十二
日傘に隠れてバタさんの奥さんの表情はうかがえない。
「あの黒い石が載った指輪、最初は交番に届けました。でも届ける前の一晩、手もとに置いていたら不思議な夢を見ました」
高い天井に精緻に描き込まれた絵、きらきらと光を反射するシャンデリア、色とりどりの衣装に身を包んだ美しい人々。舞踏会だ。
「価値がどれだけあるか分かりませんが、古くて由来ある品に見えましたから」
交番に落とし物として届け指輪の件はおしまい、奥さんはそう思ったのだそうだ。ストーカー被害は収まりつつあった。そしてだからこそ日常生活を立て直したかった。奥さんは俯いてつぶやいた。
「でも指輪は帰ってきました」
「遺失物の保管の――」
「いいえ、ひとりでに。ある夜、仕事から戻ってきますと玄関のたたきに落ちていました」
そしてその夜、やはりきらきらとした舞踏会の夢を見た。奥さんは再度交番に届けた。それからおよそ十年の間、何度も指輪は現れた。
「交番に届けただけではありません。骨董店に預けたこともありました。遠くへ捨てに行ったこともありました。でも必ず戻ってくるんです。玄関のたたきや庭のテラスにころり、と。――今思えばうちの人が庭に姿を見せるタイミングで戻ってきたような気がします」
そして家の中に指輪があると舞踏会の夢を見る。初めのうちはただただ珍しかった。夜中時々庭に現れる立派ないでたちの男、ストーカーから自分を救い出してくれた男に憧れてそんな夢を見るのだと思っていた。しかし舞踏会はただ華やかなだけではなかった。何度も夢を見るうちに妙な緊張感が漂っていることにバタさんの奥さんは気づいたのだという。
光がひとの形をとったような美しいひと。
舞踏会に集う人々の中でもひときわ華やかで辺りを払う威厳に満ちた白いドレスの人がいた。舞踏会の招待客の多くはその白いドレスの人と仲良くしたくて仕方ない様子だったが、よくよく見ると何とも言えない目をしている者が何人かいる。黒いドレスの女。肩章のフリンジを気にしている男。楽譜の頁を忙しなく繰る楽団員。華奢なグラスに飲み物を注ぐ給仕。
「何度目だったかしら。あの指輪がわたしの手もとに戻ってきた夜、夢の中の舞踏会に動きがありましたの」
ダンスが始まった。白いドレスの女が手を取られ、大広間の中央で踊る。くるり、くるり。おとぎ話のように美しい。そして曲が進んでひと組、またひと組とダンスに加わり色とりどりの花が咲いたように人々が踊る。
「そのとき――白いドレスのひとが襲われました。ダンスの相手をしていた男性がその方を守って――」
奥さんが見ていた夢はバタさんの元の世界で進行していた舞踏会襲撃事件だ。なぜかは分からないけれど、この人は指輪を媒介にしてバタさんの世界に引っ張られていた。
「白いドレスのひとを守った男性は亡くなったようでした。後味の悪い夢だった、と深夜目覚めて外を見たらあの人が倒れていて――」
ひどい怪我をしているのにみるみるうちに傷がふさがってゆく。怪我が治ってもバタさんはしばらく起きることができずこんこんと眠り続けたそうだ。
「あの人は高熱を出してうなされて『妃殿下』とあの白いドレスの人を呼ぶのです。時折その『妃殿下』という方とわたしを混同して涙を流して無事を喜んで――」
奥さんは唇を噛んだ。
「あの人がうわごとで話す内容は私が指輪を持っている間に見た夢と同じでした。ただ、私の見た夢にあのひとは出てこない」
「え?」
一歩踏み出し覗き込もうとするコウジの視線をバタさんの奥さんは避けた。
「何度もあの人の世界の夢を見た。でもあの人はいない。白いドレスのひとを助けて亡くなったのは青い軍服を着た男性でした。服だけじゃない。髪の色も目の色も顔かたちもあの人と違う。あんなに傷ついて守ったのに事の終わる直前にこの世界に来て――そしてあの人はあの世界に存在しなかったことになっているの」
バタさんの奥さんの頬を涙が伝う。
「ひどい。あの人があんなに、命まで賭けたというのになかったことになってしまうなんて」
奥さんの細い身体が怒りに震えた。
「わたし、指輪をここに埋めました」
日傘に隠れていても視線が河原の、先ほどコウジがほじくり返したあたりに向いているのが分かる。
「指輪は帰ってこなくなった。でもあの人はここに来る。あなたも――違う世界とつながっているあなたも指輪に吸い寄せられるようにここに来る」
白い日傘で顔を隠し震える女が強く言った。
「あなたがどこの世界の人かは知らない。お願い。あの人をこの世界から追い出さないで。わたしからあの人を取り上げないで」
日傘の女が去った後もコウジは動けずにいた。女の言うことはめちゃくちゃだ。謂われのない非難だ。でもバタさんがいったん失った道を踏みはずす病気をコウジから再び手に入れる可能性がないとはいえない。
夏の日差しがじりじりと肌を焼く。
* * *
「どうぞよろしくお願いいたします」
「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします」
さんざっぱらドタキャンを繰り返していた相手にコウジは駄目で元々という気持ちで再度アポイントメントを求めるメールを出した。数日の夏休み明け、それがあれよあれよとうまくいき、商談が成立した。梅雨の頃に難儀していたのが嘘のようだ。
挨拶を交わしビルをでて空を仰ぐと太陽がずいぶん傾いている。潮の香りがあたりに漂っている。
「よう」
日焼けしても明るい肌色の陽気な異世界人が立っていた。




