三
* * *
週末が楽しみでしかたない。買い物、家族に頼まれた用足し、ただの散歩、とにかく自分のペースで自分のことだけ考えていられるほんの数時間。実家に子どもたちを預けて過ごすひととき。多美にとって貴重な息抜きだ。実家の母だけでなく弟も乳幼児の扱いに長けているので頼りになる。でも近頃、いつからとはっきり言えないのだけれど、弟の様子がおかしいような気がする。
「リア充、爆発しろー」
「りあじゅー、ばくばくしろー」
「ばくばくー」
「しろー」
「わふーん」
きゃはははは、と庭で子どもたちの明るい笑い声がはじける。子どもたちの喜ぶ声は笑みを誘う。たとえあどけなく発せられるそれが益体もない、そして物騒でお下劣この上ないネットスラング、ルサンチマンの叫びだとしても。
「コウジったら欲求不満なのかしらねえ」
弟に言われて子どもたちが庭で半分遊びながらおもちゃを片付ける様子を眺めながら多美は、弟の女性遍歴をつらつら思い出していた。
――最後の彼女って……ずいぶん前なんじゃないの。
確かコウジが大学生だった頃、バイト先で知り合った他大の学生だとかで顔も雰囲気もかわいいのに裏っ側にえげつない何かがありそうな娘だった。就職活動のスタートが遅れたからとかでフラれたらしいが多美はちっとも残念だと思わなかった。
――こっちからフッてやりゃあよかったのよ。
あれから五年。弟には浮いた話がない。
――まさかあの裏表娘に未練が……あるわけないか。
幼児に「リア充、爆発しろ」と叫ばせる欲求不満(仮)だけでなく、弟の様子が以前と違う。どことなく影が薄いような。
――やっぱりあの話が引っかかっているのかな。
穏やかに子どもたちを見守る多美の眉間にほんのわずか、皺が寄った。
坂上家の四人姉弟の間で先般、話し合いがもたれた。議題は誰が母親と同居するかについてである。母親は六十代、本来ならばまだまだ元気な年頃だがべったりと依存していた父親亡き後、しょんぼりしていて心許ない。
――わたしはダメよ、あちらと同居が条件で結婚しているから。
長姉の亜美はきっぱりと言い切った。気のない様子で話し合いに参加した奈美は
――コウジがいるじゃない。
と言った。三女の奈美は都合のいいときだけ「長男なんだから」と弟を持ち上げ面倒ごとを押しつける。奈美を見ているとイライラが募りそうで多美は視線を末っ子のコウジへ移した。おとなしく俯く弟は話し合いの方向を見定めるつもりでいるのだろう。姉たちの誰かが同居したいと言い出しても、同居前提で嫁をもらうべしと勝手に決めつけられても、問題を先送りしようとひとまずの結論が出ても、弟は受け入れるつもりでいるに違いない。
それでいいんだろうか。平日は遅くまで仕事、休日のあらかたを姪っ子たちの面倒を見ることに費やす弟。自分だって子守として重宝しておいて何だけど、弟はそれで満足なんだろうか。
――わたし、同居する。
いずれ必要になる家の改築費用はウチでもつけど、おかあさんの介護は別、ちゃんと手伝ってもらうわよ。子守も今後コウジだけじゃなくて当番制ね、今までみたいにただ押しつけられちゃ困る。目をぱちくりさせるきょうだいに反論の隙を与えず多美はテキパキと一方的に話を進めた。
コウジの負担を減らしたくて持ちかけた同居話だったけれど、もしかしたら却って居づらい思いをさせてしまっているのかもしれない。多美は、奥で赤子をあやしているコウジへちらりと目を遣った。
幼い頃、コウジとよく喧嘩した。どうでもいいことですぐ対立した。コウジは多美とよく似ていた。我が儘で考えなしに突っ走るアホで、アホだからよく怪我をして、その怪我の原因が自分自身にあるということすら理解できない、とにかくアホな子どもだった。それがいつの頃からか、コウジは聞き分けよくおとなしくなった。ただし元のアホは急に治らない。たまに喧嘩をやらかしたり、どうでもいいいたずらをしたり、周期的にアホな面が表に出たが弟は長ずるにつれ思慮深く、穏やかになっていった。大人になって弟は頼れる男に成長したけれどこの頃なぜだか――心配で仕方ない。
――いいことじゃない、男子は頼れるに越したことないでしょ。
奈美はそう言う。亜美も頷く。多美だってそう思う。でも時々コウジに訊きたくなる。ちゃんと楽しんでる? お仕事も、お友達も、趣味も、恋人も、何もかも大事だよ。二十代も半ば過ぎたんだからしっかり人生を楽しんで。しがらみや責任で雁字搦めになる前に。――弟にそう言いたい。
多美は唇を噛んだ。
きっと口にすれば弟はまじめに話を聞いてくれて穏やかに微笑んで
――何も不満なんか、ないよ。
そう言うに違いない。多美にも自分の心の中にある焦りに似たものが何なのか、言葉にならない。伝えたいのに、あきらめないでと伝えたいのに。
なぜだか弟の影が薄い。弟が遠い。
「おやつ、なに?」
「おいしいもの?」
「おいしーの!」
「うまうま!」
片付けを終えた子どもたちに手を洗うよう促し、おやつの用意をするせわしなさに紛れ、多美が弟に伝えたかった何かは心の奥、記憶の淀みにすうっと溶けた。
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