十
「兄さん、具合でも悪いのですか」
馬車を降りてから舞踏会会場の大広間に着くまで男は何度も足を縺れさせた。がっくん、がっくんと姿勢を崩す兄を弟は見咎めた。
「緊張しているんですか」
「そりゃもう」
端からは久々に帰国した元王族との会見に緊張しているように見えるだろう。しかしやわらかく気遣っているようで弟の目は冷たい。
――今更怖じ気づいたのではないでしょうね。
――不仲な元あるじでも暗殺するとなると平気ではいられないか。
男は弟のきつい視線を避けるように気弱に顔を大広間の隅のほうへ背けてがくり、とまた転びかけた。
「しっかりしてくださいよ」
「ああ、大丈夫だ、済まない」
差し出された弟の手を取って男はぎくしゃくと姿勢を正した。まだ顔色が悪い。
重厚で華麗な迎賓館の大広間、きらきらしい調度、着飾った人々、そんなものは霞んでしまった。
視線の先にいるかつてのあるじ、敵国の王妃は凜としてうつくしかった。髪や肌、目は男の国の民特有の明るい色をしている。嫁ぎ先の名産品である良質な絹をふんだんに使った真っ白なドレスを着ていて清らかで威厳がある。外見がうつくしいだけでない。大人になったそのひとは幼い頃とまるで変わっていた。穏やかな微笑み。高い知性を感じさせる眼差し。自信に満ちた佇まい。
ひと目で男は理解した。このひとの尽力で自分の国は完全に焦土とならずに済んだのだということを。夫である王と老獪な政治家たちを説得したのだということを。そして護衛の男たちの、貴いそのひとに対する敬意を隠さないさまに胸が締め付けられる思いをした。
――あのとき忠誠を誓っていれば自分はあの護衛のひとりになれたのだろうか。
そうできなかったから現在がある。男は身体のあちこちに暗器を仕込んでいる。隠した爪が心をじくじくと苛む。
「兄さん」
「――分かっている」
弟に促され男は護衛に囲まれた敵国王妃のもとへ向かった。
貴いそのひとの手を取り広間中央へ導く。人々のつくる輪は遠い。護衛から引き離されたおやかな手をゆだねるそのひとはあまりに無防備だ。
ダンスが始まった。くるり、くるりとふたりで円を描く。腕を伸ばし、引き寄せて雅やかな軌跡を描く。
がくり。
王妃を引き寄せて男はつまずいた。しかしその足もとの乱れをステップに隠した。
「心ここにあらずですのね」
敵国王妃に指摘され、男は俯き、動揺を押し隠した。
周囲の誰にも気づかれていないが、馬車を降りてからこちら、男はがっくん、がっくんと足を縺れさせるたびに異世界へ道を踏みはずしている。
初めのうち、男は王妃を暗殺するつもりでいた。軍人の、高貴な家に生まれた者の矜恃を捨てた自分に選択肢はない。逃げ場はない。そう思っていたからだ。いざとなれば異世界へ逃げ込めるけれど、道を踏みはずした時点にすぐ戻ってしまうのでは意味がない。だから男は暗殺後の逃走ルートを探る情報収集と――ごく単純に暗殺までの時間稼ぎをしたくてがっくんがっくんと何度も道を踏みはずした。
――大人になるってどういうことだろうな。
――大切な人を守れる人が大人なんだと思うよ?
膝かっくんでずっこけて道を踏みはずした先は蒸し暑い世界だった。小さな家がひしめき、道路に蜃気楼が揺らめく。そこで出会った少年が自信なさそうに小声で、
――大切な人を守れる人が大人なんだと思うよ?
