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そしてぼくは道を踏みはずす (一)  作者: まふおかもづる
第四章

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十七

     *     *     *


 今日も駄目だった。

 勉強も頑張ってる。剣術も弓術も頑張ってる。三頭犬のお世話だって。でも駄目だった――。

 犬舎の裏で膝を抱え涙ぐむ橘の耳に人の声が聞こえてきた。


「我は悔しいぞ、吹雪丸」


 母だ。幼い橘は建物の影からそっと覗いた。吹雪丸が巨体を縮め三つ頭をうつむかせしょんぼりしている。約束されていた地位をすべて返上し、犬舎の下働きをする母が難しい顔をして吹雪丸を小声で叱りつけていた。


「――が今のお前の姿を見たらどう思うか」


 クォズィー? コーズィー? 耳慣れない名だ。


――誰だろう。


 母が厳しく三頭犬を叱っているのだが聞き覚えのないその名前だけ響きが違う気がした。


――コズゥイー? コウジィ?


 橘は小さく口の中でつぶやいてみた。自分が口にした名前は母の口にしたものと違う。それはきっとまるくやわらかく甘い何かに包まれた何かだ。何だろう。誰だろう。


「分からんぞ?」


 母親が苦笑いしながら吹雪丸の三つの頭をそれぞれに撫でた。


「また会えるかもしれないじゃないか」


 吹雪丸がちらりと母親を見てまたうつむき、くふんくふんと湿っぽく哀れな鼻声を立てた。


「……ああ、そうだなあ。我もコウジに会いたい」


 母親が吹雪丸の首に頬を寄せる。吹雪丸が白い尾をふりふりと振る。しばらくそうして一人と一匹は身を寄せ合っていた。


「吹雪丸、お前は強い。賢い。コウジが戻ったときにがっかりされないようにしないと」


 気分がいくぶん上向いたのか、吹雪丸の尾がばっさばっさと揺れている。


「橘はまだ幼い。賢い吹雪丸からすると不足もあろう。だが」


 母親が巨大な三頭犬と見つめ合う。


「あの娘に合わせてやる必要はない。我が必ず娘を賢く強くなるよう鍛える。だからあの娘を侮らないでほしい。頼む」


 しばらく見つめ合った後、吹雪丸はわふ、と短く応じた。



 以来、吹雪丸は橘の指示を無視しなくなった。橘も自分のしたいこと、三頭犬にしてもらえることをきちんと区別して分かりやすく指示するよう考えるようになった。そしてもう闇雲にできないできないとめそめそ泣いたりしない。知らないことは知ればいい。できないことはできるように努めればいい。

 橘にとって大切な国や家族、吹雪丸にとって大切な群れやあるじ。ベン図の上で重ならず乖離していた領域が今はほとんどが重なっている。



    *     *     *

 

 橘は矢をつがえ、弓をぎりぎりと引き絞った。


「吹雪丸、三つ数えて射る! 三、二――」


 聞こえているのかいないのか、吹雪丸は熊から離れようとしない。それでも橘はカウントダウンを続けた。


――今度こそ射抜く。狙え。


 橘の手が止まった。ぴたりと(やじり)の向かう先が熊の目と合う。


(いち)――!」


 矢が放たれた。号令に耳も貸さず熊と揉み合っていた吹雪丸頭のひとつががぶり、と目標の首に喰らいつき力任せに手前に引く。

 暴れていた熊の目にぐさり、と矢が刺さった。しゅたた、と身軽く吹雪丸が後方へステップを踏む。ふううううっ、ふうううううっ、と荒くつく息の合間に吹雪丸は頭ひとつをちらりと橘へ向けた。


――分かってる。致命傷にはならない。


 吹雪丸と橘は同時に熊へ視線を戻した。目標は両前脚で頭部を抱え左右に振り悶え苦しんでいる。


「紫五家の――」

「ええ、準備はできています」


 油断のない黒髪の女の表情が頼もしい。二人の女は十分に距離をとり、熊の周りをゆっくりと回った。

 がああっ、がああああっ、とえずくように耳障りな声を立て熊が頭を振り回す。むちゃくちゃに前脚を使ううちに矢が外れた。新たに血が飛び散る。熊が身を起こした。鬼熊の中ではさして大きいほうでないと聞いていたが、すぐ近くで立ち上がる目標は室内であれば天井を突き破りそうに大きい。耳や目から流れた血で頭部は汚れ、口が(わら)っているかのように半開きになっている。その口の端に泡が浮いている。


()よ。()()よ」


 橘が声をかけると鬼熊は鼻先を橘へ向けた。片目から血が垂れている。


――が、ごがあああああ!


