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 その病気をうつされたと知ったのは男と出会ってしばらく経ったある日のことだった。癇性なコウジはわがままな多美と喧嘩になった。日常茶飯事なのでよほどのことがないかぎり両親は介入しない。ただ、三女の奈美だけは取っ組み合うふたりの近くで立ちすくみ、おろおろしながら仲裁の機会をうかがっていた。上になり、下になり、体格で勝る多美が抑え込もうとするのを、コウジは転がって避けようとした。転がろうとした先には奈美が、そして奈美の背後の窓は開け放され、庭に続くコンクリートのテラスがある。


――危ない。


 勢いよくぶつかったコウジの身体に足を掬われバランスを崩し、後ろ向きに転倒する奈美の姿。容易に想像できる。


――このまま転がったら奈美姉が大怪我してしまう。

――どうすれば、どうすればいい?!


 パニックに陥りかけたその時、がくり、と力が抜けた。


――ぶ……ん。


 周りの空気が振動している。空気だけでない。コウジの身体も振動している。身体の随所に触れた小さな振動同士が干渉しあって大きな波になり一気に身体すべてを揺らした、そんな気がした。


 コウジは道を踏みはずした。

 そして高い崖の上、大きな一枚岩の上に四つん這いになっていた。

 振動が徐々に小さくなり、消える。

 青い空。千切れたような形の雲が一片、浮かぶ他は一面濃い青。

 一枚岩の途切れた向こうに、眼下は深く切り立った崖、空の濃い青を移した湖が見える。

 絶景だ。

 初めて目にする雄大な景色に心を奪われ、コウジは直前に陥ったパニックを忘れた。高い山の上にいきなり一人で放り出され、新たなパニックに叩き落とされても仕方のない状況でもあったのだが、それよりも眼前の風景の厳しい美しさが心に迫った。

 身体を起こし、すべすべの一枚岩の上で胡坐をかく。空気はひんやりしているのに、厳しい日差しで温められたのか、尻の下はほんのりとあたたかい。風もなく、とても静かだ。眼下の湖も鏡のように凪いでいる。

 コウジは考えに耽った。

 ここがどこなのか、なんで自分かこんな目に、などという当然の疑問はその時脳裏をかすりもしなかった。


「ぶつかる前だったから、奈美姉はまだ怪我してない。大丈夫だ」


 まず考えたのはそれだ。

 あのまま転がって奈美姉に大怪我をさせたとして、それがコウジだけのせいではない、それは分かる。分かるけれど、気持ちは別だ。奈美の怪我が癒え、痕跡がなくなったとしてもずっとずっと、奈美に怪我を負わせた、その事実はコウジの心に重くのしかかるに違いない。


「どうしようかな……」


 右ひじを膝につき、その手で頬杖をついてコウジはぼんやりと考えこんだ。パニックの現場からいきなりこの崖の上にやってきて、美しい雄大な景色を見せつけられては、姉とのけんかであたふたと落ち着きを失っていた自分が馬鹿馬鹿しくなってしまう。

 コウジはもう一度あのけんかや部屋、周囲の状況を思い出した。多美にぽかすか殴られて馬鹿にされるのが悔しくて、嫌で、それは嫌で当たり前なんだけど、でも、巻き込んだ奈美に大きな怪我を負わせるほうがもっと嫌だ。そもそも喧嘩の原因はコウジお気に入りの合体ロボを多美の人形おままごとに勝手に参加させられていた、というだけのものだ。こうして冷静になってしまうと、あんなとっくみあいの喧嘩をしなければならないほど深刻な問題でもない。コウジはおもちゃのロボットひとつで自分の所有する権利など何もないと否定されたような気持ちになり、多美は自分の大好きな遊びを馬鹿にされたことで自分自身の尊厳が全否定されたと激高してしまった。そんな大袈裟な話でないと後で頭が冷えた時に気づくのに。ただそれだけのことの代償に奈美が大怪我をするのは間違っている。コウジはひとまずそう結論づけた。


「そういえば」


 どうやって戻ればいいんだろう。にわかに心細くなり、顔を上げたが、すぐにコウジは思い出した。ど派手コートを着込んだ男はがさがさした道のようなものを探していた。そして道を踏みはずした時、場所に戻れると言っていた。コウジは立ち上がり、後ろを振り返った。


