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そしてぼくは道を踏みはずす (一)  作者: まふおかもづる
第三章

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27/83

 立ち上がったはいいものの、コウジは目をさまよわせた。どうやって円楼の外側へ降りようか。いったん梯子で円楼群の内側、広場へ降りてゴメズ楼に入り中を突っ切るのが早いだろうか。考えあぐねていると、吹雪丸が三つあるうちいちばん近い鼻でそっとコウジの背中に触れた。般若フェイスの据わった目で何か訴えている。


「乗ってもいいの?」


 他人からすれば「末代まで祟る、絶対」と言わんばかりの表情なのだが、コウジにはそう見えなかったらしい。より姿勢を低くした吹雪丸の背中によじ登り、ふさふさの毛にコウジは四肢すべてで力いっぱいしがみついた。


「わふ」


 低く一声上げると吹雪丸は円楼の外側へ身を躍らせた。



 目をぎゅうっとつぶり全身に力を込めていたコウジの予想よりはるかにやわらかな振動とともに、吹雪丸は身軽く路地に降り立った。よたよたと吹雪丸の背中から降り、いきなり上から降ってきた三頭犬に驚く女のもとへ駆けつける。


「大丈夫ですか」

「なんでも、ありません」


 顔に絆創膏や、痛々しい腫れが見える。抜けるように白い肌に対して髪の色はコウジの生まれ育った日本でもめったに見ない漆黒、豊満な体つきに見覚えがある。宮前の広場で衆人環視の下、暴行を受けていた――紫五家の若衆、そう呼ばれていたはずだ。コウジからなんと呼びかけていいものか分からないし、あの日の現場にいあわせてしっかり見たぞ、と意思表示するのもはばかられる。改めて間近で見る紫五家の若衆は、呼び名の通り確かに若く、そして王とも先王とも、橘とも違う美しい女だった。目を泳がせて視線が合うのを避けるさまが、嫌悪を与えない。黒く長い睫毛がすべすべとした頬に影を落としふるえる、頼りなく儚い――放り捨てて去るに忍びないと思わせる独特の色があった。

 しかし、それにしても様子がおかしい。

 ふるふると全身を震わせる女は眉を寄せてコウジを見上げるが、視線がうつろで焦点が合っていない。目の前の女は出産したばかりでしかも怪我が治っていない様子で具合が悪そうだ。白い、むしろ青い額に汗の玉をびっしりと浮かべる苦しそうな女の手を握ってみる。


――熱い。ものすごく熱い。


 ふ、と何かが匂った。生ぐさいような、それでいて甘いような、以前嗅いだことがあるような。女の前の開いたコートの内側からそのにおいがする。コウジがじっと胸もとを見るのに気づき、女はコートを掴み、深く前を合わせた。


「な、なんでもないのです」

「ちょっと失礼」


 コウジは女のコートを左右に開いた。やっぱり。女の胸もとがぐっしょりと濡れている。


「み、見苦しくてすみません。布をあててもどうしても……」

「母乳が漏れるんですね」


 女が目を潤ませてうなずいた。


「熱が上がって辛くて、乳房が張って痛みがある。――違いますか」

「――いいえ、その、ええ、そう、なんです」 


 乳腺炎だ。コウジは思った。このところ五年間、三人の姉が交互にあるいは同時期に出産して子育てをしていた。三人とも近所に住んでいて、体調が悪ければ赤ちゃんと一緒に頻繁に里帰りするため、赤ん坊も妊婦もコウジにとってはごく身近でなじみのある存在だ。中でも育児休暇の短かった亜美が一度、乳腺炎になったことがある。亜美のようにひどくならずとも、多美と奈美にも似た症状が出たことがあり、さんざん苦労話を聞かされた。天然ボケめいたところのある奈美などは「見てよ、ほんとつらいんだから」べろんちょ、と服をめくり上げかけたこともある。見せるな、見せないでくれ、と懇願してやっと納めてもらったんだが見せてもらった方がよかったんだろうか。奈美をたしなめた多美が、


