十五
* * *
エンカウント時の一撃後にいったん先へ出てまた最前線へ戻りつつあった橘は様子のおかしい一団とすれ違った。
「やばい」
「シティがやばいって」
「何があったの」
「とにかく帰らなきゃ」
むやみに大声を立てて言い交わすその内容が物騒なのに話がかみ合ってない。どうも他党だけでなく我が党の勢子も混じっていたような。橘は不審に思いながら持ち場へ戻った。
一体何があったんだ。
橘は最前線に戻って驚いた。猛スピードで陣へ向かっているはずの目標が雪原で三頭犬と揉み合っている。
「長! 大丈夫ですか」
「すまん、避け損ねた」
コートの袖が大きく裂け、血が流れている。橘は長を雪原の際、木立まで引っ張った。
「三家の」
痛みに顔を顰めながら長は口を開いた。
「すまん、しくじった。皆にシティの非常事態を――」
これは王族と党の長間で共有する準機密扱いの情報なのに。顔色を失う橘を見て若いリーダーは自分が判断力を失っていることを知った。
「――やはり長は三家の、そなたの母上が」
失策と痛みで長の口から弱音が漏れた。
「死者に長は務まりません。――この後、陣までの囮は私が」
長の答えを待たず、橘は雪原へ走り出た。
先刻と打って変わって雪原には二匹の獣と橘しかいない。鬼熊と三頭犬がお互いの弱点にむしゃぶりつこうと組んず解れつ雪の上を転げ回っている。大きく迂回して橘は足を止めた。
――よし。
素早く加速装置の燃料容器を新しいものと取り替える。腰のホルダーへ戻す前に橘は容器を一瞥した。まだ半分ほど燃料が残っている。
――念のためだ。
この後ひとりで囮を務める。燃料の残量を気にしている暇はない。
――シティで非常事態……。
祖母、王、そしてマレビトの顔が脳裏を過ぎる。じわじわと焦りと不安が体内でふくれあがる。すぐにでもシティへ戻りたい。
――こんなことになるなら、おばばみたいに飴を毟り取ってやればよかった。
祖母に飴を奪われて情けない声を上げるマレビトの顔を思い出し、橘は片頬で笑った。早鐘を打つ鼓動が幾分落ち着いた。
長が口をすべらせたとおり、シティで何か起きたのは間違いないのだろう。しかし一勢子に過ぎない自分が勝手に狩りから脱けるわけに行かない。王からの中止命令が届いていないからだ。
――わがきみ。
橘は陣で吹雪丸とともに待機する王の姿を思い浮かべた。山刀、鉈、小刀、箙と装備に手を触れて確かめる。
――よし、行ける。
橘は弓矢を手にした。
「叢雲――!」
長の三頭犬を呼ぶ。少し気の荒いところのある犬だが、聞き分けはよい。党の長に望まれるだけあって優秀な三頭犬である。声は届いているはずだ。橘は矢をつがえ、弓をぎりぎりと引き絞った。
「叢雲、三つ数えて射る! 三、二――」
聞こえているのかいないのか、叢雲は熊から離れようとしない。それでも橘はカウントダウンを続けた。
――狙え。
ぴたり、と橘の手が止まった。
「一――!」
号令に耳も貸さず熊に噛みついていた叢雲がぱっと飛び退く。同時に矢が放たれた。
「ちっ」
外した。狙っていた眼でなく矢は耳を貫いた。
熊はもこもこと分厚い冬毛に覆われた腕で抱えた頭部を左右に振り悶え苦しんでいる。加速装置を起動させ橘は熊の周りを大きく円を描くように走った。
「叢雲、休め! ありがとう」
茶色い三頭犬が木立へ駆け込むのを視界の端で捉え、橘は再度ぐるりと目標の周りを走った。派手に雪を蹴散らす。
頭を上げた熊と橘の視線が絡んだ。距離を取り、ゆっくりと周りを滑る橘を熊が目で追う。緊張が高まる。一周して橘は
「来い!」
陣に身体を向け一気に加速した。後ろから
――ごおおおおおお!
