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そしてぼくは道を踏みはずす (一)  作者: まふおかもづる
第五章

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 『ドクター・アダムソンのマタニティガイド』。『どんとこい赤ちゃん』。『知っておくべき! 乳幼児の発達』。『シリーズ何が何でも一発合格 保育士』。『赤ちゃんをはぐくむひみつのおまじない』。『ミセス・スチュワートの赤ちゃんまっしぐら離乳食』。

 昼休み。会社近くの本屋の妊娠、出産、育児のコーナーでコウジは


「全部は買えないなあ」


 つぶやいた。背後から声がかかる。


「坂上くん、できちゃった結婚? それとも転職?」


 ぎょっとして振り返ると同じ課の柳田がにんまりと人の悪い笑みを浮かべていた。



「わたし、今日のブレンドで。――坂上くんも? じゃあふたつ」


 近所の古びた喫茶店に引っ張り込まれコウジは縮こまった。小さなテーブルの向かいで同じ課のパート社員、柳田がにこにこと、いや、有り体に言えばニヤニヤしている。


「この前、二人で遅くまでオフィスに残って何してたの?」

「何って――係長に命じられて注意を」

「ああ、表向きのそれじゃなくってさ――聞いたぞお」


 本日のブレンドとやらを一口含み、柳田は目を細めた。


「あの()に迫ったって?」

「んなっ」


 コウジは危うくコーヒーを噴きそうになった。


「そそそ、そんなわけが」

「そうだよねえ、ないよねえ」


 ニヤニヤ。柳田は新しいおもちゃを見つけた目をしている。コウジはため息をついた。

 柳田は気働きもよく仕事ができる。いったん退職したが再雇用され、正社員になることが決まっている。頼りになる同僚だ。しかし問題がある。ゴシップ大好きなのだ。芸能人のゴシップでなく身のまわりの。落ち着いたと思っていたがやっぱり噂拡散機能は健在か。サイコな後輩女子へのアタック話(無実なのに)はどこまで広まっているんだろう。どうやって火消ししたものか。コウジがため息をついていると柳田がふふ、と微笑んだ。

 サイコな後輩女子はあれ以来毎日定時ぎりぎりに出社している。勝手に休んで連絡は昼近く、ということもあったぐらいなので格段の進歩だ。本人はまだ早起きに慣れないらしくつらそうにしているが、うかつに声をかけて何らかの地雷を踏んではたまらないので課内の全員が問題の後輩女子を遠巻きにしている。柳田を除いて。

 あれだけ「柳田センパイが」「柳田センパイが」とこきおろしておきながら、やはり話しかけてくれるのがありがたいのだろう。サイコな後輩女子は柳田に打ち明け話をしたそうだ。


「それがぼくから彼女に告白したとかいう話なんですか」

「いやいや、告白ちがうよ、きみは彼女に迫ったんだよ、坂上くん」

「勘弁してください。ないです。あり得ない」


 たとえ地球滅亡の危機に瀕してもあり得ない。亡くなった恋人そっくりの少女にも告白できなかったのに――ナラクの森をわたる涼やかな風を思い出してコウジは俯いた。


「災難だったね。さすがのわたしもないわーって思ったからさ」


 嘘の告白エピソードをでっち上げ広めようとするサイコな後輩女子を柳田は止めてくれたそうだ。


「係長あたりはいい意味でも悪い意味でも面倒が嫌いだから聞き流すけどさ、課長とか、特に部長の耳に入ったら大変じゃない?」


 堅物で有名な部長は潔癖症でもある。部長の嫌う汚いものはごみや片付いていないデスクだけでない。社内のどろどろした恋愛沙汰も含む。セクハラ事件が起ころうものなら大変な騒ぎになってしまう。極端な潔癖症であっても幸い部長は公平な性分なので時間はかかっても必ずコウジの言い分は通ると思われる。しかし事実でないことで振り回されるのはごめんだ。


「柳田さん、ありがとうございます」

「いいってことよ。ところで本屋さんで見てたアレ、何なのやっぱりできちゃった結婚なのそれとも転職なの」

「柳田さん、落ち着いて。ぼくんちは姉がたくさんいて姪っ子たちが――」


 柳田の好奇心を満たせたかどうか定かではないが、ひとまず昼休みいっぱいかけて話を聞かれた。その後しばらくの間、くだんの後輩女子社員がねっとりした視線を送ってくることがあったけれど、柳田が何か言ってくれたのだろう。問題の後輩女子とどうこう、という噂が聞こえてくることはなかった。



 朝に晩にクローゼットを開けるたび馴鹿(じゅんろく)のコートや靴が視界に入る。喫茶店で柳田と話したときにナラクの森の風景が記憶の底からよみがえったのと同じように、しばらくの間はナラクの服を目にするたびに心がきりきりと締めつけられた。やわらかな草で覆われたゴメズ楼の屋上で吹雪丸と昼寝をする夢を見たこともある。ランチで食べたスモークサーモンのサンドイッチで牛おっさんと食べた弁当の味を思い出したこともある。休日のたびに会う姪っ子たちにナラクの子どもたちの面影を重ねたこともある。一度、渦の向こうにいる美しいひとに手が届いた夢を見てコウジは涙した。

 以来、意識からナラクとなつかしい人々を締め出すことにした。

 自分はもう異世界の思い出に振り回されない。その証拠にクローゼットのナラクの服が視界に入っても動じない。平気だ。


「コウジー」

「こーじー」


 階下が賑やかになった。姪っ子たちがやってきた。おままごとか、押し花の乾き具合を観察するか、どろんこ遊びか。さて、今日は何をして遊ぼうか。

 ばたん。コウジはクローゼットの扉を閉じた。


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