六
バタさんがこの世界にとどまって十年ほどになるのだそうだ。その前、最初の数年は元の世界と行き来していたのだとか。
「この世界に初めて来たのはコウジくんに会ったあの時なんだけどね。以来、なぜか分からないんだけど、他の世界に飛ばされなくなったんだよ。あー、来るなあ、これは膝かっくん来ちゃうなあ、今度はどんな世界かなあ、なんて思いながらずっこけたらさ、必ず東京なの」
例のがさがさとした道のようなものはかつてバタさんの背後にいた。異世界へ飛ばされても常についてきた。それなのに
「ここんとこ存在を感じないんだよ」
「ここんとこって」
「居着いちゃって以来だから――十年くらいかねえ」
弁当つかいながら話そうや、とバタさんは青海波模様の手提げ袋を取り出した。
「どうぞどうぞ」
おにぎりを頬張りながらバタさんが嬉しそうに勧める。コウジはおにぎりやら漬け物やら鶏唐揚げをいただいた。
「おいしいです」
「そうだろう、そうだろう。俺が作ったんだ」
バタさんが胸を張るのにコウジは首をかしげた。この弁当箱の入っていた手提げ袋はさっき日傘を差した女の人がバタさんに手渡していたような。
「たはー、見られちゃったか。あれね、女房なんだ」
日焼けしても明るい色をした顔をくちゃくちゃにしてバタさんは笑った。歯におにぎりの海苔の切れっ端がくっついている。リア充には教えてやらない。せっかく梅雨が明けたばかりだというのにコウジの心にはもう涼風が立っている。涼風どころじゃないむしろ冬、ブリザードだ。
――り*********ろ!
冬。雪原。樹氷。雪の瘤を蹴り、宙を舞う女のイメージが脳裏をよぎる。意識から締め出していたはずのナラクの風景がなつかしく、胸が痛む。
「膝かっくんのたびにさ、その気はなくてもどうしても今の女房んちの庭に出ちゃうんだよ、俺」
いやー、毎度毎度すみません、すぐ消えますんでおかまいなく、とかなんとかど派手衣装の大男が明るく軽く言い放つさまが容易に想像できる。
「最後の膝かっくんのときは元の世界でちょっとヤバくてな、怪我したまま道を踏みはずして」
人事不省に陥ったところを後に妻となる女性に助けられたのだという。人と出くわした異世界に何度も行ってしまうというのも、毎回同じ場所に出現するという現象も、面倒を見てもらってそのまま居着く、というのもコウジにとって身に覚えのある話である。
「ひも」
「はい?」
弁当箱を縛るのに必要なんだろうか。コウジは紐を探した。
「いや、そうじゃなくてヒモ。俺、女房に面倒見てもらってんの」
バタさんの道踏みはずし人生において異世界で人と出くわしたのはここ東京が初めてなのだという。東京はいろいろな人間が集まる街だけれども何のバックグラウンドもない異世界人がひょいと現れて真っ当に独りで生きていけるほど甘くない。派手で重そうなコートを着込み、白い手袋をして現れた若かりし頃のバタさんの姿をコウジは思い出した。外見は立派だったけれど、生活力はなさそうに見えた。
――ぼくだってバタさんのこと、どうこう言えない。
日本で培った営業スキルなんて異世界で何の役にも立たなかった。姪っ子たちで鍛えられて子守は得意だし好きだけど、プロの保育士じゃないから咄嗟に判断が出来なかったこともあった。
コウジがナラクの人々に受け入れられたように、川畑さんという女性に保護してもらえてバタさんは幸いだった。
「だからせめてメシくらいは、と思って覚えたんだけど――難しいもんだねえ。この世界の居心地は悪くないと思うんだけど、うちの女房はときどき窮屈そうにする」
休みになると奥さんがさっきのように弁当を届けに来るのだそうだ。弁当箱の中身はバタさんのお手製なのかどうか、家の外の人間には分からない。
――手作り弁当を届けに来る健気な奥さん、ってことか。
コウジは脚の長さが揃わなくてかたかた言う椅子に座らされているような気持ちになった。なんか違う、どうせなら自分で作ればいいのに、と指摘するのは簡単だ。しかし十年かけて今のかたちに落ち着いている夫婦関係に安易に口を挟むのも憚られる。
「で、コウジくんは例のがさがさ、どうにかしたいわけ?」
「どうにか……」
どうなんだろう。
人生を誤りそうな瞬間に膝かっくんでずっこけて道を踏みはずし、異世界へ行く。異世界に飛ばされる。自分の世界から弾かれる。自分の意思とは関係なく行き来するこの不思議な何かは悪い病気なのだと思っていた。
コウジがまだ子どもの頃、頻繁に道を踏みはずしていたあの頃は気が重かった。本来コウジは喜怒哀楽の激しい気質だ。でも気分の揺らぎに任せて感情を表に出せばまた異世界に弾き出される。いつも無事に戻れるけれど、次は駄目かもしれない。もしかしたら家族のもとに戻れなくなるかもしれない――その不安が幼いコウジの感情の暴発を抑えた。叱られるより褒められることが増えてきたけれど、コウジの心には常に不安があった。こんな変な体質、治ったらどんなによいか。何度も思ったものだ。
しかしコウジはあの星で出会ってしまった。柚子と橘に。
道を踏みはずさなくなれば――どうなる?
いきなり異世界に弾き出されて人生がいったん途切れリセットされるなどと言うことがなくなる。そしてナラクに行けなくなる。橘に会えなくなる。
「コウジくんはあのがさがさを捨てられないんだろう?」
「そんなことは……」
コウジは俯いた。うなじを夏の日差しがじりじりと炙る。
捨てられない。どうやって捨てればいいのか分からないけれど、方法が分かっても捨てられない。自分で望んで帰ってきたくせに捨てられない。ナラクへ渡る唯一の手段であるあのがさがさした道のようなものを捨てられない。ナラクから、橘から逃げたくせに。