――授乳してる時期のおっぱいってね、まるで工場って感じ。

――かっちんこっちんになって、赤ちゃんに飲んでもらわないと痛くなるんだよね。


 と言っていたのをコウジは思い出した。


「お医者さんへ行きましょう」


 女は力なく首を振った。


「いいえ。今しがた、医師を訪ねたばかりで」

「とにかくもう一度、お医者さんにみせましょう」


 手をとって立たせようとすると、女の身体がぐらりと(かし)いだ。歩くのは難しそうだ、とコウジは女を横抱きにして立ちあがった。豊満に見えてずいぶん軽い。


「――マレビト」


 危うく腕の中の女を落としそうになるぐらいコウジは驚いた。ぎぎぎ、と振りかえると橘が小首をかしげている。ぐったりとして半ば意識を失いかけている女がコウジに身をすりよせた。コウジがお姫様だっこしている女へ視線を移した橘の顔から表情が消えた。


「――ああ、春祭りだから」

「違う。そうじゃない。違うってば」


 誤解だ。それよりも医者だ。


「た……違う、その、お医者さんはどこ?」

「医者? ――もしかしてその腕の中の、紫五家の?」

「そうなんだ。怪我よりも今は熱が高くて――原因は乳腺炎だと思う」

「こっちだ」


 橘は真剣な表情になり、身を翻した。橘と吹雪丸の先導にしたがってコウジは走った。腕の中の女をできるだけ揺らさないように。



 途中で合流した牛おっさんもともにナラク宮にある病院へ走った。ここナラクシティにおいては医療部と呼ばれるらしい。


「なんでこうなってんの……」


 コウジは絶句した。

 医療部の診察房は、コウジの知る病院とさして変わらない雰囲気だった。医療機器と思しき見慣れない機械や器具、薬品棚。調度も什器も白くて清潔。しかし目の前に机に栗毛の馬男がひとり、突っ伏し、周りに酒瓶が散乱している。先ほど駆け抜けてきた受け付けらしき入口近くのエリアにもこの診察房付近にも他に人の気配はない。


「おい、おい、起きてくれ」


 橘が栗毛の馬男をがくがく揺さぶるが要領を得ない。馬男は一度うっすらと目を開けて橘を見るとにへらにへらと顔を笑み崩し


「むふふ。黄輪党の美人ちゃん、いらっしゃーい」


 と目の前の女を抱き寄せようとしたが、当の橘から即座に締め落とされた。コウジは腕の中の黒髪の女をベッドにそっと降ろしながら、橘の体技の鮮やかさに肝を冷やした。ようやっと息の整った牛おっさんが橘をたしなめた。


「黄三家の、それじゃ役に立たない」

「起きても役に立ちそうにありません。けしからんヤツだ。――おい、マレビト」


 振り返った橘の表情が再び消えた。

 コウジはふるふると首を振る。悪くない。ぼく、悪くない。コウジとて黒髪の女を横にしようとしたのだ。しかし女がコウジにしがみついているのである。女の顔はコウジの腹辺りに押しつけられていて表情をうかがえないが、儚げな雰囲気のわりに両手指はすごい力でコウジのコートをぎっちぎちに鷲掴みにしている。


「まあいい。その、にゅ……なんとか炎だったか、マレビトのいたところではこういう病気がよくあるのか」

「病気、というか、うん、出産後しばらくの女の人によく見られる症状だと聞いてる」

「対処法は」

「まず乳房から母乳を出すこと。そして解熱」

「――先日宮前広場で初めて耳にしたがその、乳房から本当に乳が出るのか。馴鹿(じゅんろく)のように」


 しがみつく女の指の力が強くなった。コウジは漆黒の髪を(なだ)めるように軽く撫でた。


「そりゃ出るよ。何も驚くようなことじゃない。出産したら赤ちゃんにあげるための母乳が出るのは不思議でもなんでもない。ヒトは哺乳類に属する動物なんだから」

「す、すまん……、紫五家の」


 ゆるゆると首を振る黒髪の女がコウジに顔を押しつけたまますすり泣いた。


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