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そしてぼくは道を踏みはずす (一)  作者: まふおかもづる
第三章

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十四

 視線を宙にさまよわせたり、室内をうろうろ歩きまわったり。コウジはそわそわして落ち着かない。そしてもどかしく、いたたまれない気持ちになっている。


――もうそろそろだ。


 吹雪丸の出産のことである。橘からそう告げられて二日経つがまだ呼び出しが来ない。


「マレビトどのはまるで兵士の思い人のようですね」


 紫五家の若衆がちらりとコウジに目を遣り、おっとりと微笑んだ。しかしすぐに腕の中の赤ん坊に視線を戻す。美しい黒髪の女は現在、シティの医療部に併設された保育所で働いている。コウジの同僚だ。

 働き始めた当初は母乳を提供する乳母として採用され、吹雪丸の出産で保育所に来られなくなるコウジの代わりも務めることになっている。ちょうど時機を同じくして妊娠の判明した女性体が数人現れた。冬には立てつづけに新生児が増えることになる。コウジだけでは手が足りなくなるのは明らかだったので紫五家の若衆本人の希望は歓迎された。こうして黒髪の女は正式に保育所の要員として加わることになった。

 服の前をくつろげる女から目を逸らすコウジの、何度出くわしても慣れない慌てぶりに苦笑しながら紫五家の若衆は腕の中の赤ん坊に乳をやった。


「マレビトどのの落ち着かないお姿は、手術室の外で生命の危機に瀕した思い人の無事を祈る者の姿と似ています」

「生命の危機……」

「はい。シティ辺縁部はしばしば野生の獣に荒らされます。警備の当番がそうした獣と戦って怪我を負うこともあるのです」


 ナラク王国の女たちは壮年体になると兵役が課され、訓練やシティ内外の警備にあたる。ただし、この国において兵士とは兵役を課されているものだけではない。成年体の女全員が兵士だ。いったん事が起きれば壮年体、動ける者は高年体であっても武器を手に取り戦う。そしてしばしば兵士が生命の危機に瀕し、その恋人が手術室の前でおろおろする、ということらしい。紫五家の若衆が語るそれが恋する者特有のほほえましい場面だとは思えない。そしてコウジの目の前で赤ん坊に乳をやるたおやかな美しい女、彼女も兵士で、有事の際は武器をとるわけだ。コウジにはさっぱり想像がつかない。


「マレビトどんのこの状態、紫五家さんが言うような感じとは(ちご)どね」


 保育所の庭先に影が差す。拒絶を感じさせないぎりぎりの速度で紫五家の若衆が体の向きを変えた。眉がわずかにひそめられている。


「イノさん、いらっしゃい」


 声をかけたコウジにのんびりと巨体を曲げて会釈したのは猪頭の囚人だ。名はもちろんあるのだが、ナラク王国の風習によって彼の名前が呼ばれることはない。他の者からは猪の囚人、豚頭の人などと呼ばれているが、コウジは男をイノさんと呼ぶ。元の名前とは違うのだろうが、猪野とか猪頭とか名字を元にした感じの、そしてコウジなりに親しみを込めたあだなにしたかったのである。牛おっさんや医療部をはじめとする保育所の関係者を除けばイノさんだけが男性の知己である。


「嫁や娘の、マレビトどんのそのそわそわは娘か、無事の出産を待つ男そのものじゃっど。――ああそうだ、今日はこれ、どうかち思て」


 こめかみに走る古傷や口からのぞく牙などでイノさんはたいそう凶悪な顔面をしている。コウジの生まれ育った世界であれば確実に悪役だ。ちなみに男性体が亜人類の惑星ナラクにおいても、そして銀河各地から送られてきた多種多様な亜人類を見慣れた囚人たちの間でも同様らしい。今は大人しくしているが本来は死刑に処すべき凶悪犯罪者だとか、逆に冤罪らしいなどと陰でいろいろ囁かれている猪頭の巨漢が繊細で優しい男であることをコウジは知っている。噂がどうであれナラク王国で服役するイノさんは農場で真面目に働く模範囚だ。

 イノさんは凶悪な顔面に似合わない睫毛のばさばさした目を細め、携えた籠を差し出した。鮮やかな赤。みずみずしい香気。きいちごだ。


「甘そうなのを選んだから、子どもらのおやつにしちょったもし」

「いつもありがとう」

「なんのなんの。――またきます」


 背を向け無言で会釈する紫五家の若衆にちらりと目を遣り、イノさんはのしのしと庭伝いに去った。強張っていた肩を緩め、黒髪の女が俯いてため息をつく。

 イノさんの顔面が凶悪だから嫌がっているのではない。紫五家の若衆は春祭り以来、男を怖がるようになった。囚人たちはもちろん、ゴメズたちとも距離を置いている。それが却って男たちの心に火をつけるのだろうか。春祭りの折、衆目の前で見せたこの惑星の女性には珍しい弱々しい姿に心惹かれたのだろうか。紫五家の若衆はその陰りを帯びた美しさもあいまって男たちの間で大人気なのである。本人の望まないことなのでまことに気の毒だ。


「そういえば、まだ(しら)せがきませんね」


 イノさんの気配が遠くへ去って安心したか、やっと紫五家の若衆が口を開いた。そうなんだよ、とため息をつこうとしたその時、保育所に人がやってきた。


「マレビトどの、おいでください」


 頭や腕に包帯を巻いた痛々しい姿だが、確か橘と同じ黄輪党に属する、犬舎勤めの若者だ。


「吹雪丸の出産、いよいよなんですね」

「はい。――ただ、暴れて手がつけられません。次の間に控えていただくことになるかと」


 紫五家の若衆と馬頭の頭領に後を託し、犬舎へ向かう。日差しはきついがどこかうらうらのんびりとした夏の昼下がり、今が農作業や放牧の繁忙期とあって、シティ内は閑散としている。しかし、犬舎へ近づくにつれ様子が変化してきた。のんびりした午後のはずなのに空気が張り詰めている。

 犬舎は、三頭犬たちが寝に帰るだけの建物なのに大きく、立派だ。担当者によって常に清潔に保たれ、非番の犬たちが建物の近くであくびをしながら寝そべり、フレンドリーに通りかかる者に挨拶をする。犬好きのコウジにとってパラダイスのような場所なのだがこの日は様子がおかしい。犬舎まわりにいる犬たちはうろうろとさまよい、尖った目つきで通りかかる者をじっと見つめる。かといって威嚇しているわけではない。尻尾が足の間に挟まっている。

 若者の後について足早に犬舎へ入ろうとしたコウジは足を止めた。


――おお、おおおおおおおおお。


 咆哮が轟き、空気を震わせる。


「ああ、また暴れています」

「これ、吹雪丸の声……ですよね?」

「そうです」


 三頭犬の出産というのはそこまで危険なのだろうか。手がつけられないほど暴れるなんて、おなかの仔犬は大丈夫なのだろうか。母体、吹雪丸も危ないのではないか。コウジは若者を押しのけて犬舎へ駆けこんだ。



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