「ほんとだ、道がある」


 きらきら光っているわけではない、さっきみたいにぶれているわけでもない。でも目の前の一枚板に何かがさがさとして粗く質感の違って見える部分がある。それが少し先の、小暗い森の手前まで道のように続いている。


「帰ろう。――その前に」


 自分の身体と周辺を見回した。


――覚えておけ。忘れ物や落し物は厳禁だ。


 道を踏みはずす病気をうつした男がそう言っていた。


「――よし、だいじょうぶ」


 コウジはざらざらした道のようなものをたどり、歩き始めた。身体のまわりで小さく渦を巻くように何かが振動する。振動同士が共鳴し合い揺れが大きくなりがくり、と膝から力が抜ける。そして


――ぶ……ん。


 空気が震えた。



 ががっ。

 四つん這いになったコウジは肩を蹴られ、あおむけに倒れた。とっさに両手を顔の前で交差させる。多美がコウジの腹の上に乗り、ぽかすかげんこつで殴る。悔しい。痛い。悔しい。頭の芯が熱くなり焼き切れる、そう感じた時、思い出した。今感じる自分の悔しさ、痛みより大事なことがある。顔の前でクロスする腕の隙間から奈美の姿を探した。


――大丈夫だ。


 肩を蹴られ倒され場所が少しずれたことで、おろおろする奈美も開け放された窓から離れている。よかった。これで奈美は怪我を負わなくて済む。ほっとした。

 そこから一方的に殴られ続けたけどじきに仲裁できず混乱した奈美が大声で泣き始め、それを聞きつけた母親が間に入って喧嘩は収まった。喧嘩といっても母親が目撃したのは多美の暴行であり、えぐえぐとしゃくりあげる奈美も目撃を裏付ける証言をするわけで、多美はこってりとしぼられた。



 その後もたびたびコウジは道を踏みはずした。

 小学校の校庭の隅。クラスメートとの喧嘩で前後を忘れてしまった時。その狂騒のさなか、がくりと道を踏みはずし、夜の砂漠の真ん中に一人、ぽつりと膝を抱えていた。

 大人になるまではそうした、喧嘩の最中に道を踏みはずすことが多かった。

 社会人になってからは、モンスター顧客に呼び出され、難癖をつけられている最中、挑発に乗りそうなったその時に、道を踏みはずした。誰もいない、獣や鳥の気配もない湖のほとりでしばらく月を眺めた。

 家族が集まった休日、街へ買い物へ出かけた。コウジ以外は女ばかり、昼食をどこで食べるかできゃいきゃいと盛り上がる。歩きはじめの姪が車道にふらふら出ては危ないと思ったその時、道を踏みはずした。静かな森の中で木漏れ日を浴び、しゃがみこんでしばし、小さな銀色の花を眺めた。

 社会人になって忙しく過ごしていたある日、コウジに愛想を尽かしたかつての恋人と偶然再会した。交わす視線に熱がこもり焼けぼっくいに火がつきそうになったその時、道を踏みはずした。がくり、と膝から力が抜けるとコウジは、だだっ広い雪原のど真ん中で一人、四つん這いの姿で放り出されていた。身体の中でいったん燃え上がった熱が一気に冷めた。

 道を踏みはずすときは毎回、どうでもいいことに夢中になっていたり、闇雲に腹を立てていたりする。コウジは行ったことも見たこともない場所にひとり放り出され、しばらく静かにそこで時を過ごし、帰る。

 喧嘩に勝ったところでさして気分がよくなるわけでない。顔を真っ赤にして興奮している顧客の不条理をつきつけて言い負かしたからと言って何かの足しになるわけじゃない。家族のいさかい交じりのおしゃべりを収めるより姪の身の安全が大事だ。そして一度失った熱は取り戻せない。単なる気の迷いだ。

 人生はwin‐winになったりしない。何かを優先するときには何かを捨てることになる。大人になることは、何かを諦めることに似ている。でもどうせ諦めるなら、よりよく諦めたい。

 コウジは道を踏みはずす強制クールダウンを何度も味わってそれを学んだ。そして友人や同僚、上司、果ては家族にも、コウジは冷静で落ち着いていて思慮深いと思われている。

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