世界で存在しないことになっている。人生が確定してしまえば道からはずれた世界で存在自体がなくなってしまう。

 自分の場合はどうなんだろう。

 コウジはなんとなく、その気になれば惑星ナラクへ行けるのだと思い込んでいた。実際行けたとして、そこは自分の知るナラクなんだろうか。春祭り、黄輪党の墓所で道を踏みはずしてからどのくらい時間が経った? 本当に時間の進みの違いは二倍で済むのか? そしてこうして東京の、自分の世界へ戻った後、ナラクでの一年間は存在しなかったことになっているんじゃないのか。あそこでもう一度出会う美しいひとはほんとうに自分の知るそのひとなのか。そして自分のことを(おぼ)えていてくれるのか。自分を愛してくれるのか。

 ここしばらく考えていたことがぐるぐると頭の中を巡る。コウジは俯き、気弱に微笑んだ。


「ぼくの場合はバタさんみたいに大義とか、そういうのないですし、向こうの人たちに迷惑ばかりかけちゃって――」

「それでいいのか」

「いいって――いいのかな、どうなんだろう」

「あのな」


 バタさんはぐい、とビールをあおった。コウジも真似をする。掌の熱が移ってビールはぬるくなっていたけれど、しゅわ、とほんのり喉を泡がくすぐる。


「大義がどうこう、意味があるのかないのかってのは歴史の後のほうで他の誰かが決めることよ。俺は貴いひとをなんとしても守りたかった。その願いがかなえば満足だ。で、あのまま元の世界に残っていれば死んでたな、きっと。で、願いはかなったんだしあとはどうでもいいわけ。俺はさ、生きてかわいい女といちゃいちゃしたかったんだけど、コウジくんは違うの?」

「違うのって言われても……」

「いいじゃねえか、大義とか意味とかどうでも。俺は初めのうちこの世界に興味がなかった。どうだろうな、ものすごくこの世界が好きか、と訊かれたら今でも首かしげちまうかもしれないな。でもよ、この世界にいる女房に惚れちまったのよ。何度も何度も顔を合わせるうちに。膝かっくんでずっこけるときにあの女はどうしてるかな、と思うようになったんだよね」


 同じ場所に現れても毎回、毎回出会うわけではなかった。しかし、奥さんがストーカーから助けてもらってバタさんに憧れるようになったように、バタさんもまた気にかけていた。


「道を踏みはずす病気の、忘れ物や落とし物禁止っていうあれってよ――結局俺の知る同じ病気持ちはコウジくんと俺と、俺にうつしやがった敵兵くらいだからはっきりしないが他にもなんか、条件みたいなもんがあるんじゃないだろうか」

「他にも?」

「愛着っつうか、思い入れっつうか、そんな何かが世界に関する軸足とか、時間の進み方に関係してるんじゃないかと俺は思ってる」


 バタさんはずっと元の世界に帰りたかった。大切な指輪を拾った奥さんのもとに引き寄せられ、時間を掛けて好きになったけれど、それでもバタさんの心は元の世界に向かっていた。だから時間の流れに大きな差ができた。


――ぼくの心はどこにあるんだろう。


 雪原で舞うように跳ね、飛ぶ女たち。獣頭の男たち。巨大な三頭犬。世界が隔てられる間際、渦の向こうで腕を伸ばしていた美しいひと。橘。

 どんなに目を()らしても、心の奥底に蓋をして押し込めても、雪と氷に(とざ)された惑星でのあたたかな思い出がコウジの心を占める。


「例えばだけどよ、色恋で進む道決めたっていいんだよ。そしてずばーん、とくる一目惚れだけが恋じゃねえんだよ。じわーっとくるのもまた恋よ」


 バタさんは明るく言い放った。


「家事が下手で空回りするけど目が離せなくてな、情が厚くていい女なんだよ、うちの女房は。俺はこの世界であいつと生きると決めたんだ」


 砂利を踏む音、すすり泣く声がする。少し離れたところにグレーのスーツに身を包んだバタさんの奥さんが立っていた。バタさんはぽん、とコウジの肩をたたき


「人生ってのは短いんだ。自分がどうしたいか、そのためにどう行動するか考えろ。後悔すんなよ」


 奥さんのもとへ向かった。寄り添う二人の姿が夕闇に溶ける。


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