四
顧客から土壇場でキャンセルが出てぽっかりとスケジュールが空いた。
「社に戻るには……うーん」
コウジは腕時計を見た。これから帰社しても定時過ぎ。もともと直接帰宅する予定になっていたし。
「今日はおしまいってことで」
コウジはジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めゆっくりと歩き始めた。
梅雨の中休みでよく晴れたが蒸し暑かった。日が傾き始めてもまだアスファルトに熱がこもっている。雑居ビルや倉庫の建ち並ぶ街をしばらく歩くと川に行き着いた。堤を歩く。
「――お、涼しい」
川を見渡しながらコウジは目を細めた。堤から河原へ下り、涼風に誘われるまま歩く。茂みが切れているあたりへ行って間近に川を見たい。吸い寄せられるように足を向ける。そうやってゆるゆると歩を進めていると釣り人の背中が見えてきた。
ただ後ろを通り過ぎようとしただけだったのにその釣り人がびくり、と肩を振るわせて振り返った。釣り人は大柄な白人の中年男だった。明るい色の目を大きく瞠りコウジを見つめている。その大げさな仕草と表情に度肝を抜かれコウジも足を止めた。しばし無言のまま川風に吹かれる。中年男は視線をコウジの頭上へ、そして背後へと動かした。
――この人……あれが見えてるのか。
コウジは身構えた。どうやって警戒したものか分からない。この中年男にはコウジについて回るがさがさした道のようなものが見えている。がさがさしたものがのったりと動き回るのに視線を合わせていた中年男がやがて緊張を解き、ため息をついた。
「もしかしてきみはあの時の――少年か」
あの時の、少年? コウジは首をかしげて目の前の中年男を見つめた。日焼けしていても肌が白く、髪や瞳の色が明るい。記憶の底、奥深いところから既視感が立ち上がる。筋肉質で隆々とした肩や腕、大きな手で明るい色の髪をかきあげる仕草にかすかに見覚えがあった。目の前の男は記憶の中の姿と比べるとずいぶん老け込んでしまっているが
――俺は違う世界から来たんだ。
赤を基調としたど派手なコートを着たあの――
「道を踏みはずす病気をうつしやがったおじさん!」
「懐かしいなあ、少年!」
中年男は竿を放り出して立ち上がりぐわし、とコウジの手を握った。痛い。
いったん放り出した竿を拾った中年男は水に沈んでいた仕掛けをすうっと手前に寄せ
「食われちまった」
とぼやき、餌箱からみみずをつまみ出して針につけた。バケツを覗いてみると茶褐色の小さな魚が二匹、胸びれを震わせている。
「デキハゼ。今日はテナガエビ狙った方がよかったかもしれんなあ」
中年男はすうっと竿を前へ動かした。みみずのついた仕掛けが川へ吸い込まれる。
しばらくの間、中年男といっしょに川を眺めた。
きらきらと陽光を反射する川面を風が渡る。河原の芝生も、ぽつぽつと距離を置いて枝を広げる灌木も、川に沿って優美な曲線を描く高速道路も、鉄塔や建ち並ぶビルも、夕日にやわらかく霞む。それが湿気を帯びた空気の淀みによるものであっても、仮に都会のせわしなさに疲れた人々のため息で曇っているのだとしても、霞んだその眺めがコウジにはやさしい色をしているように見える。
「今日はどうも駄目だな」
腕時計に目を遣り、中年男はバケツの中身をそっと川へ流した。
「逃がしちゃうんですか」
「二匹っきりじゃあ腹の足しにならんからな。――大きくなって帰ってこいよ」
中年男はのんびりと川へ声をかけた。さっき逃がした小魚へ語りかけたつもりらしい。慣れた手つきで道具を片付け、クーラーボックスを肩にかける。
「俺は仕舞いにするが少年はどうするよ」
明るい色の目を細めた。
「ぼくも帰ります」
「そうか、駅行くんなら途中まで一緒に歩くか」
「はい」
はしゃぎまわる子どもたちやゆるゆると散歩する人々が時折行き交う河原をコウジは中年男と並んで歩いた。
「少年の世界はいろいろあるけど、いいところだなあ」
「ええ。そうなんです」
お互いに前を向いたままぽつぽつと話す。堤を越え、マンションや一戸建ての混在する住宅街に入る。
ぶいいいいん、とエンジン音が近づいてきた。初老の男がオートバイを止める。
「おう、バタさん、今日はどうだったえ」
「デキハゼ狙ったんだが坊主よ」
「ハゼにはちと早かろう」
「だあなあ」
あはははは。のどかに笑い、オートバイに乗った男が去った。
「――よっぽど天気が悪くない限り俺は毎日あそこで釣りしてるよ。気が向いたら顔を出すといい」
駅はあっち、と指し示す中年男と別れた。振り返ると辻に立つ男が手を振っている。お辞儀を返すコウジには、男の明るい髪や瞳が違和感なく家路を急ぐ人の行き交う街に溶け込んでいるように見えた。




