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そしてぼくは道を踏みはずす (一)  作者: まふおかもづる
第五章

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 ふんか。ふんか、ふんかふんかふんか。

 ふわふわしたものが忙しなくコウジの顔を撫でる。くすぐったい。身を捩りながらコウジははっとした。


――ここ、どこだ。


 ねっとりと湿った重い空気。暗い。夜か。闇に沈んでいてもそれと分かる。ここは東京、自宅の玄関脇の植え込みだ。


「るーちゃん、ただいま」


 顎に手をやり、輪郭に沿ってわしゃわしゃ撫で回すと柴の老犬がにぱ、と口を開き目を細めた。小さいな。そうか、るーちゃんは三頭犬じゃないもんなあ。ひとしきりじゃれて満足したらしい愛犬が鎖を鳴らしながら小屋へ戻るのを見届け、コウジは背嚢(はいのう)を肩に掛け立ち上がった。


 玄関からたたきへあがると奥から声がかかった。


「おかえり、コウジ。遅くまでご苦労さまだったねえ」


 母だ。久々に聞くねぎらいの声に目頭が熱くなる。声が震えないよう抑えながらコウジは返事をした。


「起こしちゃってごめん」

「ご飯は?」

「ああ、だいじょうぶ」


 曖昧な返事であってもこれがいつものやりとりだ。母親は「先に休むね」と顔を見せずそのまま自室へ戻っていった。

 土ぼこりを払った馴鹿革製の靴を手にコウジは玄関からすぐの階段をのぼり自室へ向かった。

 ナラク着ていた服からTシャツ、ジャージへ着替え、ノートパソコンを立ち上げてネットニュースをチェックする。電源ボタンもキーボードも、パスワードの入力も手が覚えていてよどみがない。一年も離れていたのに何の違和感もなくなじむ。


――そう言えば道を踏み外したとき、どこにいたんだっけ。


 そういえばオフィスで後輩女子社員に問題行動を改めるよう説得していたらなぜか口説かれたんだった。会社を出て最寄り駅前のガード下で――残業から解放された者、あるいは酒場を梯子して酔いに身を任せた者、夜遅くなってもたくさんの自動車が行き交う道路の交差点で信号待ちをする人々が居合わせたそこで後輩女子社員が剣呑な顔で信号を無視して斜め横断しようとしていて、自分は隣の酔っ払いに押されて車道に出てしまって


――膝かっくんで道を踏み外したんだった。

――どのくらい時間が経ったのだろう。


 今までのパターンであれば道を踏み外したその時点に戻れていたはずだ。コウジはマウスを動かした。

 国際協力会議の動向、株価や外国為替など市場の動き、新商品発表のニュースや天気予報。それらのニュースとともに心の奥によどんでいた日本での日々の記憶が立ち上がる。


「こちらの世界でのタイムラグは会社から家への移動分、一時間といったところかな」


 クローゼットの扉を開けてコウジは馴鹿(じゅんろく)のコートに触れた。ひんやりとした風が吹く森の中のぽっかりと空いた日当たりのよい広場のような場所。森の縁、地面を這うようにして生える丈低い木に頬を寄せ合うように咲く白く小さな釣り鐘のような花。黒く煤けた恋人の墓。怨念隈取り強面三頭犬の、春の空を映したような澄んだ眼差し。渦の向こうで腕を伸ばす美しい人。

 ばたん。コウジはクローゼットの扉を閉めた。望んで日本へ帰ってきたんじゃないか。心残りなど、烏滸(おこ)がましい。




 翌朝、当たり前のようにシャツに袖を通しネクタイを締め、当たり前のようにICカードを改札機にかざして通勤電車に揺られ、出勤した。周囲の時間にほとんどずれはないけれど、コウジ自身は一年間異世界へ行っていたわけで、いろいろと戸惑うかもしれない、そう警戒していたのにそうならなかった。


 出社してしばらく、始業少し前に問題の後輩女子社員が出勤してきた。係長も同僚たちも、コウジも驚いた。表情の硬い顔色の悪い彼女は誰とも目を合わさず


「おはようございます」


 とぶすくれた表情でつぶやき、席に着いた。柳田だけが


「おはよー、あのさあ早速で悪いんだけどお願いしてもいい?」


 とファイルの束を抱え声をかけた。

 メールをチェックし、スケジューラに商談やミーティングの予定を書き込み、資料を作る。得意先をまわり、注文を受けたり、世間話をしたり、クレームを受けたり。日常はすぐに戻ってきた。


 道を踏み外して一度目ナラクへ行ったときと同じであれば、今コウジが過ごしている日本の倍の速度でナラクは時が過ぎていることになる。日本で一日過ぎればナラクでは二日、一週間過ぎれば、ナラクでは二週間。当初じりじりと喉もとに()り上がる焦りに似た何かがコウジを(さいな)んだ。そのたびに


――橘はどうしているだろう。


 ナラクへ飛ぶ思いを心の奥底に押し込む。


――望んで日本に戻ってきたのだから。

――ここが自分の故郷で、居場所だから。


 なぜだろう。母親のこしらえる味噌汁も、駅の売店で毎朝買う瓶入りの牛乳も、アポイントメントの合間にかき込む立ち食い蕎麦も、得意先で出される煮詰まったコーヒーも、すべて記憶通りの味なのに口にしてもどこか遠い。そして朝起きて顔を洗う時、トイレを使う時、何の気なしに行動していて気づいた。


――髭、剃ってない。

――まるで生きていないような。

――かといって死んでいるわけでもないような。


 なぜ身体の時間が戻っていないのだろう。望んで帰ってきたのに。この日本がコウジの本来の世界なのに。道を踏み外すときに現れるがさがさした質感の何かが頭上高いところで、時に背後の離れたところで様子をうかがうように(わだかま)っているのを感じる。


――それでもいい。

――この世界にいれば橘に、ナラクの人々に迷惑をかけずにすむ。


 曇りなく磨かれた鏡に映る男の顔は暗い。


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