八
流血表現及び残酷な描写が含まれます。苦手な方はお読みにならないようお願い申し上げます。
春祭りが終わる。
惑星ナラクにきてたかだか一週間なのだが、コウジは故郷へ帰ることを半ば諦めている。半ば、というのはなんともいえず心もとなく、中途半端なもどかしい気持ちになるものだ。しかし、同時にやはりここは自分の居場所ではないと強く感じてもいる。
膝かっくんでずっこけて惑星ナラクにやってきてコウジは月日を経ても身体が変化しなくなった。普段は考えない。しかし、朝起きて顔を洗う時、トイレを使う時、何の気なしに行動していて気づく。
――髭、剃ってない。
最初のうちはそこまで気が回らなかった。夜眠り、トイレや風呂を使っていたから気づかなかった。食べ物を食べればおいしいと思い、夜眠ることもできる。
――食事も睡眠も排泄もしようと思えばできる。
しかし、その気になれば眠らなくても食べなくても、排泄しなくても平気な身体になっていた。休まなくてもよくなった、というより
――まるで生きていないような。
――かといって死んでいるわけでもないような。
異世界にあってコウジだけが時間の歩みを止めているような、そんな宙ぶらりんな状態にあった。
コウジがこの世界の人間でないから。ただひととき、この世界に身を置いているだけだから。きっと時が進まない。そのことがはっきりしたのは春祭りの最終日だった。
最後の日は外でキャンプをしていた人々が戻ってくる。ナラク宮前の広場に集まり、バーベキューが催された。先日山猫たちが暴れていた広場の中央に巨大な回転肉焼き機が置かれ、じゅうじゅうと脂をしたたらせ、もうもうと煙を立てるどでかい肉塊が焼かれている。子どもたちがぴょんぴょん跳ねながら嬉しそうに肉の焼けるのを待っていて、祭りらしい晴れやかでのどかで心楽しくなる眺めだ。しかし春祭りはそもそもリア充生成祭りであるわけで、そこここで濃厚な、それでいて疲れを隠せないカップルがやたらめったら目につく。気だるく甘ったるい。
「まあ、少々のことは大目に見てもらえる。このあと、長期間会えなくなる者も多いからな」
橘がコウジの視線の先を読み、苦笑した。
「長期間会えなくなるって」
「夏は遊牧の季節だ。各戸まわりもちで壮年体が馴鹿を連れて遊牧に出かける」
「た、その、……きみも?」
「残念ながら今年は見送りだ。おばばが元気なうちに当番を済ませておきたいのだが、壮年体になったばかりなので家業に力を入れねばならん」
「きみの家業って何?」
「わがきみの近衛と三頭犬の育成だ」
橘は誇らしげに吹雪丸を見た。
「吹雪丸は、ここ数代でもっとも誇り高くもっとも強い三頭犬だった雷切の最後の子どもだ。吹雪丸には雷切をしのぐ強さと賢さがある」
三頭犬はこの国で重要な位置にいるらしい。惑星ナラク原産の動物である三頭犬は入植後早い時期に人類と共存を始めた。三頭犬は愛情深く人々に接し、鋭い感覚でいち早く危険を察知して人々も含め自分の属する群れを守る。
「三頭犬は猛々しく賢く、誇り高い。その中でも吹雪丸はいちばんだ。神々しい」
その吹雪丸は広場の中央でゆっくり回転しながら焼かれる肉塊を「その肉を寄越さないと呪う」と言わんばかりの凶悪な表情で涎を垂らしながら見ている。その姿に愛嬌を感じこそすれ、神々しさはちょっとどうかな、とコウジは思う。肉に対する意欲というか執着というか、そういうものが駄々漏れで吹雪丸の顔がいつもに増して怖い。その険しい表情に三頭犬に慣れているはずのナラクシティの人々が怯えている。じりじりと広場中央の回転肉焼き機ににじり寄ろうとする吹雪丸をコウジは何度も制した。そんなこんなで人々の邪魔にならないよう広場の隅、建物の陰に吹雪丸を引っ張ってきている。
「三頭犬は馴鹿の放牧だけでなく、シティの守護もつとめる」
血統だけでなく能力も卓抜した一頭が王の守護として特別扱いされるのだそうだが、その特別な一頭というのを輩出してきたのが黄三家なのだそうだ。
「吹雪丸は不思議な三頭犬だ。おばばや私の言うことなど歯牙にもかけない高慢なところがある。時にわがきみの言いつけも守らないことすらあるのに、母者の言うことはよく聞いた」
「……もしかして名づけ」
嫌な予感がする。
「うん。我が家には三頭犬のしつけ、特に幼犬期の育成に関する秘伝があってな。名づけは特に重要だ。」
「うっわ、ほんとに?」
「……何か問題でも?」
橘が怪訝な顔をする。遅れて理解の色が表情に広がった。
「ああ。――マレビト、吹雪丸に何かしたのか」
した。名前をつけた。「柚子の言いつけをしっかり守ること。柚子の家族を守ること」と言い聞かせた。コウジが泉のほとりで吹雪丸に名前をつけた話をすると、橘は呆れ顔になった。
「マレビトの世界ではよその仔犬に勝手に名前をつけるのは不躾にあたらないのか」
「う」
「マレビトの世界にも三頭犬がいるのか」
「いないよ」
「マレビトが吹雪丸にしたことは我が家では秘伝とされている。幼犬期のあるとき、ごく短い時間、名づけと言い聞かせの時機があるのだ。その時機をうまくとらえて名づけの儀式をすると賢い三頭犬に育てることができる」
「うっわー、ぼく、やっちゃった」
「他の三頭犬飼いにばれたら大変なのだぞ。秘伝だからな」
あはははは。橘の明るい笑い声が建物の壁に反射する。コウジも一緒に笑った。吹雪丸も心なしか嬉しそうにしている。ふと、三つ頭のうちのひとつが小首を傾げた。その途端、わき腹に熱い何かが押しつけられた。
「う……」
振り向くと老女がコウジのわき腹にナイフを突き立てている。遅れて耐え難い痛みがコウジを襲った。息が詰まる。食事も睡眠も排泄すら不要、髭も伸びないというのに刃物で刺されると声も出なくなるくらい痛いなんて理不尽な――。老女は橘とよく似ていた。当然柚子にも似ている。黄三家の老当主であるのは間違いなさそうだ。異変に気づいた橘の表情が凍りつく。吹雪丸の毛が逆立つ。老女は「なぜこんなことをしてしまったのか自分で自分が分からない」、そんな表情をしてよろよろと後ずさった。
――これ、置いていかないで、ちゃんと持って行って下さい、ナイフ……!
痛みで言葉がうまく出てこない。コウジはわき腹に刺さったナイフを掴み、引き抜いた。熱い。痛い。苦しい。ナイフが栓となっていたためか、血が一気に噴き出る、そんな感触があったのに
――なんでこうなるんだ。理不尽だ。
見る見るうちに傷がふさがった。橘も吹雪丸も、石畳で腰を抜かしている老女も、コウジ自身も目を瞠った。血も傷もなかったかのようにつるりと消えた。残ったのはコートの内側、シャツに開いた穴と、耐えがたい痛みだけ。
――傷は消えたのに痛みは残るなんて、理不尽だ。
コウジは呻きくずおれた。




