九
数年後、王女は異国の王太子のもとへ嫁いだ。
異国の王族との結婚は個人でなく国家間の勢力均衡に関わる大事である。死んでも戻れない、そう覚悟を決め婚前に形見分けをするしきたりがある。男のもとにも慣例に従って形見が贈られた。
――側仕えをやめてずいぶん経つというのに律儀なことだ。
王女の紋章が刻印された宝石箱の中から出てきたのは古い指輪だった。鈍い銀色の台に黒い石が載っている。王女にはあまりいい思い出がない。あちらも同様だろう。そうは言っても突き返すことはかなわず、さりとて捨てるに捨てられない。男は机のひきだしに宝石箱を押し込んだ。
それから後、男の国は怒濤のごとき変化に揺さぶられた。英明の誉れ高かった王太子が事故で亡くなった。がっくりと気落ちした王も後を追うようにこの世を去った。幼い末の王子が王位を嗣いだが、国が割れた。男の家も先の王太子のめのと子であった兄と現王の側仕えである弟との間で割れた。軍人となった男はあちらの国境でそちらの国と、こちらの国境であちらの国と、紛争続きでとにかく忙しく家を顧みる暇もなかった。
男が道を踏みはずす病気をうつされたのはこの頃だ。相手は戦場で出くわした敵国の兵士だった。
血で血を洗う白兵戦。弾が尽きた銃剣で殴り合い、斬り結ぶ。生きるために目の前の敵を斃す。大義を見失った戦いのさなか、男が銃剣で突き刺そうとしたとき相手が片言で
「離レロ、道ガヤッテクル。コレハ呪イダ。人生ノ道ヲ踏ミハズス病気ダ。ウツル前ニ、離レロ」
そう言い出した。譫妄か。生き残るために策を弄しているのか。銃剣を構えた男をがさがさとした道のような何かが襲い呑み込んだ。
――ぶ……ん。
周りの空気が振動している。空気だけでない。男の身体も振動している。身体の随所に触れた小さな振動同士が干渉しあって大きな波になり一気に身体すべてを揺らした。
男が弾き飛ばされた先は花々が咲き乱れる草原だった。うらうらと長閑な陽光が煙と泥と血と汗にまみれた男をあたためる。
「お、おおお」
男は泣いた。戦争は不可避で、何が何でも勝たなければならないと聞かされている。しかし幼い王と側仕えの弟が議会や世論に振りまわされて繰り出す政策は場当たりで、人の命の懸かった戦争ですら誰かの利得を優先するだけのものに思われた。後先考えずに選択された政策に反対した兄は枯れて荒んだ辺境へ左遷された。自分は生き延びるために目の前の人間を銃剣で刺す。なぜこうなった。なぜこんなことをしなくてはならない。
同じ花が咲いているわけではない。四阿もない。しかしだだっ広いその草原で静かに風に揺れる花々は最後に王女と騎士ごっこをしたあの日の庭園を思わせた。
――わたしにちゅうせいをちかいますか。
心のままに言えばよかった。誓うといえばよかった。こうなる前に、かつてのあるじの嫁ぎ先が敵国となる前に。
――ぶ……ん。
がさがさとした道のような何かに呑み込まれ、男は戦場に戻った。妙な病気をうつした敵兵は腹に槍を生やしていた。
「……済マナイ。ウツシテシマッテ本当ニ済マナイ」
光を失いつつある敵兵の目が男を捉える。
「忘レ物ヤ落シ物、ダメ……元ノ世界ニ戻リタケレバ、絶対ニダメ。気ヲツケロ――」
男の腕の中で敵兵は死んだ。
以来、膝かっくんでずっこけて、男は何度も道を踏みはずした。回を重ねるうちに人生の岐路において選択を誤りそうになると道を踏みはずすのだと気づいた。そして、異界に弾き飛ばされ戻ってきても時間のずれがほとんどないことにも気づいた。
――呪いでも何でもいい。
馬鹿馬鹿しいこの戦争から一人でも多くの部下を生還させるためにこの病気を最大限に利用してやる。男は何度も、繰り返し道を踏みはずした。
敵国には優れた政治家がいるらしい。戦況が拡大し収拾がつかなくなる前にと敵国から他国を介し提案があり、やがて休戦協定が結ばれた。
男の国は戦争に負け、敵国の属州としてごっそりと領地を持って行かれることになった。どうせこうなるならもっと早く、失った部下を思い男は歯噛みしたが、兄と自分とを差し置いて当主になった弟の考えは違うようだった。
国が割れ、家が割れても男には軍人としての職務の他に務めがある。 どんなに言い訳しても結局男は高貴な家に生まれた者の義務から逃れられない。かつて父親に引っ張り出されたように、当主である弟から命じられ男は会議やら食事会やらに駆り出されている。その日、弟から舞踏会に必ず出席するよう念押しされ、男は理由を尋ねた。
「お妃さまがおいでになるんだ。――兄さん、懐かしいだろう?」
弟が目を細める。「お妃」、ああ、敵国に嫁いだ王女殿下のことか。男が得心するのに数秒要した。
「あちらはもう俺のことなど覚えていらっしゃらないだろう」
「それがそうでもないんだよね。――兄さん、国のために働いてもらうよ」
これが王の、そして国の意向なのか。愕然とする男に弟はほほえみかけた。
舞踏会当日。華やかな服に身を包んだ男は私室でひとり、窓から物憂く外を眺めた。
新州伯となったのはかつて男の国の王女であった敵国王妃である。他国へ嫁いだとはいえ、先王直系の子であることに変わりない。割譲された土地の民からすれば、新州伯はまったく知らない人物ではない。国民に人気のあった時代の王室の一員だ。統治者として迎え入れるにあたりかなり抵抗が減る。
敵国側はもちろんこの効果を狙っている。属州としてでなく国ごと併呑するための布石のひとつなのだろう。しかし当然のことながら、男の国で皆が皆「王女殿下ならば」と気楽に受け入れるはずがない。軍では戦力の差が理解できない輩が排外的発言などを口にし気焔を上げているが、文官連中はもっとひどい。戦争の間に青年になった王にとってはこうした言が耳に心地よいのだろう。
窓からのろのろと移した視線の先にはきっちりと並べられた暗器があった。敵国王妃となったかつてのあるじは旧交を温めたいと男の名を挙げたという。その要請に応え男は最初のダンスの相手をつとめることになっている。
――兄さんの忠誠を信じていますよ?
弟はそう言って暗器を差し出した。
――俺にあのお方を暗殺しろと言うのか……。
そしてことが成就したその瞬間に敵国王妃の護衛に殺されろ、と。男は弟に、王に切り捨てられた。
机のひきだしの奥を探り王女の刻印の入った宝石箱を取り出す。重厚なその箱を開けると黒い石の載った古い指輪が出てきた。
――わたしにちゅうせいをちかいますか。
夢見がちで我が儘だった王女との思い出がよみがえる。男は指輪をポケットに入れ、そして暗器を上着に仕込んだ。




