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そしてぼくは道を踏みはずす (一)  作者: まふおかもづる
第三章

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33/83

十二

 名前を呼ぶ、と言ってもその習慣がない国でいきなりそう簡単に抵抗はなくならない。だから春宮は名前を呼んでいい相手と場所を選んでいる。結局コウジだけだ。場所は保育所のみ。馬頭の若頭領が


「ぼくの名前を呼んでもいいですよ」


 と申し出たのだが、春宮は赤くなり、青くなり、再び赤くなって


「許さぬ」


 ぷい、とそっぽを向き不機嫌なまま駆け去った。ポニー頭の少年が心底不思議だと言いたげに首をかしげた。


「なぜお許しにならないのだろう。ぼくの名前なのに」

「若頭領のお名前だからですよ」


 言ってやっても腑に落ちないらしい。あと一歩踏み込んで「二人きりの時を見計らってもう一度言ってごらんなさい」と助言してもいいのだがコウジは敢えてそうしなかった。リア充爆発しろ。

 コウジには春宮の気持ちがなんとなしに分かるような気がする。春宮は他の者が馬頭の若頭領の名前を呼ぶのがきっと我慢ならないのだ。


――特別に思いを通じあわせた者のみに名を明かすのです。


 春宮はコウジだけでなく、惑星外から受け入れている囚人たちの育った環境なども考慮して少しずつこの国の習慣を変えようと考えているのだろう。やんちゃで幼く見えてもあの頭の中には今までの王の記憶が詰まっている。

 先王、今上の王、春宮。同じ遺伝子から作られ、世代間のわずかなずれのみの差異で同じ代々の王の記憶を受け継ぎ、それでいて同じ人間ではない。こうして代々の王がそれぞれに民を思い、国を思って歴史が積み重なってゆく。コウジの生まれ育った日本であれば遠く遠く、現実感のないところで動く政治。ここでは歴史上の事件もごく個人的な思い入れに端を発することがある、そんなことで歴史が動いていいのだろうか、しかし考えてみれば当たり前のような、そんな肌に近いところで何かが動く感覚がある。為政者の側近くで日々を過ごしてコウジは目を(みは)る思いをしている。


 明るく日の射す保育所の庭先で寝そべっていた吹雪丸が三つ頭のうちふたつを気だるげに持ち上げた。にぎやかな気配が近づいてくる。昼はとうに過ぎ、日が傾いたと言うにはまだ早い時刻。教育施設の放課後、早くひけてくる子どもたちがやってきた。


「コウジー」

「こーじー」


 ごく幼い、まだ培養ポッドから生まれ出てすぐの幼子たちが春宮を真似てコウジの名を呼ぶ。この幼子たちにとって「コウジ」という音に特別な重みはない。自分たちの通う学校の近くにある保育所に顔を出す時の挨拶のようなものだ。

 庭に入ってきた幼子らはウッドデッキにかばんを放ると、それぞれに遊び始めた。吹雪丸にしがみつく者、強面フェイスに怯えて遠巻きにする者、庭の隅に咲く花に気を取られる者、室内の赤ん坊が気になってしかたのない者。思い思いに庭ではしゃぎくつろぐ幼子たちの姿がまばゆい。甲高い子どもの声で舌足らずに呼ばれる自分の名前。姪たちとさして年の変わらない幼子たちの声ののびやかで甘い響きがコウジの胸を衝いた。

 たかだか名前ひとつのことなのだけれど。だからこそコウジは春宮をただの乱暴な姫君だと切り捨てることなどできない。

 春宮の


「囚人たちも自由を縛られるだけでなく、『甲羅のめしゅうど』だの『猫のめしゅうど』だのと名前まで奪われた気持ちになるのは忍びなかろう」


 という言葉にあたたかなものを感じる囚人もいると耳にする。すぐに政策に反映されなくとも、代を重ねれば少しずつこの国も変わって行くのかもしれない。



 保育所の庭に新たな客が来た。橘だ。

 庭に現れた壮年体に礼儀正しく挨拶をする幼子たちに対しやわらかく応える橘の視線がふとコウジと交わった。意志の強そうに見える眉を顰め、はちみつ色の瞳に戸惑いが揺れる。


