十六
コウジが分娩室の床でぐったり大の字になっていると、黄三家の老女がやってきた。顔の近くでしゃがみこむ。
「ようやってくれた。礼を言う」
老女はぼそり、とつぶやいた。嫌いな食べ物だけで作られたフルコースのディナーを義理で縛られて断ることのできない相手から押しつけられた、そんな風情だ。
「いや、そんな。とんでもないです」
コウジが苦笑しながら返すのを老女は遮った。
「あのまま徒に時を過ごせば母体も仔犬も助からない可能性があった」
「可能性の問題です」
「しかし」
「実際にあなたの采配で吹雪丸も仔犬も無事だった」
二人の視線が羊水で濡れたままの吹雪丸と、母犬の乳にしがみつく頼りなげな仔犬へ注がれた。三体の仔犬のうち、二体は助からなかった。
――もっと他にできることがあったのではないだろうか。
ずきずきと胸が痛む。
「マレビトどのは、命について敏感であるな」
きゅうきゅう、と鳴く仔犬を舌であやすように舐める吹雪丸に目をやったまま、老女はつぶやいた。
「どういう意味でしょう」
「今もほれ、思っておろう。――仔犬をすべて救いたかった、救う手立てはなかったのか、と」
「それはもちろん」
「マレビトどののいた世界が――」
老女は俯き小さくため息をついた。
「わしには想像もつかん。お互いを名前で呼び合い、生きとし生ける者の命がすべて救われる世界があろうとは」
「すべてではありません。さすがに」
「そうか」
「この世界がぼくのいたところと違って、厳しい環境にあることは分かっています。この世界の人々が命を軽んじているとも思っていません。ただ、その――」
「よいのじゃ。マレビトどのは目の前で失われる命を見過ごしにできないのであろう」
橘をはじめとする犬舎職員が後片付けや仔犬の世話の介助をするべく慌ただしく動いている。疲れ切っていてもやはり新し命の誕生に心が躍るのか、嬉しげに見えた。
「吹雪丸は王の三頭犬だ。犬舎の責任者として何が何でも成功させなければならない分娩だった」
老女の横顔に疲れが浮いて見える。
「礼を言いたい、その気持ちに嘘はない」
コウジの返事を待たず老女は、年齢を感じさせない身軽な仕草で立ち上がった。
短かった夏が終わり、秋になった。風がひんやりし、木々の葉や実が色づきはじめた。遠くへ遊牧へ出ていた人々が帰ってきてシティがにぎやかになってきた。
ナラク宮を出て広場を横切り、コウジは石畳の道を歩いている。居住楼閣を覆う草も色づき、シティ中が紅や黄色に染まっている感じがする。門をくぐり、荷台にどっさり荷物を載せたカートが濠にかかった橋を渡っているのが見える。そのうちのひとつとすれ違う。
「マレビトさん、お散歩かい」
カートの運転席から声がかかった。初老の女だ。確か緑輪党に属していて赤ん坊の母親と親しい家の者だったはずだ。普段は農場で働いているが保育所にも時々顔を見せる。コウジはにこやかに会釈を返した。
「休憩をいただいたので犬舎へ行ってまいります。今日はシティの外へ?」
「いんや、娘が帰ってきてね。石が重いってんで手伝いに駆り出されてるのさ」
「それはそれは」
荷台の掛布の下は鉱石が積まれているらしい。
「今年は苔桃もどっさり生ってるってさ」
「よい秋になりましたね」
「まったくそのとおりだよ」
覚えたての季節のあいさつをするコウジに笑顔を返し初老の女はカートでごとごとのんびり去った。
不思議だ。今までシティが閑散としていると感じたことはなかった。しかし春祭りの後、出発した大小の遊牧団が次々に帰ってくるとシティに人があふれかえっているようだ。日焼けした女たちや獣頭の男たちが労働の合間に交わす寛いだやりとりを眺めながらコウジは石畳の道をシティの外壁に沿って歩んだ。
「こんにちは」
「いらっしゃい。吹雪丸は庭に出ていますよ」
犬舎に近づくと顔なじみの職員たちが笑顔で声をかけてくる。気さくな女たちに笑顔を返したがコウジは内心複雑だ。犬舎の職員たちは毎度
「お待ちかねですよ」
「マレビトどのがおいでになると吹雪丸の機嫌がよくなるのです」
と言うものの、コウジにはそう思えない。出産までの間あんなに自分にべったりだった吹雪丸が仔犬の世話に夢中になっている。
――そうでないと困るけどね。
あっという間に娘が大人になってしまって置いてけぼりにされた父親、そんな感じだろうか。そういえば父親はどうだったろう。考えが日本の我が家へと至り、コウジはため息をつき空を見上げた。
――コウジみたいないい子を産んでくれた母さんも、
――そしてこれからいい子たちを産むお前の姉さんたちも、
――父さんはかわいくて仕方ない。
ナラクシティに高層ビルはない。犬舎も古い石造りの二階建てでさして大きくない。だから秋の空は阻まれることなく広々と高く澄んでコウジの視界を青くまぶしく埋め尽くす。
そうだった。あんなに母を姉たちを愛してやまなかったコウジの父親は初孫を見ることなく亡くなった。遠く隔たり、時の流れも異なる日本で母親は、姉たちは、姪っ子たちはどうしているだろう。東京で見る秋空と似ているようでやはり違う広々とした空間に圧し潰されてしまいそうでコウジは上を向いたままぎゅっときつく目を閉じた。
ふんか。ふんか、ふんかふんかふんか。
ふわふわしたものが忙しなくコウジの足にまとわりつく。ふわふわしたものはコウジの靴に乗り、鼻先をすりよせる。コウジのズボンに鼻先を寄せたりじゃれついたりしながらくんくん、きゅんきゅん愛らしい声で鳴く。ひとしきりコウジのズボンをよだれまみれにして飽きたのか、仔犬はころんころん、跳ねたり転がったりしながら吹雪丸のもとへ駆けた。
――子どもはいい。ほんとにいい。
そう言って幼いコウジの頭を撫でた父親の面影が朧で思い出せない。ただ唇の横に刻まれた笑い皺が深くなる、親しい者へ見せる表情のあたたかさだけがよみがえる。
前足にじゃれつく仔犬をあやしながら吹雪丸は三つ頭の一つだけをもたげ、コウジが自分を見ていることを確かめたのか目を細めた。
――女の人はね、ちょっとわがままだけど、それでいいんだよ。
亡父の言葉を思い出し、コウジは微笑んだ。ほんとうだ。吹雪丸は人ではないけれど、でもそのとおりだ。
犬舎の中庭の柵にもたれるコウジの視線の先には陽だまりでくつろぐ吹雪丸と仔犬がいる。夏の勢いを失い乾きかけた草の上で走ってはころりと転がり、母犬の巨体にじゃれついては離れ、あどけない仕草ではしゃぎまわる仔犬は見ていて飽きない。
人々の営みと同様に季節のうつろいもまた忙しない。ナラクシティの秋が駆け足で過ぎ去ろうとしていた。




