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そしてぼくは道を踏みはずす (一)  作者: まふおかもづる
第三章

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36/83

十五

「吹雪ま――!」


 騒ぎの起きている部屋に駆け込んだコウジは大きくて強い何かに胸を突かれ床に叩きつけられた。ふううううっ、ふううううっと荒い息が頬にかかる。血走った三対の目。唸り声とともにしたり、したりと垂れる涎。めくれ上がった震える唇からのぞく牙。吹雪丸だ。前脚ひとつでコウジの胸を抑えつけている。ぐ、ぐぐ、と体重がかかり、コウジの胸の骨がみしりと(きし)んだ。ふと、胸にかかる負荷が軽くなった。咳き込みながらまわりを確認すると、尻のほうにこっそり近寄ろうとした犬舎の職員を吹雪丸が威嚇している。げほげほと咳き込みながらコウジは叩きつけられた拍子に折れたあばら骨が体内でめりめりと修復されるのを感じた。


――やはり怪我がすぐ治る。


 感覚が修復のスピードについて行かないのか、痛みが残るのが厄介だ。意識が遠のきそうだが、そんなことを言っている場合ではない。吹雪丸の三対の目は反対側、出産の介助を試みている犬舎職員たちに向けられている。固まって様子をうかがう女性体たちのいちばん前に橘がいる。足に裂傷が走り、口もとにパンチを食らったような痣が浮き上がっていた。橘の痛々しい姿を見てコウジは、いったん遠のきかけた意識を繋ぎとめた。


「ふ、――吹雪、丸。ぼくを見ろ」


 体の向きを変えるために吹雪丸が持ち上げかけた前脚をコウジは両手でぎゅう、と力を込めて握った。吹雪丸が頭のうちのひとつを向けて反応する。


「頭、三つともこっちに向けるんだ、吹雪丸。ぼくを見ろ」


 何を優先すればいい。吹雪丸の、生まれてくる仔犬の、橘をはじめ犬舎のこの部屋にいる人々の安全、どれも大切だ。吹雪丸の三対の目に宿る惑乱が体中を苛む痛みのリズムと同調してコウジの心を染めてゆく。


――だめだ。しっかりしなきゃ。


 緩みかけた両手の指で再度しっかりと吹雪丸の前脚を掴みなおし、コウジはぎゅっと目を閉じた。深呼吸する。無理やり修復された骨が軋む。


――それでいい。


 その軋みはリズムを刻む痛みに破調をもたらす。体の感覚を支配しかけた惑乱を心の奥底に力づくでしまいこみ、コウジはゆっくりと目を開けた。


「痛いか、吹雪丸。苦しいか」


 荒く息をつく吹雪丸がじっとコウジを見ている。おそらく吹雪丸にとってはじめての、乗り越えることが困難な苦痛なのだろう。


「きみの痛みと苦しみを、ぼくはともに感じることができない。でも吹雪丸、きみが苦しんでいるのは分かる」


 両手で掴んだ吹雪丸の前脚の爪がシャツに食い込む。橘が足を引きずり近寄ってきて息を呑んだ。


「マレビト、怪我を――」


 吹雪丸の爪が肌を破る。痛みにおののく身体の動きでますます爪が食い込む。同時に傷が修復され出血の痕跡が吸い込まれるように消える。コウジは視線を吹雪丸と絡ませたまま、橘に囁きかけた。


「お産の、このあとの手順を教えて」

「破水からかなり時間が経っていて――」

「手順を、手短に。た――頼む」


 危険だ、と続けそうな橘をコウジは遮った。吹雪丸にネガティブな情報を聞かせたくない。橘が膝をつき、コウジに囁き返した。


「破水、陣痛、分娩、しばし時をおいてそれを繰り返す」

「数は」


 コウジの視界に橘の手が入ってきた。指で三、とサインが送られる。コウジはうなずいた。


「分かった」

「以前にも思ったんだがな、――何が分かったというんだ」

「自分が何もできないということが分かった」

「おい――」


 目を吹雪丸から離さず、コウジは囁きで橘を遮った。


「吹雪丸の注意を惹きつけておく。きみたちは吹雪丸の分娩の介助を」


 無意識のうちに橘、と呼びかけそうになる。辛うじて少女の名前を口に出さず呑みこんだ。 


「――ぼくが飛び込んで優先順位に狂いが生じる、そんなことは考えなくていい。いないものと思って」

「しかし」

「さっきの、見ただろ?」


 橘は怪我が修復されるさまを目にした。春祭りに続き二度目だ。返事を待たず、コウジは周囲に聞こえる程度に声を強めた。


「大丈夫だ。ぼくは大丈夫。――だから母体と仔犬、そしてきみたちの安全を優先して」


 橘が近づいてきてあたたかくやわらかい何かが額をかすめた。


――コウジ。


 耳もとで声がする。痛みの波が寄せて、引く。その単調なリズムに意識が遠のきかける。コウジは柚子の声を聞いた気がした。幻か。

 そう、幻聴だ。視界を占める巨大な三頭犬の顔。あのとき仔犬だった吹雪丸がこんなに大きくなった。前脚一本でコウジを傷つけ、おそらく一撃で命を奪えるくらい大きくなった。そして柚子はコウジの名前をスムーズに発音できなかった。コウジは自身に言い聞かせた。分かっている。これは幻聴だ。



 吹雪丸の巨体の向こう側の持ち場へ戻った橘が黄三家の老女と二三、言葉を交わしその場にいた職員たちとともに慌ただしく動き始めた。ぐるりと振り返りそうになった吹雪丸の前脚を強く掴みとどめる。


「大丈夫だ。後ろにいる人たちはいつも吹雪丸といっしょにいる人たちだ。だから平気だ、悪いことなんかしない。あの人たちを信じるんだ」


 熱気のこもる室内。じくじくとリズミカルな痛みに苛まれるコウジの身体も熱い。それなのに湿った被毛の奥の吹雪丸の皮膚は冷たく感じられる。それが出産時の三頭犬の普通の状態なのか、それとも望ましくない事態の予兆なのか、コウジには分からない。朦朧とした意識、痛みが刻む単調なリズム。集中力を放棄して惑乱に身を任せてしまいたい。

 ぐ、ぐぐ。

 吹雪丸の身動ぎに合わせ、胸の上に置かれた前脚がめり込む。修復された肌を爪が裂き、その感触に気づいたのか、吹雪丸が後ずさりしようとした。三対の目に正気の色が戻ってきている。コウジは改めて胸の上の前脚を掴みなおした。


「吹雪丸、――この痛みには終わりがある」


 最後まで一緒にいる、と続けようとした時、吹雪丸の身体がふるふると震えた。呼吸が切迫している。今までになく筋肉が緊張しているのが伝わってくる。


「――よし、羊膜が見えた」

「布と――吸引器を持て」


 小声で囁き交わす声が聞こえる。視界の隅で黄三家の老女がしっかりとうなずくのが見えた。


「もう少し、もう少しだよ、吹雪丸」


 ぎりぎりと圧迫されてひしゃげ、同時に修復される胸の痛みに耐えてコウジは微笑んだ。


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