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そしてぼくは道を踏みはずす (一)  作者: まふおかもづる
第三章

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 低く穏やかな牛おっさんの声が割って入った。


「さてどうしようか」

「他にお医者さんはいないんですか」


 ふむ、としばし黙り込んだ後、牛おっさんが再度口を開いた。


「今、キ神経由で医療部の責任者に連絡を取っている。どうもこの診察房の宿直はこれ一人のようだ。他は非番と、あとはその――例の囚人の手術の執刀やら立ち会いで手が空いていないらしい」


 タイミングがよくなかったようだ。春祭りの最中で非番の人数が多いのだそうだ。春祭りというイベントの最中で浮かれた国民はいつもより怪我をしやすい。しかし、シティ外のキャンプでせいぜい軽く擦り傷をこしらえる程度であり、自分でちょいちょい手当てしてなんとかなるんだとか。そもそもナラク国民、特に女性の大半が従事する酪農、特に馴鹿(じゅんろく)の畜養の場合は少人数グループで遠くまで放牧の旅に出る必要がある。そのため基本的な医薬知識、技術を成人したナラク国民全員が習得している。


「それで診察担当の医師がひとりきりで、しかも酔いつぶれていても問題ない、と」

「いや、酔いつぶれてるのはまずい。――しかしそれよりも」


 問題はコウジにしがみつきすすり泣く女だ。


「もしかして乳腺炎の対処してもらわなかったんですか」


 尋ねると女はゆるゆると首を横に振った。


「キ神は確かいろんなことを知ってるんですよね? 何かアドバイスはなかったんですか」

「――乳腺炎とマレビトどのがいう、それにあたる症状は記録にある。しかしその、誰も質問しなかったから答えなかった、と」

「は?」


 ちょっと待て。出産したての女性が苦しんでたらどうにかしようと思うのが普通だろうよ。着火しかかった怒りの炎をコウジは抑え込んだ。


「それでは医師も乳腺炎の対処法を知らない可能性が高いわけですね」

「そうなる」

「しかもすぐにはここに来られないんですね」

「残念だがそうなる」

「じゃあ、ぼくらでなんとかしましょう」


 水や綺麗な布、膿盆(のうぼん)などを手分けして準備した。手順を確認する。


「おっぱいを出す。それだけだ」

「おっぱいをどうすればいいのか分からんぞ、マレビト」


 橘に伝えると、案の定むっとされた。乳房という意味のおっぱいでなく母乳という意味のおっぱいだったのだが通じてない。通じなくて当然なのだろう、コウジはそう思った。それでも説明しづらい。


「仕方ないだろ、ぼくにはないんだよ、おっぱいが」

「んなっ――わ、私には確かにあるがしかし――マレビト、お前妙に詳しいではないか。おかしいぞ。国に妻子がいるのではないか」

「いないよ、奥さんも子どもも! 結婚どころか恋人すら……。ぼくの家族は母親に姉三人、しかも姉三人が産んだ子どもたちもみんな女。女だらけなんだよ。おっぱいぐらいで動じない程度に詳しくなるんだよ、自然と」


 自然とそうなるのか正直なところ、コウジ自身も疑問だがあたかもそれが当然のように言い切った。ほんとうのところは思いっきり動じているんだが動じていないふりをした。少なくともコウジは動じていないふりをしたつもりだ。「『あね』ってなんだ?」と橘がきょとんとしたが、それは後日解説すると約束した。出来るだけ痛がらないように乳輪から乳首にかけて揉んで絞り出す、と聞きかじった知識を伝え、コウジは牛おっさんとともに診察房の外に出た。


「マレビトどの自身が施術されるかと思ったが」

「そ、そんなわけないでしょう」

「まあなあ。説明だけであれだけしどろもどろではなあ」

「じゃあ、おっさんがすればいいです」

「その、おっさん呼ばわりはやめてくれないか」

「どうしてそこにこだわるのか、ぼくにはちょっと理解でき――」


 診察房のドアが開いた。もう終わったんだろうか。ずいぶん早い。しょんぼりとした橘が出てきた。


「私には無理だ。あんなふうになった乳房に触れることなどできない」

「え?」



 牛おっさんに医師を呼びに行ってもらい、コウジは橘とともに診察房に戻った。祭り装束ではない茶色のシャツの前を押さえ、黒髪の女がぼんやりとあらぬ方を見ている。改めて手を洗い、消毒してコウジは女の前にひざまずいた。


