五
ああ、そうか。コウジはなんとなく困ったようすの牛おっさんの表情に気づいた。
「姉というのは同じ親のもとに生まれた女のきょうだいで、自分より年上の者を指します」
「そうか」
「はい。――二番目と三番目の姉はぼくと年齢が近いんですけど、一番上の姉は少し離れていて、だからかな」
母とは別の、もう一人の小さい母親のような感じだった。喧嘩の仲裁をするために声を荒らげたり、しつけのために目を三角にする母親と違い、長姉の亜美はただひたすらにコウジに甘く、泣いていれば慰め、ごねてぐずって見せても決して叱りつけず、幼い弟の舌足らずな語りに飽くことなく耳を傾けた。コウジはそんな亜美のやわらかい笑みが心底好きだった。
「長姉の亜美がお嫁に行って別の場所で家族を作って――当時ぼくはもう高校生、た――黄三家の彼女と同じような年頃で」
大人ではないが子どもでもなかったコウジにとって、結婚による亜美の不在がさびしくなかったと言えば嘘になる。しかしコウジは拗ねて亜美を困らせる自分の姿がたやすく想像できた。あまりにかっこわるいので我慢したのである。
「亜美の結婚相手である義兄も、その家族も亜美の言う通りいい人たちで――だったんですが」
牛おっさんとキ神、吹雪丸はじっとコウジの話に耳を傾けている。
「結婚後しばらくたって赤ちゃんに恵まれたのに流産で――夫婦仲や義理の家族との関係がしばらくぎくしゃくしてしまったんです」
「――原因は何か、とキ神が」
「分かりません。たまたま弱い胎児だったのだろうとしか」
義兄だけでなく、その両親にも望まれて結婚したはずなのに、同じ人々が掌を返すように亜美を責めた。離婚寸前の騒ぎになり、温厚な父親が珍しく怒りを露わにして亜美を連れ帰った。産休直前まで働く予定だった亜美はそのまま休職し、実家でぼんやりと過ごした。父親だけでなく家族全員が、特に次姉の多美が殴りこみそうな勢いで猛烈に怒るのに対し亜美はぼんやりと頼りなく微笑み、
――それだけ赤ちゃんを楽しみにしていらしたのよ。
ぽつりとつぶやくだけだった。泣きもわめきもせず、ただぼんやりと壁の一点を見つめて過ごす亜美はやつれて疲れきっているようにコウジには見えた。
「とても大切な姉なのに、ぼくは何もしてあげられなかった。それだけでなく、怖かったんです」
コウジにとっての亜美を構成する成分、やさしさであったり、やわらかさであったり、あたたかさであったりするものが日、一日、抜けおちてしまう。そして顔や形や声は同じなのに、別の何かが亜美の形をしてそこにいるような気持ちになった。そんなはずないのに。
あれはいつだったか。静かで月の明るい夜、ふと目を覚ましたコウジは水でも飲むか、と部屋から廊下へ静かに身を滑らせた。
廊下には明かりとりの窓から月の光が差し込んでいた。そしてそこに亜美が座り込んでいた。知らない女のようだった。窓から差し込むしんしんとして冷たい光を一身に浴びる女の虚ろな目から涙がだらだらとあふれ、頬を濡らす。少し離れたところで立ちすくむコウジに気づかないのか、女は瞬きもせずただ涙を流し、唇をわななかせた。そして低い声で、しかしはっきりと
――あいつら、いなくなればいいのに。
つぶやいた。
あんなに怖かったことはない。鳥肌が立つとか、身がすくむとか、そういう恐怖ではなかった。体ではない心のどこか大切なところをちぎられ毟り取られるような、そんな痛みに似た恐怖だ。
どのくらいそうしていたか、コウジはもう覚えていない。その後、亜美の手を引き台所へ連れて行ってホットココアを飲ませた。手を引かれるまま大人しくついてきて椅子に腰かけ、勧められるままココアを口にした亜美の顔がゆがんだ。
――苦い。すごく苦い。
コウジはココアに砂糖を入れ忘れていた。ごめんね、ごめんね、と慌てふためき繰り返し謝る弟に亜美は微笑んだ。泣き笑いだった。
「それでその、姉のように悲しんだり――」
人を憎んで苦しんだり。
「そんなことが完全になくなったりはしないんでしょうけど、なんというか、分かってるんです。その子どもが、特に赤ん坊がとても弱い存在だということは。頭では分かってるんです。でも」
明月の夜以来少しずつ、亜美は明るくなり、何食わぬ顔をして迎えに来た義兄に伴われ婚家へ戻って行った。紆余曲折はあったが数年後、二人の子どもに恵まれた。育児に追われ、仕事に追われ、義理の両親の愚痴を言い、多忙だけれどごく普通のワーキングマザーになった亜美のやさしいだけじゃないちょっとたくましいところもコウジは理解できるようになった。けれども
「あんなことはもうたくさんなんです」
不気味な何かに亜美が乗っ取られたような。いや、違う。
――あいつら、いなくなればいいのに。
コウジは知っていた。あの不気味な何かはもともと亜美の中に存在している。やさしくコウジの頭を撫でる亜美。甘えれば応えてくれて、母より父よりほかの姉たちより優しく笑顔の美しい亜美。そして虚ろな目をして呪詛の言葉を口にする亜美。すべて同じ亜美なのだ。コウジは分かっていて目を背けていた。
「その――姉にあたる方の悲しみを思い出すから子どもが死ぬのを見るのが嫌なのか」
キ神が知りたがっている、などと言い訳をくっつけず牛おっさんがやわらかく尋ねる。
「そうですね。最初は子どもとか関係なかった気がします。でも」
俯いたままコウジが言い淀むのを、牛おっさんと吹雪丸、キ神がじっと見守った。やがて顔を上げコウジはつぶやいた。
「いやなんです、子どもが死ぬのは」
とにかくいやなんです、と駄々っ子のように言い募るコウジの視界の端、円楼を囲む静かな路地に一人の女が現れた。よろよろとしたおぼつかない歩みだ。胸のあたりに手をあてずるずるとしゃがみこむ。呼吸一回、さらに一回。他の人間は現れない。誰も付き添いがいないようだ。
コウジは立ち上がった。




