十一
* * *
ぎゃりぎゃりぎゃり。加速装置の駆動音が森に響き渡る。進路上に鬼熊の巣穴はないことになっている。しかし把握できていない冬眠熊をこの騒音で目覚めさせてしまったら、と橘は息が詰まるような気持ちになった。
――落ち着け。落ち着こう。
心を平らかに保つことが大事だ。過呼吸、パニックに陥らずに済む。
森とナラクシティの間にある雪原まであと少し。狩りも後半だ。
今のところ、事前の予想通りうまく事が運んでいる。最初に熊が陣の反対側へ進もうとしたことは想定内の事態だ。紫輪党、青輪党を経て今は赤輪党が囮となり、先頭を疾走している。熊は獲物を前にしてまだ鬼になりきっていない。人間を食べたことのない熊は積極的に囮の勢子を追わない。今回の目標もまだ鬼ではないのだろう。何度か囮の勢子を追うのをやめようとした。
鬼ではないからと言って放置できない。これから餌が豊富に手に入る春になるまでの長い日々、この冬眠できなかった熊はいつシティを襲うか分からない。囮を追わせるために他の勢子が後ろから目標を追い立てる。
時折、負傷した者がうずくまっているのが見える。だいたいは熊と戦って傷を負ったのではなく、熊を追い、追われしているうちに履いた板の操縦を誤り転倒したり、樹木と衝突したりするなどの不注意で事故を起こすケースが多い。こうした負傷者に熊が襲いかからないように多くの勢子でカバーする。
表示したままの地図の、橘の進路上に動かない丸がある。赤輪党の者だ。目視できる範囲に姿が現れる前に地図上に負傷者のステイタスが表示された。
――救助不要。
周りを疾走する黄輪党の朋輩とうなずき合い、先に進む。最初に囮を務めた紫輪党が救助担当となって負傷者を拾うことになっている。動ける者は紫輪党とともに他の負傷者の手当てなどにあたる。
事前の予想が甘めで気が抜けたのかはたまたはしゃぎすぎたのか、意外に負傷者が多い。橘はバイザーの陰で顔を顰めた。
――おっ……と。
足下が急激に盛り上がる。瘤だ。橘は朋輩たちと同じように膝をやわらかく使って衝撃を受け止め、瘤の頂点で身体のばねに蓄えたエネルギーを解放した。高く飛んで橘の心が弾む。ほんとうはただ落下しているだけだと分かっていても自由になったような気がする。家のこと、国のこと、仕事のこと、人間関係、マレビトのこと――すべてのしがらみから解放されたような気がする。熊狩りは命のやりとりだからほんとうは気を引き締めなければならない。
――転んだ連中を笑えないな。
瘤を蹴り高く飛ぶたびに叫び出したいくらい橘の心はわくわくと弾んだ。
黄輪党の女たちが怪我人の点々とうずくまるルートから外れた。迂回しながら赤輪党と熊が走る場所を目指す。雪に覆われ凍てついた巨人のように見える木々を避け、新雪を蹴散らしながら突き進んだ。
――おお、おおおおおおおおお。
進行方向から空気を震わせる三頭犬の咆哮が聞こえてくる。
――近い。
緊張と不安と、そして抑えきれない歓喜。橘は昂ぶりを抑えようと腰を低くした。指で新雪に覆われた地面に触れた。きらきらと雪の結晶が陽光を受けきらめきながら散る。橘は自身の指が新雪を切り裂く様を視界の隅に捉えた。視線は進行方向、目標のいる場所に据えたままだ。三頭犬の咆哮だけでなく、熊の注意を惹きつける勢子の声も聞こえてきた。
――いよいよだ。
心が逸る。滑走しながら弓を片手に持ち、箙から矢を引き抜く。前方が明るい。足下がぐぐ、と盛り上がった。瘤だ。頂上を蹴り、橘は森から雪原へ躍り出た。
「り*********ろ!」
「り*********ろ、いやっほおおおおおおおおううう!」
朋輩たちも叫びながら瘤を蹴り、高く飛ぶ。不意を突かれ立ち止まった鬼熊とすれ違いざま矢を射かけ女たちは陣へ向かってそのまま走った。
冬毛を厚くまとった鬼熊に普通の弓矢は通用しない。それでもちくちくと矢を射かけられて鬼熊はのぼせ上がる。
――ごお、おおおおおお。
怒りの咆哮が雪原にとどろいた。
朋輩の中でも先駆けて目標と遭遇を果たした橘は速度を緩めながらコースを戻る。キ神通信窓の地図を確認してみると、赤輪党が森の中へ入り、先頭から離脱している。作戦通りだ。地図のさらに先、王の敷いた陣の方向を見て橘は眉を顰めた。
――何をしているんだ。
青、赤、紫と様々な色の丸が無秩序に散らばっている。
――邪魔だ。どけ。
腹の中で毒づき、橘は加速装置を起動した。他人が何をしようと、邪魔にならなければそれでいい。熊の注意を惹きつけるべく、派手に雪を蹴散らして橘は走った。
* * *
「この者どもは、何をしておるのか!」
緑輪党の長が語気を荒らげた。
今は黄輪党が囮を務めている。熊を惹きつけながら陣へ向かうそのルート上に、囮の役目を終えた者たちの一部が先回りして待機しているのだ。今回は最後の囮を赤輪党が務めるはずだったが、最初に目標が計画外のルートを選択したためにローテーションが変更された。狩りの終盤、目標は興奮していることが多い。興奮した熊は何をするか分からない。最後の囮は危険で、だからこそスリルがあり、狩りの中で最も注目が集まる。
囮の役目を終えたが、後ろから追いかけるだけではつまらない。だったら横から手柄をかっさらえ。――所属する党に関わらず血の気の多い者どもが陣の前に広がる雪原に集まってきている。
「馬鹿者どもが! 熊を逃がしたら、何か事故が起きたらどうする――」
青。赤。紫。キ神通信窓の作戦地図、目標と陣の間に散らばる女たちを示す丸い記号。何度もキ神通信でメッセージを送っているが、目標の進路上から丸い記号は動かない。緑輪党の長は歯ぎしりした。
「三頭犬をけしかけましょう、わがきみ」
緑輪党の長は振り向いて王を見た。目標のいる方向へ視線を据えたままの王は憂いの表情を隠さない。しかし静かに口を開いた。
「いや、もう間に合わぬ」
王となって十年近くなるとは言えまだ若い。賢君ともてはやされても浮ついたところのない頼れる王だが、それだけに無理をしてほしくない。年齢に似合わない胆力の強さを持つ主君に繊細な一面があるのを緑輪党の長は知っている。だから彼女は王が心配で仕方ない。常にいくつかある可能性を他の長とともにリストアップし、トラブルの芽を摘む努力をしてきた。
目標の、囮たちの走行速度。ルートと到達予想時刻。弩弓の射程範囲。大事な最後の仕上げを引っかき回す撹乱要素。王は情を切り捨てる覚悟を固めつつあるのかもしれない。
どんなに守りたいと、羽根の下に隠し保護してしまいたいと思っていても、自分の願いはいつも叶わない。視線の先で表情を硬くこわばらせる主君が今日、また辛い選択を迫られるのではないか。緑輪党の長は厳しい文面のメッセージを再度送信した。
囮と鬼熊の攻防が徐々に近づいてきた。
陣は静寂に包まれている。弩弓と銃の準備が調った。狙撃兵も歩兵も三頭犬も、その時に備えじっと待機している。
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