 二人の女と吹雪丸が同時にスタートを切った。怒り狂った熊が追いかけてくる。

 


     *     *     *



 大きな鳥が広げた翼の形に敷かれた陣の中央で王が軍配を振った。


「作戦開始」


 キ神がカウントダウンを始めた。


――目標射程到達まで三十秒。


 ここから先、一人の人間の直感で作戦を変更するわけには行かない。多くの人間が関わっていて伝達のスピードが追いつかないからだ。状況の変化を受けた繊細なハンドリングが不可能である以上、囮が状況を作戦に合わせる他ない。

 がっちりと二脚で固定された狙撃銃の照準器に顔を寄せる兵。弩弓のレバーに足を軽く乗せ待機する兵。矢や銃弾の補填のために待機する兵。それぞれのバイザーに作戦に沿った射出までのカウントダウンが表示されている。


――二十五、四、三、二……二十秒。


 狙撃兵のバイザーに示された照準が訂正された。キ神の示すとおりに差異を修正し、照準を合わせなおす。


――十五、四、三、二……十秒。


 キ神通信窓から細かな作戦情報を拾い、王の目に力がこもった。


――目をひとつ、潰したか。やるな。


 目標は視界を大きく損なわれ、空腹だけでなく痛みにも苛まれ怒り狂っている。激情と損なわれた視界で判断力を失った鬼熊はその憎悪を橘に向け、脇目を振らず追う。橘が熊の目を射たことで作戦成功確率が格段に上がった。


 ぎゃりぎゃりぎゃり。

 二人の女が雪原、陣の前に猛スピードで飛び出した。シュプールを描く二人のすぐ後を追い吹雪丸、そして目標の鬼熊が姿を現す。


――三、二、……。


「撃て!」


 銃声が雪原に轟く。音に驚いた熊が咄嗟にステップを踏み、弾道から()れた。外した。その間に次の狙撃兵の構えた銃が、更に待機する弩弓が次々にキ神の算出する弾道に照準を合わせる。


「撃て!」

「撃て! ……よし、(あた)った!」


 一度、二度と狙撃され目標の走る速度が鈍る。その分、二人の女、吹雪丸との距離が開いた。緑輪党の長が叫ぶ。


「来い! こっちだ!」


 交互に行き交いシュプールを描いていた女二人がそれぞれに身体を低くしまっすぐに陣めがけて滑走する。スピードが更に上がった。弩弓の設置された台と台の間を二人と一匹がすり抜けて陣の外へ出る。


「――た、助かった」


 雪を派手に蹴散らし、二人の女は急停止して振り返った。


――ごおおおおお。


 鬼熊が立ち上がり、狙撃兵を威嚇する。が、血の止まらない片目を(すが)め何かを探し高く鼻先を上げる。後ろ脚で立ち上がった姿勢のまま陣を探る熊の前脚を銃弾が(かす)めた。


――がああああッ!


 熊は身体を左右に振り痛みを払う。雪原に血が飛び散る。


――ごお、おおおおおお!


 熊の視線、鼻先はまっすぐに陣の外で振り返る橘に向いている。熊が一歩、二歩進み加速しようとしたその時、


「撃て!」


 弩弓数台から一斉に矢が放たれた。熊が苦悶の叫びを上げる。


――がああッ、がああああッ!


 連続して矢が放たれるその間に別のグループが照準を合わせなおす。号令に合わせ何度も、熊が動かなくなるまで矢が放たれた。


 王が軍配を振る。


「撃ちかた止め!」


 キ神通信窓の地図、陣の前で停止した目標を表す三角印の記号の色が黒く変化した。緑輪党の長と護衛二人が雪原に倒れ伏せる熊の下へ駆け寄る。緑輪党の長が槍を熊の首にぐさり、と突き刺した。長い槍の柄に五輪党を表す五色、そして王を表す黒の旗が翻る。


「討ち取ったり!」


 王が狩りの終了を宣言した。


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