二十三
登場人物死亡を示唆する描写・記述があります。苦手な方はお読みにならないようお願いいたします。本作品に暴力行為及び残虐行為を賛美・助長する意図がないことをご理解くださいますようお願い申し上げます。
吹雪丸が森の奥に向かって唸っている。
「どうしたの」
コウジの問いに三頭犬は応えない。
紅く黄色く華やかに彩られ、苔桃やきのこが豊かに実る親しげな晩秋の森が一転、冷え冷えとしたよそよそしい空気に支配された。身を低くして森の奥を睨みつける吹雪丸の隣に赤毛の兵士が弓に矢をつがえながら身を滑り込ませた。
「何? 何か問題でも?」
抑えているつもりかもしれないが、ネズさんの脳天気な声が緊張の高まる森に響いている。
「しっ」
赤毛さんが眉をひそめてネズさんを制し、
「ここが最前線だ。今日はここから先に立ち入った者はいないはず」
祈るように低くつぶやいた。
「えっ」
大きな声を出したネズさんが再び睨まれて首をすくめた。
「いや、確かボクらより奥に向かった人たちがいましたよ」
「あ、そういえば釣り竿担いだ二人連れが」
「何だと」
赤毛さんがぐるり、と振り向いた。
「釣り竿を持った顔のよく似た高年体と壮年体――それだけでは特定できんな」
確かに釣り竿を携えた女たちは他に何人もいた。あとは顔見知りでない、くらいしか覚えていない。コウジはもどかしい気持ちになった。囁き声で手短にネズさんから話を聞き取った赤毛さんの顔にいわく言いがたい表情が浮かんでいる。悲しみのような憤りのような、諦めのような。そのすべてを否定して一縷の望みに縋るような。
赤毛さんの斜め後ろで身を低くしているイノさんが低く囁いた。
「いざとなれば俺が囮になります」
囚人は武器の携帯が許されていない。赤毛さんはしばらく黙っていたが、森の奥へ目を据えたまま
「頼む」
と囁き返した。表情が少し苦しげだ。
コウジはネズさんと一緒にイノさんの後ろでしゃがんだ。何が起きているのかさっぱり分からないが芳しくない事態が出来したのは確かだ。頭一つでちらりとコウジに目をやった吹雪丸が元の方角、森の奥に集中する。
遠くで
――おおおん。
――おおん、おおん。
三頭犬たちの遠吠えが聞こえる。
水がコップの縁に盛り上がり漲るようにじりじりと緊張が募る。身をかがめる吹雪丸の身体が解放を待ちエネルギーを溜め撓むばねのように前方に集中している。どこまで緊張が高まるのだろう。呼吸も憚られるような空白の一瞬が引き伸ばされている――そうコウジが思ったその時、茂みががさり、しばし後に再びがさり、と揺れた。
――おお、おおおおおおおおお。
吹雪丸が吼えた。赤毛さんがぎりぎりと弓を引き絞る。
表面張力で何とかコップに収まっていた水が溢れてしまう。静かに引き伸ばされた緊張のピークが訪れたその時、ゆっくりと森から大きな獣が姿を現した。
腕から肩にかけて、そして脚、耳と目の周りがくっきりと黒い熊。
――パンダ?
白黒ツートンカラー、そのカラーリングだけでなくおちゃめな仕草で大人気のパンダだ。パンダなんだと思う。どこかが動物園で人気の愛嬌ある希少動物と違う気がする。
――何かが、どこかがおかしい。
少し離れたところ、安全圏の際でその白黒熊は足を止め首を傾げた。角度が変わった時、目の周りの黒い模様に隠れていた目がちらりと見えた。垂れ目のように見える模様なのに実際の目はつり上がって小さく、その鋭い瞳の奥に剣呑な色が見える。吹雪丸の巨体の向こうでパンダのような熊が立ち上がった。
「あ」
赤毛さんの肩が揺れた。その拍子に弓が緩み、つがえていた矢が外れた。
「あ、口が」
力の抜けた女のつぶやきを耳にして初めてコウジの意識が熊の口もとへ向かった。熊の頭部は両耳と両目周りだけが黒く、残りの被毛は白い。しかし白いはずの鼻から口にかけてまだらに赤茶けて汚れている。
――まさか。あのふたりを。
へらりと笑うように半開きになった熊の口もとから目が離せない。自分たちもやられる。諦めとパニックがコウジに襲いかかった。
――おおおおおお。
吹雪丸の咆哮が木々を、森の空気を揺さぶる。
――おお、おおおおおおおおお。
イノさんがちりとりを手に立ち上がった。
「しっかり、しっかりして赤毛さん」
ネズさんが女に声をかけた。
――はああああああ。
細身の女が大きく息を吐いた。と、はじかれたように立ち上がり前へ踏み出した。
「すまなかった」
「うんにゃ」
イノさんの隣に立つと赤毛の兵士は弓を放り、上体をひねりながら大ぶりなナイフを鞘から引き抜いた。刀身がぎらりと光る。
――おお、おおおおおおおおお。
吹雪丸が吼えた。その時、背後からどよめきが伝わってきた。急速に近づいてくる。
「かがめ! 身体を低くせよ!」
コウジが地面に伏せるのと同時に矢が何本も空間を切り裂いた。がう、がうと荒く息をつく複数の三頭犬、そして人々の気配がする。
「鏑矢、撃て!」
凜とした声に従って
――びゅいいいいいいいいん。
甲高い音を放ち上空に向かって何かが飛んでいく。獣たちの荒い息づかい。凜とした号令に従い放たれる矢の唸り。そして遠くから応えるように響く
――びゅいいいいいいいいん。
鏑矢の音。地面に伏せたまま、コウジは大きく息を吐いた。唇に湿った土が触れるが気にするものか。
――助かった。生きてる。
怪我をしても傷つけられても修復される不思議な体質など思い出しもしなかった。隣で同じように地面に伏せるネズさんの身体ががくがくと震えている。生きているから怖い。コウジは自分の身体も同じように震えるのを感じ、安堵に身を委ねた。




