二
あれはいつのことだったろう。子どもの頃。じりじりと苛烈な日差しにあぶられて路地のアスファルトが溶けそうに見えたから夏だ。記憶の中の自宅はまだ新しく、今朝出た時と同じ建物とは思えないくらい大きい。記憶が美化されているのではなく、コウジ自身が小さかったからだ。
幼いコウジはその時、自宅近くの路地でうずくまっていた。何がきっかけだったか、姉の一人、多美と喧嘩をして怪我をさせ、母親に酷く叱られた。拗ねて屋外に出たはいいものの、学齢に達する前の幼児にどこか行くあてがあるわけでなし、照り返しと温気でむせるように暑い路地でただうずくまり、逃げ水をぼんやりと眺めていた。
――ぶ……ん。
微かな振動とともに揺らめく逃げ水の手前に人が現れた。人の姿をしているのに何か変だ。派手で重そうなコートを着込み、白い手袋を身につけている。どこかの国の昔のお貴族様か。季節はずれどころか、妙にきらきらしくてコスプレめいたいでたち、しかしおかしいのはそこだけではない。
ずずず、ざ、ざわわ。
輪郭がブレている。
誰もいない、躓くとっかかりなどない平坦な路地の真ん中で男が一人、膝かっくんされたようにずっこけている。
微振動とともに揺れてブレる男は、コウジが耳にしたことのない言葉で悪態をついていたがやがて、振動の収まりとともに輪郭もはっきりとしてきた。
「どうなってるんだ、ここ、どこだ……。暑……!」
男が振り向いた。路地にうずくまるコウジと目が合う。こめかみを汗が伝い、顎から地面にぽとり、と垂れた。
「そこのきみ、見たのか」
コウジは思わず首を横に振った。
「いや、俺がここに突然現れたの、見ちゃったよね?」
なんかヤバい。ぶりぶりと横に首を振るコウジに向かって男は一歩踏み出した。
「あれ、お返事がないぞ? この子、言葉が通じないのかな?」
それだ。そういうことにしよう。コウジはぶりぶり首を振り続けた。
「俺の生まれたところではね、首を横に振ると『ええ、あなたの言う通りです間違いありません』って意味になるんだよ? ところでそこのきみ、俺が突然ここに現れたの、見ちゃったんだよね?」
横に振るのが「イエス」なら、「ノー」はなんだ? コウジは縦に首を振った。のし、のし、と近寄ってきた男が嬉しそうに言った。
「そうかそうか、やっぱり見たか。無事に言葉も通じるようでなによりだ」
騙された。大人って、大人って……! コウジはがっくりとくずおれた。コートを脱ぎ抱え込んだ男が隣にしゃがみ込む。平日の昼間、住宅街の路地。人通りが少ない時間帯であるが何かおかしい。じりじりと照りつける太陽、照り返しと温気で萎れかかった垣根、路地の彼方で揺らめく逃げ水。男が出現する前と何も変わらない。しかし、眼前の光景から動きが、音がなくなっていた。
「静かなところだな」
男がのんびりと話しかけてきた。コウジはぶりぶりと横に首を振る。そして首をかしげた。「ノー」って横に首を振る、これで正しいのかな?
「あー、少年、俺が悪かった。あれは冗談だ。横に首を振れば『違う』、それで合ってる」
苦笑する男はとても大きく見えた。赤を基調としたど派手なコートを脱ぐとふりふりとした白いブラウス、複雑な飾りのついたベストを着ている。それでも肩や腕が隆々とした筋肉によろわれているのが分かる。外国人なのだろう。日焼けしていても肌が白く、髪や瞳の色が明るい。首を縦に振るの横に振るの、どっちがどうだったか分からなくなって、意思表示が混乱しそうだ。仕方なく、コウジは男の問いに答えた。
「いつもはね、もっとにぎやかだし人や車がしょっちゅう通るんだよ」
「そうか。そうなんだろうな。家がたくさんある。おかしいくらい暑いが」
自分の住む街が「おかしい」と言われてコウジはむっとした。真夏なのにど派手なコートを着込んでいるほうがおかしい、と抗弁したかったが大きくて得体の知れない男が怖かったので話を変えることにした。
「おじさんはどこから来たの?」
「どこって……まあ、遠いところさ」
コウジは唇をかんだ。末っ子だから、まだ小さいから、と何も知らず、何も理解できない馬鹿な子ども扱いされる。両親も、姉たちも、幼稚園の先生もコウジのことをそう思っている。何も知らないのはこれから知るから、何も理解できないのは考える材料が得られないからなのに。この大きな男も自分のことを物知らずで馬鹿な子どもだと思っているんだ。コウジはがっかりした。
「まあ、そうむくれるな、少年。遠いところ、と言うのは嘘じゃない。俺は違う世界から来たんだ。どこ、と名前のある世界じゃないから説明しづらいだけだ。きみの住んでるここだって世界の名前なんて、ないだろう?」
「ここは『にほん』、だよ? あ、でもそれは世界じゃない、のかな」
コウジは首をかしげた。コウジの育つ家の外には街があり、その街は「にほん」という国のかたすみにある。「にほん」という国の外にはさまざまな国がいくつもあって、地球と言う星の地面を分割しているんだ、とニュースを見ながら父親が教えてくれた。地球の外には宇宙があって、太陽や月は宇宙に浮かんでいる。読めるようになったばかりの図鑑にそう書いてあった。じゃあ、世界って何だろう。
「この世界に名前がないのは、違う世界に渡った者がいない、あるいはいても名前をつけていないからだ」
「じゃあ、おじさんがこの世界に名前をつけるの?」
「そういうのも悪くないなあ」
