十一
オフィスを中心に首都圏をぐるんぐるん営業して歩いて、社にいる間は係長の「じゃん?」「じゃん?」攻撃やサイコな後輩女子社員の熱視線ならぬ粘着視線、そしてそれを外側で見守る柳田女史の勘違い混じりの生暖かいフォローなどにさらされながら書類をさばき、自宅では多美一家との同居に備え長年ため込んだ荷物の整理に勤しみ、母や姉、姪っ子たちとご飯を食べたり遊んだりしてそしてバタさんといっしょに川で釣りに興じる。
夏が駆け足で時間を引っ張って行く。楽しいから、充実しているから飛ぶように時間が過ぎていくんだ。コウジはむくむくと心の奥底で膨らみそうになる何かを押し込み、クローゼットの扉をばたん、と閉じる。今日から夏休みだ。
「あら、出かけるの?」
台所に顔を出すと母親が麦茶をポットに注いでいた。
「今日はバタさんと約束があるから」
「バタさんって……ああ、おじさんとデートなのね」
「んなっ! ちちち違いますよ母さん、デート違う、釣りだから釣り」
あははははは。楽しそうにからかう母にやり込められっぱなしなのが悔しく、コウジは唇を尖らせた。
「もう。ぼくがほんとにおじさんとその――恋仲とか、そうなっちゃったら母さん、困るくせに」
「別に困らないわよ。驚くけども」
母親はポットにふたをはめこんだ。むぎゅぎゅ、とゴムパッキンがポットをこする音がする。
「いいんじゃないの? そういう子がいても」
「ややや、なんというか、そんなもん?」
「そんなもん、そんなもん」
歌うように繰り返しながら母親はポットを冷蔵庫にしまう。そしてコウジを振り返り真面目な顔をした。
「興味本位で火遊びみたいな恋愛をするなら怒るけどね。相手に迷惑がかかるから」
「うちでは三姉妹みんなが普通に結婚して子ども産んでるからそう言えるんじゃないの?」
少し悔しい気分を引きずってコウジは母親に意地悪を言ってみた。母親は「ああ」と真面目な顔のまま頷いた。
「確かにそうかもしれないねえ。結婚してもみんな近所に住んでくれてまめに顔を出してくれるし、孫もみんなかわいいし、その上同居してもらえることになったし。恵まれてるからそう思うのかもしれないねえ。でもお父さんが亡くなって」
母親は表情をわずかに曇らさせそして
「人生は短いな――そう思ったのよ。恋愛だけでなくね、やりたいように、後悔のないようにおやんなさいな」
と微笑んだ。
いつものように川へ向かうとバタさんがいない。
「ありゃ? 場所間違えちゃったかな」
鉄塔や建ち並ぶビル、川に沿って優美な曲線を描く高速道路。高い堤に広々とした河原。灌木の位置もいつも通りだ。間違えていない。いつここに来てもバタさんはいるし、
――気が向いたら顔を出すといい。
何となく連絡先を交換していない。コウジはちらりと腕時計へ目を遣った。約束の時間までもうちょっとある。待っていよう。
手持ち無沙汰になったコウジはしゃがみ込み、拾った石で足下の土をほじくり返した。連日の晴天で地面は乾いている。細かな土埃が舞う。すぐそこに川があるのに案外水気が少ないんだな、ああ、ちょっと削っただけでぐずぐずになるようだったらそもそもここは河原にならず川底になっちゃってるか、などと益体もないことにつらつらと思いを馳せながらごりごり地面を削っていてふと顔を上げた。じりじりと苛烈な日差しに炙られてからからに乾いた河原の草が溶けそうだ。しゃがんで地面に近くなった角度で河原のちょっと向こう側へ視線を移すとゆらゆらりと逃げ水が見える。
――似てる。
風景はまるで違うけれど、こうして逃げ水をぼんやり見ていたことがあった。
――ああ、似てるんだ。道を踏みはずす病気をうつされたときと。
