七
キッチンに集まってコウジの姉三人があーだこーだ言い合っている。母親との同居問題と等しく、あるいはそれ以上に熱く議論が交わされている。本日のトピックは日焼け止めについてだ。このメーカーがどうの、ジェルタイプがどうの、かしましいことこの上ない。
「はいはい、どいて。誰かちゃんとあの子たちの様子見ておいてね」
コウジが割って入ると三人揃って唇を尖らせた。よほど盛り上がっていたらしい。
「お母さんとだんなさんが見てくれてるもん。――あ、そういえば」
奈美がふんわりとしているようで妙に鋭い目つきでコウジをじろじろと見た。
「最近、週末は必ずお出かけなのにコウジったら日焼けしないよね」
「ほんとだ、コウジほんとにちゃんとお出かけしてるの?」
子守免除してやってるんだから遊びなさいよ、あわよくばカノジョつくって青春を謳歌しなさいよ、と多美が目を尖らせた。一、二回週末を空けてもらったくらいで恋人をつかまえられるほどモテるのであればとっくの昔にリア充だ。女の子であれば誰でもいいとは言えないくせにコウジはむくれた。冷涼な風と静かな森、巨大な三頭犬と美しいひとの面影を記憶の淀みに押し込める。
「ちゃんとって……まあ、遊んでるよ」
「何なのゲーセンなの独りカラオケなの? 何でそんなに真っ白なの? 日光浴びなさいよ」
「浴びてるよ」
コウジの身体の時間は戻っていない。食事をして風呂に入り、夜眠る。習慣で日常生活を送っているけれどおそらく食事や睡眠は必要ない。髭や髪は伸びず、怪我をしても痛みだけを残し瞬時に元に戻る。
――まるで生きていないような。
――かといって死んでいるわけでもないような。
日焼けもしない。サイコな後輩女子社員に迫られガード下の交差点で酔っ払いに押され道を踏みはずしたあの夜のままだ。
――コウジくんはあのがさがさを捨てられないんだろう?
自分はどうしたいんだろう。どうすればいいんだろう。亡くなった恋人に問いかけたくてもそのよすがである墓標すらこの世界にはなく、心に思い描くその面影は
――橘。
そのひとじゃない。コウジはキッチンの窓へ横から差し込む夕日を避け俯いた。
多美が後ろから顔を覗かせた。
「何それ」
「ハゼ」
ボウルボウル、包丁包丁、とコウジは動き始めのぜんまい人形のようにぎこちなく道具を用意した。多美に続き、亜美と奈美も作業台に載った発泡スチロールの箱を覗き込む。
「うわ、わわわ。何これ」
「小さいのがいっぱーい」
「この魚、どうするの」
「デキハゼって言うんだって。今年生まれたばかりのハゼのこと。で、骨ごとばりばりイケる天ぷらにします」
おおお、と姉三人が目を丸くして拍手する。
塩水で洗ったハゼの頭を落とし、わたを除く。バットに小さな魚が並べられる。
「お手伝いしましょう」
亜美が小さなまな板と包丁を取り出し、コウジの隣に立った。じゃあわたしも、とキッチンにいる全員で天ぷらを作ることになった。
やはり台所仕事に不慣れなコウジ独りでするより手早くて仕上がりもきれいだ。みるみるうちに下ごしらえが進み、同時進行でからりと天ぷらが揚がっている。
「お魚こんなにたくさん、どうしたの?」
「釣った。川で」
「ええっ? 誰と?」
思わず、といった態で多美が揚げ鍋をかきまわす手を止めた。他の二人も驚いたようにコウジを見つめている。
「えっと、バタさんっていう……」
「バタ?」
「川畑さんのバタなんだけど……」
「ああ、なるほど。でも女の子にしては変わったあだ名よね」
「女の子じゃないし」
「ああ、年上」
「うん、年上なんだけど、その」
姉たちの期待に満ちた目から発せられるきらきら光線が痛い。そんなもの出ていないはずなのにコウジは痛みを感じた。
「なんだ、釣りデートじゃなかったんだ」
多美の落胆は激しかった。奈美は違う意見を持っているようだった。
「いいんじゃないの? おじさんとデート、いいんじゃないの?」
「だからデートじゃないっつうの。釣りだよ、釣り」
「弟がくたびれたおじさんと……きゃ、萌える」
おじさんと……なんだよ。コウジの背中を冷たいものが伝う。だいたいバタさんはおじさんだがさしてくたびれてないし、気さくで枯れた雰囲気でノリが軽いからぱっと見分かりづらいけれどけっこうイケメンだ。そしてイケメンであるかないかにかかわらず、男とどうこうなりたいなどと考えたこともないのだが、口を滑らせると大変なことになる。きっとなる。ナラクで何度も衆道疑惑にさらされたコウジは本能でそれを悟った。
ぴゅう。櫛形に切ったレモンを亜美が小皿の上で搾った。さわやかな果物の香りが広がる。
「ああ、ちょうどよかった」
開け放したままのキッチンのドアを振り返り亜美が微笑んだ。亜美の視線の先には彼女の夫が立っていた。ぱらりと塩を振り、「あちちち」と亜美が行儀悪く指で小さなハゼの天ぷらをつまんだ。す、と小皿のレモンを天ぷらで撫でて亜美は指を差し出した。亜美の夫はごく自然に妻の手を両手で支え、天ぷらをぱくりと食べた。
多美がふい、と目を背け菜箸で揚げ鍋を乱暴にかき混ぜた。
――ああ、もう十年も前になるのか。
今は二人の子どもに恵まれて仕事に育児に家事に、忙しなくも幸せに暮らす亜美がかつて婚家から、そして今目の前で妻の手を大切に捧げもつ男から受けた仕打ちを多美は忘れていない。もちろん奈美も母親も、コウジだって忘れていない。
――あいつら、いなくなればいいのに。
虚ろな目で涙を流した姉の姿を忘れていない。亜美自身、そして亜美の夫だってきっと忘れていない。こうして微笑み合い仲睦まじくふれ合うまでに要したみちのりは平坦でなかったはずだ。それを知っているからコウジも他の家族も何も言わない。
「なにつくってるのー?」
「うまうま?」
油がぱちぱちと爆ぜる音と香ばしいにおいにつられて子どもたちが、そしていっしょに祖母であるコウジの母が台所へやってきた。
あらかじめつくってあったらしい惣菜が並べられ、夕餉の準備が進む。多美と奈美の夫もキッチンへやってきた。タンブラーやビールを手にいそいそと部屋続きのリビングルームへ向かう。取り皿や箸を手渡される姪たちが誇らしげにお膳の支度を手伝う。赤ん坊をあやしながらその様子を眺める老母が穏やかに笑む。
眩暈を起こしそうに幸せだ。家族の輪の一部となってただ存在するだけで赦され愛される。自分はこんなにも賑やかであたたかな場所にいる。
――今頃、橘はどうしているだろう。
黄三家は独戸となり、クローン体を培養し新しい家族を迎えることが許されない。これから橘はどうなるんだろう。
一気に賑やかになった台所の小窓からひんやりとした風が入ってきた。
「あ、夕立」
沛然と雨が降る。
さん。さ、ざざざ。
熱のこもった夕闇が洗われるのをコウジは眺めた。