「わたしは醜い」


 女がうつろな視線のまま低くつぶやいた。


「そんなことはないですよ」


 努めてのんびりとコウジは返す。


「ぼくの育ったところは黒っぽい髪、黒っぽい目の人が多いんです。それでもあなたみたいに艶やかで深い色をした黒髪を見たのは初めてです」


 女がゆっくりとコウジに顔を向けた。絆創膏や痛々しい腫れは確かに残っている。それでも


「髪だけでなく肌も目も美しい。あなたはとてもきれいな人です」


 コウジは女の目を見て正直に言った。女の目に色々な感情がないまぜになった光が浮かんだけれどすぐに煙るような睫毛にやわらかく隠れた。


「そんな……ありがとうございます」


 促すと、女は素直にシャツの前を左右に開いた。コウジは息を呑みそうになるのをこらえた。

 紫色だ。人の肌の色ではない。そして形。コウジの知る乳房の形ではない。コウジにとって女性の乳房というのはすべすべとしてやわらかく弾力があって、心の奥深いところ、身体と連結する何かをあまやかに刺激するものだった。目の前のものは同じ女性の乳房でありながら違う。膨れ上がり、腫れ上がった乳房は怒りに似た何かが内側から(みなぎ)っているように見えた。

 それだけではない。


――もしかして。


 乳房に赤黒く(あざ)が残っている。手形のように見えなくもない。山猫たちが力任せに握って痣をつけたのか。ここで部外者である自分が感情を表に出したところで仕方ない。コウジは再び怒りを抑え込んだ。

 亜美が乳腺炎になった時なんと言っていただろう。確か、おっぱいのつけねを持ちあげて圧してから乳首をやわらかくするように揉みほぐすんだったか。


「触ります。痛いと思います。どうしても駄目であればやめますので言ってください」


 女がおずおずと頷くのを確かめてからコウジは片乳に下から支えるように手をあてた。


――熱い。


 びくり、と女の肩が揺れる。痛みもさることながら、これだけ熱を持っていればあてられた手が冷たく感じられるかもしれない。女の表情が苦痛で歪むが、拒絶の言葉は出てこない。コウジは掌でゆっくりと乳房を押し上げた。角度を替えて乳房の付け根を何度か圧した。


――付け根と乳輪から先だけなんだけど、ものすごく楽になるの。

――痛いぐらい張るんだったらおっぱいマッサージ受けに行った方がいいと思う。


 姉たちが話すのを何度も聞いた。授乳期の乳房は見たことも触ったこともないがやるしかあるまい。コウジは覚悟を決めた。

 腫れあがった乳首の先に白い露がぽつりと載っている。ここは詰まっていない乳腺の出口なのだろう。腫れた乳輪を親指と人差し指で挟み、軽く押してみる。たたた、したたった母乳の滴が膿盆を叩く軽やかな音がする。


「痛くありませんか」


 女は困ったような顔をした。


「――平気です」


 痛いんだろうなあ。隣で橘がはらはらしている気配がする。しかし、黙って見守るようだ。コウジは角度を替えながら乳輪を指で挟み慎重に揉みほぐした。乳頭の、白い母乳が出てきたところとは別の部分に黄色っぽいものが出てきた。


「乳腺炎は母乳が詰まることで起きるんだそうです。この黄色っぽい粘りのある母乳がその詰まっていた部分だと思う」


 乳輪から乳頭にかけて何度も揉むとやがて、出てくる母乳が黄色っぽい粘りのあるものから白くさらさらした液体に変わった。勢いよくシャワーのように噴き出す。黒髪の女はほう、とため息をついた。


「ありがとうございます。ずいぶん、楽になりました」

「それはよかった。これが正しいやり方なのかどうか、ぼくには分からないんだけど、とにかく母乳をある程度外に出した方がいいのは確かです。ご自分でやってみますか?」


 もう片方の乳房でつけねを角度を変えながら圧す、というのを女自身の手でさせていると、隣りの橘が遠慮がちに声をかけてきた。


牛頭翁(ごずおう)馬頭(めず)の頭領を連れて戻られた。入室の許可を求めておいでだがよいか?」


 女が顔を上げ、うなずく。

 男が一人、診察房に入ってきた。


「すまない。遅くなった」


 現れた馬頭の頭領は美しい男だった。隆々とした細身の身体に馬の頭。月色と言えばいいのだろうか。メタリックで光沢ある毛色。細長い耳がぴん、と立っていてきりりとした印象なのにアーモンド形の目の光は知的でやわらかい。他の馬人間とは一線を画する美しさだ。顔が人間でないにもかかわらず、一目でとびきり上等ないい男だと分かる。美貌だけでなく雰囲気に正統派イケメンのにおいがぷんぷん漂っている。そして手術中だったのか、血が点々と飛ぶ緑色の上着を着たままで、少々ワイルドな感じがプラスされてイケメン度極限超えだ。馬頭の頭領はコウジにうなずきかけると「続けてくれ」と促した。

 乳房の付け根を圧し、乳輪から乳頭をほぐす。紫五家の若衆とコウジが作業を終えると馬頭の頭領は二人から話を聞き、


「わたしが診察しよう」


 と後を引き受けた。馬人間たちが数人やってきて診察房に出入りし始めた。

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