四
薄暗いオフィス。後輩女子社員の社内人間関係の不満を聞かされ続けること三時間強。いいかげん、帰りたい。女子社員同士のどろどろとした順位付け話など聞きたくない。コウジははっきりと、聞えよがしにため息をついた。女はさすがにコウジの様子に気づいたようだ。そうじゃないと困る。
「じゃあ、坂上さんは柳田センパイのこと、どう思ってるんですか」
「どうって――」
柳田は年上のパート社員で半年前に離婚したばかりのシングルマザーだ。若干癖があって目の前の後輩女子と違う問題があるが、仕事はちゃんとこなすし、気働きがよい面もある。少なくとも後輩女子社員のフルスロットルモードの十五倍は働く。社会人経験の差が大きいのは確かだが、そもそもちゃんと社会人経験を積もうとしないところがこの後輩女子社員の問題点なのだ。
「それ、全然関係ない話だし。とにかく、ちゃんと朝出社して――」
「坂上さんはっ! 柳田センパイと、つきあってるんですかっ」
怖い。ものすごく怖い。女は、仰け反るコウジに覆いかぶさるように立ち、ゆらゆらと上体を揺らしている。目の焦点が合っていない。
「おち、落ち着いて。ぼくが柳田さんとおつきあいしているわけないじゃない。ぼくは仕事にそんなことを持ちこまな――」
「そうですよね! あんな年増とつきあうわけ、ないですよねっ! だから柳田センパイは」
また始まった。とりあえず椅子に座りなおしてゆらゆらゾンビモードは終息したけれど、問題は話がいつまでたっても終わらないことだ。
「あのさあ、そんなに話し続ける元気があるんだったら朝、ちゃ、ん、と、出社しようよ。覚えなきゃいけない仕事はいろいろあるけどまず、朝定刻通りに出社しようよ」
「でも、でも――」
「でも、じゃない。社内規定をちゃんと守れば問題ないから。社内規定のすべてが今の状況にフィットしているわけじゃないかもしれないけれど、それは手続きに則れば改善も可能だ。それも社内規定に定められてる」
「坂上さんは私が辞めればいいと思ってるんですか」
「そんなこと一言も言ってないでしょ。きみが社内規定を守ればいい、と言ったんです。それで、明日からちゃんと出社するの?」
「――します」
やっと言わせた。
よし、帰ろう、と立ち上がる。デスクは愚痴を聞かされている間に片づけたし、上着は椅子の背にかけてある。昼間買っておいたブツは鞄と一緒に足もとにまとめてある。
「よし、忘れものなし。タイムカードも定時で押してあるし。じゃあ、ぼく、帰るね」
「待って、待ってください」
嫌だ。待ちたくない。仕方なく振り返ると、パーソナルスペースを無視するくらいの至近距離、いや、零距離だ、女がぺとり、と張り付いてきた。デスクに乗り上げるくらい後ずさったが、女も一緒についてくる。嫌だ。ほんと嫌だ。コウジは仰け反った。
「坂上さん、好きです」
ぼくは嫌いだ、と即答しそうになったがこらえた。
「――ぼくは仕事に私生活を持ちこまない主義なのでその」
みょうちきりんな表情で抱きつく女のねっとりした仕草に鳥肌が立った。
「私、新人ですし、柳田センパイと違って若いです」
「だから柳田さんとは何も――」
「話をちゃんと聞いてくれる人、初めて。――坂上さん、私のこと好きなんですよね」
「ち、ち、ちが」
「坂上さん、付き合っている人、いないんでしょ?」
「いない。いないけど」
怖い女の人は守備範囲外だ。
「じゃあ――」
「いや、ぼくはきみとお付き合いできないし、しない」
「私、柳田センパイよりかわいいです。若いし」
「若くてもなんでも駄目です、付き合わない。恋人として見られない」
「どうしてですか」
またぞろ張り付く女の顔が怖くなってきた。
「その、その、タイプが違うから」
女はざざ、と音がしそうなくらい素早く身体を離し、仁王立ちになった。
「じゃあ、どんな女の子がタイプなんですかっ」
「金髪巨乳美女」
コウジはぼろり、と口に出してしまった。びしり、と頬に鋭い熱が、遅れて痛みが走った。
「――ふっざけんな、AV女優の好み訊いてんじゃねえんだよ!」
鞄を掴み、女ががすがすと足音高くオフィスから出て行った。
かわいいだの若いだの、身体が弱くてひ弱だの、色々言っていたがそういうもろもろと関係なく後輩女子社員の腕力は相当なものだということを身を以て知った。ひっぱたかれてしばらく経つというのにまだ頬が痛む。社屋の通用口で警備員さんに会釈し、外へ出る。
もう夜だ。すっかり遅くなってしまった。