五
次姉多美が母親と同居すると言い出した。父親が亡くなって五年経った今も元気のない母親が心配なのはコウジも同じだ。平日も休日も忙しくしていて母親と向き合う時間を持てないのが気がかりだった。だから多美が夫や二人の子を連れて帰ってくるという案にコウジは賛成した。
「コウジ、それでいいわけ?」
ふんわりしていて良くも悪くも周囲への興味が薄い末姉の奈美が珍しく口を挟んだ。
「多美姉が同居するってことは、あんたは出て行かなきゃいけないってことじゃん」
ああ、それは考えてなかったなあ。コウジは腕組みをした。考え込むようなふりをして話題が自分から逸れるのを待つが、どうも雲行きが怪しい。
「奈美は子守がいなくなるのがいやなんでしょ」
「だってうちの子、コウジじゃないと預けられないもん。多美姉だってコウジを便利に使ってるくせに、今更何よ」
案の定、多美と奈美が言い合いを始めた。ぎゃいぎゃいとかしましいのにかまわず、長姉の亜美が小さく縮こまるコウジに目を遣り微笑んだ。
「いいんじゃないの、一人暮らしも」
「うん……そうだね」
「ええ、そうよ。それに多美ちゃんも今すぐ出て行けって言ってるわけじゃないわ」
「そうだよ! そんなこと言ってないし!」
だってさあ、とさらに話を混ぜ返しにかかった奈美と顔を真っ赤にして憤る多美をなだめるのにコウジは苦労した。
いきなり予定が空くというのは困りものだ。
今まで週末は当然のように子守をしていたのに突如コウジは放り出された。母親は学生時代の友人と旅行、姉や姪たちは遊園地に行くらしい。
「いつも急に思いつくんだから、多美ちゃんも困ったものね」
電話口で亜美が苦笑いしているのが見えるようだ。
「多美ちゃんたら急にね、コウジにカノジョがいないこととか気になりだしたらしいのよ。とにかくしばらくゆっくりするといいんじゃないかしら。あらあら、もう出かける時間ね」
おっとりとした口調で亜美は会話を切り上げた。
土曜日、日曜日、完全に予定のない休日は久しぶりだ。
――カノジョいないから心配って多美姉、大きなお世話だよ。
何をしようか。映画を観るか。ドライブに出かけるか。しばらく無精して連絡を取っていなかった友人に電話をかけてみるか。ポケットのスマートフォンに手をやろうとしてコウジは居間の窓から差し込む陽光に目を細めた。
まだ午前中だというのにぎんぎんと日差しがきつい。いよいよ梅雨が明けて夏がやってくる。湿度が高く蒸し暑いが、晴れて開放的な気持ちになる。
――気が向いたら顔を出すといい。
道を踏みはずす病気をうつした中年男の笑みをコウジは思い出した。たまには川へ散歩ってのも悪くない。
東京は川や運河が多い。コウジが歩いている界隈もそうだ。昔ながらの漁師町の名残と都心すぐのベッドタウンが一体となって独特の街並みをかたちづくる。道に迷うようだったら縁がなかったものと諦めよう。そう思っていたのに駅から目指す川まですいすいと辿り着いた。
――誰かいる。
中年男は一人ではなかった。白い日傘を差した中年の女が手提げ袋のようなものを渡している。会話に興じているのか、日傘が楽しげに揺れる。堤の上に立ち、遠慮したものかと迷っていると、日傘の女が川縁から離れ、水色のワンピースの裾を風から守るように押さえながら堤を上ってきた。女はすれ違いざまコウジに軽く頭を下げた。顔のあらかたは日傘に隠れているが、唇が淡く笑みをかたどるのが見えた。
――家族なんだろうか。
コウジは女に会釈を返した。白い日傘が路地へ吸い込まれるのをぼんやりと見送って川へ視線を戻すと、中年男が堤に立つコウジに気づいて手を振る。片手を挙げて応え、コウジは河原へ下りていった。
中年男は前回と同じ場所で今日も釣りをしている。バケツを覗いてみると前回と違いデキハゼがどっさりいる。コウジが茶褐色の小魚の目が上に寄った剽軽な顔つきに見入っていると、犬を連れて歩く知人らしき男が声をかけてきた。
「バタさん、今日はどうだい」
「デキハゼがそこそこ、ね」
知人へ手を振って中年男はコウジに向き直った。
「俺のことは川畑のバタ、バタさんって呼んでくれ」
川畑。明るい色の髪や目、彫りの深い顔つきなど白人そのものの見た目にそぐわない名前だ。
「ぼくは坂上です」
「下の名前は」
「コウジです」
「ん、コウジくんね」
バタさんはにこにこと頷いた。ファーストネームを「下の名前」と表すあたり、日本での生活が長いことがうかがえる。そしてさらっと名前なんか呼んじゃったりして、かなりフレンドリーだ。二十年来の知己だと言わんばかりでずいぶんなれなれしい。だがあながち間違いとも言い切れない。二十年前にちらっと会っているし。道を踏みはずす病気をうつされたけど。
バタさんはじっとコウジを見た。ちらりとコウジの背後にも目を遣る。
「コウジくんの後ろにあるがさがさした例のアレ、ずいぶん立派っていうかなんていうか」
「そんなに目立ちますか」
「うん。かなり。――ああ、他の人にも見えるのかってことだったらそこは心配いらない」
このがさがさした道のようなものは同じ病気持ちでなければ見えないらしい。コウジはほっとした。こんなものが他の人にも見えていたら大変だ。頭上高いところや背後にいてあまり目にすることはないが、このがさがさの存在をコウジは常に感じている。あまり気持ちのよいものではないので他人に見られずに済むのはいいことだ。
あれれ、そういえば。コウジは気づいた。
「バタさんも同じ病気もってるんですよね? 例のがさがさ、見当たりませんよ」
「あ、やっぱりない? 俺、治ったみたいなんだよ」
治る? コウジはぐわし、とバタさんの両肩をつかんだ。コウジが肩をがくがく揺さぶるのに合わせてバタさんの延べ竿がぶんぶん振れる。あ、あ、あ、あ、バレちゃうから、デキハゼ、バレて逃げちゃうからあ、とか何とかバタさんが呻いていたが
――この病気、治るのか……!
驚きのあまり心ここにあらずのコウジの目には入らなかった。