と答えたのを男は耳にしてはっとした。そうだ。逃げてばかりでは駄目だ。遠い場所で祖国と民を思い、戦争の早期終結に奔走したこの貴いひとを失うわけにいかない。安易に諦めては駄目だ。何とかしなくては。
ダンスが始まるまでのわずかな間、男は周囲に目を配り、何度もわざと道を踏みはずした。異世界へ弾き飛ばされて過ごす数分間、目にした情報をしっかりと整理してまたがさがさとした道に迎えられ元の大広間へ戻る。
弟の手配は完璧だった。兄である自分がしくじることも想定内で、他に刺客を何人も用意している。舞踏会の招待客。楽団の演奏者。給仕。馬丁に至るまで幾重にも包囲網を張り巡らせている。王妃を連れて逃げることはかなわない。
――それならば、弟の手の届かないところへお連れすればよい。
ダンスの最中、腕の中に王妃がおさまったタイミングで男は道を踏みはずした。真っ暗闇の中、小さな古い家の裏庭に男は一人で立っていた。腕の中には誰もいない。呆然としたまましばらく立ち尽くしがさがさした道に呑み込まれ舞踏会会場に戻った。
男はしくじった。
貴いひとを抱きしめたまま道を踏み外せるのではないかと思っていたのに、そうならなかった。
「わたくし――」
集中を欠く男の拙いリードにも関わらず王妃は優雅にステップを踏み続けている。
「覚悟はできておりますのよ。あなたがたからすればわたくしは敵ですもの」
王妃は男の赤い上着の袖口を指先で軽くなぞった。男はひやりとした。そこにも暗器を仕込んである。
曲が進み、ひと組、またひと組、次々にフロアに男女が踊り出た。くるり、くるりくるり。女たちのドレスがふわりと膨らむさまが色とりどりの花のようだ。
「妃殿下……」
男の視界の端で刺客が踊りに加わったのが見えた。給仕に扮した刺客も動き始めた。猶予がない。
「妃殿下、一曲目が終わる前に護衛のもとへお連れします」
王妃がじっと男を見つめた。
「――どうしても謝りたかったの。子どもの頃、あなたの嫌がることばかりしてごめんなさい」
幼い頃の口調に戻る。
「よいのです。俺も――」
「形見の指輪――」
時間がない。王妃が忙しなくささやきかける。上着のポケットを探って男の目が曇った。
――ない。指輪がない。どこだ。どこで落とした。
――あの世界か。
地味なつくりの似たような家が建ち並ぶ一角。ここ数回、同じ家の庭に出てしまう。警戒心を露わにした女と何度か鉢合わせしたこともある。あの庭に落としてしまったんだろうか。
「あの指輪、お守りよ。軍神とたたえられたおじいさまからいただいたものなの。どんなに厳しい戦いであっても必ず帰ってくるの。士官学校へ進むと聞いたから、わたくし――ほんとうは儀式のときに渡したかった」
「お守りのおかげでこのように御前にまかりでることがかないました。殿下、あのときの儀式、こたえをもう一度――」
くるり。くるり、くるり。
片腕で王妃のたおやかな腰を引き寄せ、男は大きくステップを踏んだ。王妃のいた空間を鋭い閃きが裂く。護衛たちが駆けつけるのを阻むように別の刺客が割り込んだ。招待客に扮した女が簪を振りかざす。
くるり、くるり。
王妃をかばい回転したが避けきれなかった。簪が男の腕に刺さる。女の黒いドレスがふわりと広がる。
――下からか……!
くる、くるくる。
王妃を早く安全な場所へ。せめて護衛たちのもとへ。素早く回転する男の背中に熱が走った。招待客に扮した刺客が斬りつけたのだ。男は袖に仕込んだ暗器を素早く手にし、王妃をかばい回転しながら刺客と斬り結んだ。もう少し。もう少しで護衛たちのもとに辿り着く。そうすればこの貴いひとは守られる。あと少し。背中を、腕を、こめかみを斬られても男はステップを踏み回転し続けた。
大広間に悲鳴と怒号、剣戟の響みが満ちている。
くるくるくる。
ふたりは護衛たちと合流した。弟が遠くから冷ややかに男を見ている。
王妃が涙ぐみながら男の名を呼ぶ。白いドレスも青ざめた頬も男の血で汚れている。
「殿下、あのおことばを――」
ほんの少しの逡巡の後、貴いひとは言った。
「わたしにちゅうせいをちかいますか」
玉のような目が男を見つめる。青ざめた唇がほころぶ。目の前の貴いひとは賢くうつくしく民の尊敬を集める人で、男が遠回りしてやっとたどりついた唯一無二の君主だ。
「誓いま――」
王妃の背後に給仕に扮した刺客が忍び寄る。男は王妃の腕を引き懐に抱き込んだ。そしてナイフを構え突っ込んできた刺客を避けず肩で跳ね飛ばした。
「つ……うう」
脇腹が焼けるように痛む。
がくり。
膝から力が抜けた。周りの空気が振動している。空気だけでない。身体も振動している。身体の随所に触れた小さな振動同士が干渉しあって大きな波になり一気に身体すべてを揺らした。
男は道を踏みはずした。
* * *
水鳥が二つ三つ、鳴き交わしながら川を遡る。水面をぎらぎらと横暴に照らしていた太陽が姿を隠し、残照もだんだんと力を失いつつある。
「その後、王妃様どうなったんですか」
「分からん」
「バタさん――じゃなくてその男は王妃様にちゃんと『誓います』って言えたんですか」
「分からん」
「男は王妃様を愛していたんですか」
「それは――違う」
夕闇にバタさんの輪郭が溶ける。しかしバタさんの声ははっきりと耳に届いた。
「そういうんじゃない。――あの貴いひととはそういうんじゃないんだ」
鉄塔や建ち並ぶビルにぽつぽつと灯りがともり、紺色の夕闇に光のシルエットが浮き上がる。川に沿って走る高速道路にも灯りがともり、優美な曲線を描いている。
バタさんのまわりには例のがさがさした何かは見えない。存在も感じない。バタさんは元の世界に戻れない。
今は飄々として朗らかに暮らすバタさんだけれど、どんなに元の世界に帰りたかったろう。すれ違うばかりだった異世界の王妃様が無事だといい。ふたりにとって大切な騎士ごっこの儀式、バタさんの誓いの気持ちが王妃様に届いているといい。
「遅くなっちまったな。帰るか」
「はい」
ひんやりとした川風が昼間の熱気を払い、穏やかに川縁の草を揺らした。