――私の名は橘だ。

――知らない世界にきてその、マレビトが困っているのがあわれだからな。

――その、名前を教えるくらいはマレビトの世界の習わしに、そのあの。


 恋しい人と瓜二つの姿をした少女が顔を真っ赤にしていた様子を思い出す。橘は古風な党風が特徴の黄輪党の中でもがちがちに硬派な家の娘だと聞く。コウジとのかかわりがなければ柚子は今頃党の長を務めていたはずだ。そうした硬い家風で育った者は春祭りに連れ合いを探すことすら下卑ていると蔑み、泰山府君祭霊廟に保存されている遺伝子で培養され、名を他人に与えない人生に誇りをもつのだという。

 そんな橘が見返りを求めず名を与えてくれたことの重みについて、日、一日と滞在が長引くにつれコウジの理解が追いついてきた。けれど彼女の真意は分からないままだ。


 春祭り最終日に起きた黄三家の老女の刃傷沙汰以来、橘とはなんとなしに距離ができている。すぐに傷はなくなったのだし、公的には怪我などなかったことになっているのだし、と話し合いもし、橘もいったんは納得した様子を見せた。しかし目に見えない壁に隔てられたかのようだった。


 必要以上に言葉を交わさなくなったけれども、橘とはほとんど毎日のように顔を合わせている。というのも、吹雪丸が王の側仕えの任を解かれたからだ。これは吹雪丸に咎があってのことではない。


 吹雪丸は十歳になった。コウジの知る犬の寿命と違い、三頭犬の十歳はまだ若いのだという。それでも成犬になって数年経つのに吹雪丸は交尾に応じようとしない。ひときわ大きく力が強いため、吹雪丸が拒否すればオス犬はすごすごと退散する。無理もない。吹雪丸を愛することにかけて右に出る者はいないと自負するコウジから見ても吹雪丸はなかなかに凄みのあるレディだ。

 しかしただでさえ頭数が少ない三頭犬のブリーディング面で大いに問題がある。扱いが難しくても王の犬となるほどの優れた三頭犬だ。できるだけたくさん子を産んでほしい。飼育の担当者である橘だけでなく、王の意向でもあると聞いた。


「吹雪丸を説得してくれ」


 ある日、やってきた橘が表情を強張らせたまま言った。コウジと目を合わせない。

 コウジがこの世界へやってきて再会した吹雪丸をたやすく手なずけたさまは王の周囲を驚かせたらしい。頭数の少ない三頭犬の育種、ブリーディングを生業にしている橘の家は代々王の側近を務めてもいる。相応に敬意を集めていてプライドも高い。それなのに十年前、優秀な壮年体の体面がコウジによって傷つけられた。そして偶然とはいえ刷り込みと名付けのタイミングをコウジに奪われ、結果、家業である三頭犬のブリーディングにも失敗している。優秀な三頭犬がブリーダーや王をさしおいて別の者をあるじとしているのである。橘の家、黄三家に対する評価はますます低くなった。こういうことも老女の暴挙の原因となったのだろう。悪気がなかったとはいえあまりに大きな影響をコウジはこの国、特に橘の家にもたらしている。


「分かった。どうすればいい?」


 だからコウジは橘の求めに何でも応えるつもりでいる。


「分からぬ。どうすればいいのか。吹雪丸は反抗的であるわけではないのだが、ときどき――気難しくなる」


 柚子は――、言いそうになってコウジは口を噤んだ。橘との間に気まずい沈黙が降りる。柚子は確か


――名をつけてやればもっと聞きわけがよくなるはずなんだが


 そう言っていた。確かに吹雪丸は賢い。橘や王の言う気難しさをコウジは感じたことがない。だからと言って「子どもを産んでくれ」と言い聞かせて吹雪丸は理解できるのだろうか。このオスと番え、などと適当に押しつけることもできないし、したくない。


「分かった。やってみる」

「――な、何が分かったんだ」


 橘の少々引き気味のつっこみが心に刺さったが、コウジは橘の役に立とうと心に決めている。たとえそれで吹雪丸に嫌われることになったとしてもかまわなー―


「いや、そうなったらかなりへこむな」


 それでもコウジは意を決し、強面怨念隈どりカラーリングの巨大な三頭犬、吹雪丸の前に立った。


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