しゃがむコウジから少し離れたあたりにペットボトルのキャップがあるのが見えた。半分土に埋もれている。バタさんを真似て見かけたゴミを拾うのが倣いになっているのでコウジは腰を上げた。
――簡単に掘り出せるようだったら拾って帰ろう。
指を伸ばしたとき、
「あ」
思い出した。
がさがさした道をのしのし歩く大きな男。赤いど派手な上着のポケットから落ちた何か。輪になった金属で黒い石が載った――
「指輪」
あの日、コウジはバタさんが指輪を落とすのを見た。
「バタさん、あの指輪をちゃんと見つけたのかな」
コウジが独り言を漏らしたとき、砂利を踏む音がした。
「あ、バタさん――」
腰を上げ振り返ったコウジの目に入ったのは陽気で大柄な異世界の男ではなかった。青ざめた顔をした中年の女だった。
白い日傘。水色のワンピース。凍りついて動かない中年の女に何となく見覚えがある。
「あのもしかして、バタさんの奥さんですか」
びくり、と女は大きく肩をふるわせた。
「主人は風邪をひきまして」
バタさんに頼まれて奥さんは伝言を預かり川までやってきたらしい。
「わざわざおいでくださいましてありがとうございます」
「いいえ」
俯くと奥さんの顔のあらかたが日傘に隠れる。唇がきり、と引き結ばれた。川に顔を向けていた奥さんがぐいっと日傘を押し上げコウジを見つめる。
「あの、お願いがあります。――もうここに来ないでください。主人と会わないで」
強い目の色に怯えがちらりと見える。
「理由をうかがってもよろしいですか」
コウジが訊くと日傘がぐるり、と動いた。奥さんの視線は河原、何もない地面に向かっている。
――見えているのか。
道を踏みはずす病気を持たない者には見えないはずのがさがさした道のような何かがそこで蟠っている。
「ここって」
しばらく後にバタさんの奥さんは口を開いた。
「魚、よく釣れるんですか」
「釣れるときと、釣れないときがありますよ」
自然相手だから、そうそう狙ったとおりに釣果が得られるとは限らない。
「じゃあ」
奥さんはコウジを見上げた。
「釣れないときはなぜ釣れる場所へ移動しないんですか」
「なぜって……」
そう言えばなぜだろう。
奥さんは川面へ顔を向けた。口もとを除き顔が隠れる。
「あの人が初めてうちの庭に現れたのはもう二十年も前になります」
奥さんは両親を若い頃に失い、一軒家にひとり暮らしをしていた。
「あの頃は――お恥ずかしゅうございますがその、ストーカーにつかまっていまして」
話が拗れ、「つきあえ」「つきあわない」ともみ合っていたところにいきなりど派手舞踏会スタイルの大男が降って湧いた。庭からずかずかと土足で入ってきたど派手なバタさんはストーカーの首根っこを押さえ、外にたたき出した。
「あの人はそのあとすぐに庭から消えてしまったのですが一ヶ月後――」
ほとぼりが冷めたと考えたストーカーが押しかけてきた時にバタさんが再び庭に現れた。
「ストーカーからすると派手なコスプレをした屈強な男が不機嫌な様子で庭に立っているのが恐かったようで」
そりゃ恐い。バタさんは単に王妃様暗殺までの時間稼ぎをしたくて道を踏みはずしていただけなんだが、事情を知らない者からすればそのただならぬ雰囲気が自分に向けられた不審の表情に見えたのだろう。特にストーカーには思い当たる節がたくさんあるわけだし。
「そういうことが何度かあって幸い、ストーカー被害は収まりました」
その後頻度は減ったけれど、夜中ふと気づくと庭にバタさんが立っているのを何度か見たそうだ。
「あの人のことは不思議なことが多すぎて――あまりに昔なので順番は忘れてしまいましたけど例の指輪、あれがやってくるようになりましたの」
日傘からちらりとのぞく唇が震えた。