熊の吠える声が追いかけてきた。十分に引き離しているはずなのにすぐ近くに迫っているような気がする。
――振り向くな。集中しろ。
背後の気配を冷静に分析する。間近に感じられたけれど、風切り音や履帯の駆動音、自身の荒い息をよくよく濾過してみれば獣の気配は爪が届くほど近くない。雪を蹴るリズムや獲物を前に弾む獣の息づかいから橘は目標の脚力を見積もった。もうひと段階、もしかしたらさらに鬼熊の速度は上がるかもしれない。
――私もまだ走れる。もっと速く。
ここから先、警備の当番や狩りの訓練で橘はこの雪原をよく知っている。滑走の助けとなる起伏、スピードを鈍らせるくぼみ。さまざまな要素を組み合わせ選ぶべきコース、そのメリットとデメリットを橘は吟味した。
狩りで昂揚する心は感情のアップダウンも激しい。恐れ、怯み、希望、自信。感情のぶれに心を任せてしまっては肝心のところで判断を誤る。
――大丈夫だ。きっと、大丈夫。
半ば自分に言い聞かせていて橘は情報取得を忘れていたことに気づいた。キ神通信窓の地図を開く。自分と熊を示す記号のほかに後ろから迫ってくる記号群がある。熊が陣へ向かうよう背後から追い立てる勢子たちだ。全員が狩りから離脱したわけではない。安堵で橘の肩から余計な力が抜けた。
――よし、大丈夫だ。行ける。
独りじゃない。ちゃんとバックアップしてもらえる。そのことで怯え強張り、心の奥で縮こまり失敗を懼れる何かが解けた。
「り*********ろ!」
地面の瘤を蹴り、橘は飛んだ。
開いたままのキ神通信窓の地図に信号が現れた。予測進路上に紫色の丸印。負傷者だ。
――近過ぎる。
橘は眉を顰めた。負傷者が目視できるところに到達するまで残り数秒。
ぴん――。地図上に負傷者のステイタスが表示された。
――怪我は軽傷で救助不要。……加速装置の燃料切れ?
負傷者に一番近いのは橘だ。しかし、独りで囮を務める橘の背後には鬼熊が迫っている。動けなくなっているらしい負傷者を救助する時間はないが、さりとてこのまますぐ近くを通れば目標は負傷者に気を取られる。陣まであと少し。熊を誘導しながら進路を変更している暇はない。
一秒。二秒……。
逡巡する間に選択肢はどんどん失われていく。猛スピードで雪原を滑走しながら橘はぐぐ、と歯噛みした。
――どうしよう……。
地形を読み損ねて橘はがくり、と体勢を崩しそうになった。ここで自分が転んでしまってはならない。最悪、熊の餌食になるとしてもこの目標は確実に仕留めなければシティは安全に冬を越せない。
* * *
緑輪党の面々は今回目標を仕留める狙撃役として陣で待機している。しかし全員が弩弓や銃の担当になるわけではない。勢子と同じ装備で王や陣の警備を兼ねた歩兵も多数いる。
黄輪党の長が口を滑らせたことでシティが非常事態にあることを知った一部の勢子たちは頭に血が上った勢いのまま狩りから勝手に離脱したが、シティ手前でこの緑輪党の歩兵たちに捕らえられた。
「誰の許しを得て勢子の任から外れたのかッ」
「――」
陣に引き立てられた離脱者を前に緑輪党の長が凄まじい形相で怒鳴りつけている。
ぴん――。キ神通信窓の地図に負傷者のサインが現れた。非常事態のようなアクセスが制限された情報ではない。狩りに参加している者全員が囮と目標が突き進むルート上に負傷者が現れたのを知った。
「ま、まずい。こんなときに」
「あともう少しで射程範囲に入ってくるってのに」
「なぜこんな場所で動けなくなっているの?」
「ああ、燃料切れ――早くルートから退避を」
「もう間に合わないよ」
陣の中央で王と吹雪丸が同時に身を起こした。
「許す。吹雪丸、ゆけ」
わふ、と短く応じ吹雪丸が駆け去った。
――強く激しい銀色の風のようだから吹雪丸、なのだそうです。
被毛の色とその三頭犬の勇敢で俊敏な様子から恋人が名づけたのだと亡くなった友が語っていた。
――柚子の言いつけをしっかり守ること。柚子の家族を守ること。
銀色の三頭犬の姿があっという間に遠くなる。
「吹雪丸よ、あるじの言いつけどおりにな」
自身の守護犬を見送り、王は陣を調えるためにぎゃんぎゃんと喚き散らす緑輪党の長を振り返った。