男は大きな手で明るい色の髪をかきあげながら笑った。笑うと意外に若々しい。もしかしたらおじさん呼ばわりするほど年を取っていないのかもしれない。
「でも、俺は名前をつけるほど、愛着を覚えるほど長くここにいられないと思う。見えるか?」
実は男が顎をしゃくって示す方向がコウジはさっきから気になっていた。きらきら光っているわけではない、さっきみたいにぶれているわけでもない。でも自宅前の見慣れた路地に何かがさがさとして粗く質感の違って見える部分がある。それが路地の、三軒先辺りまで道のように続いている。
「ああ、きみ、やっぱりあれが見えちゃうんだな……」
男はコウジの視線をたどり、苦笑した。
「俺は違う世界から来た。でもこのがさがさした道のようなものが見えるときはすぐに、元の場所に戻れるんだ」
「すぐ帰っちゃうのに、ものすごく遠くに来たんだね」
男の身につけているど派手なコートやきらきらした装身具、こんなもの見たことない。男の言う違う世界というのが少なくとも電車や車で行ける場所じゃない、そのことはコウジにも分かった。
「俺は病気なんだ」
「病気?」
「そう。道を踏みはずす病気」
がくっ、と道を踏みはずすと周りがブレて違う世界へ飛んでしまう病気なんだそうだ。さっきの膝かっくんされたみたいにずっこけていたのは、ちょうど道を踏みはずしたシーンだったということになる。コウジは何だか道を歩くのが怖くなった。
「ああ、いやいや、道で蹴躓いたら必ず違う世界へ飛んじゃうわけじゃないんだ。病気には必ず前兆がある。この病気の場合は人生の道を踏み誤る間際の一瞬だ」
男は正面を、路地にまっすぐ続く道のようながさがさした部分を、真剣な目で見つめた。
「このまま進むと必ず道を踏み誤る、人生を間違えてしまう、そんな時にね、俺はずっこけちゃうんだよ。それでずっこけるだけじゃなくて違う世界に飛んじゃう。でもね」
のどかで朗らかな様子を取り戻し、男は言った。
「だいたいはすぐ戻れるんだ。そしてがくっ、と道を踏みはずしたその時点とほとんど変わらないタイミングに戻れるんだよね」
「意味ないよね?」
「そうなんだよねえ。あんまり意味ないんだよねえ。でもほら、病気だから」
なるほど、とコウジは納得した。風邪や腹くだしに意味などない。それと同じだ。
「俺はね、この病気を逆手にとって運命に逆らった。運命から逃げ回った。でもなあ、もう大人にならなきゃだめだなあ」
男の言うことがコウジには理解できなかった。とりあえずよく耳にする、分かりやすそうな言葉だけ拾い、鸚鵡返しする。
「大人?」
「そう、大人。大人になるってどういうことだろうな」
大人になるまでずいぶん時間のかかるぼくに訊かれても、とコウジは困惑した。ただ、見上げる視線の先で男の顔が自分よりもっと困っていそうに見えたのでコウジは真剣に考え、答えた。
「んとね、頼りになる人、家族とか大切な人を守れる人が大人なんだと思うよ?」
男はうんうん、とコウジの言うことに頷き、破顔した。
「少年は賢いなあ。そうだなあ。頼りになる人が大人だよなあ。ただ運命に流されて諦めるだけが大人じゃないよなあ」
ほんとうはよく分からないんだけど、頼りになる大人と言うもののイメージをテレビの特撮ヒーローと父親に求めてみた。コウジにはどうも、男が納得するほど大人というものを定義できた気がしない。それでも男は満足げに微笑み、立ち上がった。
「残念だが時間切れだ。……少年、おかげで心が決まった。ありがとうな」
目の前に伸びるがさがさした道のようなものは先ほどよりがさがさ感が増している。男はコートをしっかりと着込み、周りを見回した。
「よし、忘れ物や落し物はないな」
そしてコウジを見下ろすと、
「じゃあな、少年。覚えておけ。忘れ物や落し物は厳禁だ。元の時空に戻りたければ、な」
と言い、がさがさした道をのしのしと歩いた。途中、なにかがコートからこぼれ落ちる。なにか落ちたよ、とコウジが声をかける間もなく、三軒先の路地で男の姿が霞んだ。
ずずず、ざ、ざわわ。
輪郭がブレている。
振り返った男はにこり、と笑ったように見えた。
――ぶ……ん。
微かな振動とともに揺らめく逃げ水の手前でずるっ、とずっこけたその瞬間、男が消えた。遠くの道路を行き交う車の音、人が言葉を交わす声、鳥のさえずり。街の喧騒が戻ってきた。ただ、男がコートの裾から落とした何かが残っている。立ち上がり、見に行く。路面に落ちた何かは丸い何か、輪になった金属で黒い石のようなものがついている。
「指輪だ」
指を伸ばして触れようとしたその時、声がかかった。
「――コウジ」
振り返ると、多美が立っていた。肘や掌に大きな絆創膏が貼ってある。多美はもじもじとスカートのすそを握ってくちゃくちゃにした。コウジは大人、頼りになる大人について、さっき男と話したことを思い出した。
「多美姉、怪我させちゃって、ごめんね」
喧嘩をした時は言えなかったことが今なら素直に言える。多美は怒っているような真っ赤な顔をした。
「アイス、食べよう」
ぶっきらぼうに言うと、コウジに手を差し出した。
「うん」
コウジは姉に手を引かれて家の中に戻った。姉の譲歩とおやつのアイスが嬉しくて、コウジは指輪のことをすぐに忘れた。
黒い石のついた古ぼけた指輪は道路に転がっている。やがて夕方家路につく人々のつま先で蹴られ転がり、側溝の闇に呑まれていった。
こうしてコウジは幼いころに一度出会っただけの男に「道を踏みはずす」病気をうつされた。