三
いい天気だ。空は青く高く晴れ、さんさんと陽が照っている。時折そよそよと吹く風は冷たいが、重ねたシャツやセーターの上に毛皮のコートも着込んでいるのでさして寒くない。ゴメズ楼の屋上、透明なドームを囲う草屋根でコウジは仰向けに寝転がっている。隣りに吹雪丸がいる。「呪うぞ」と言わんばかりの迫力満点般若フェイスでくわあああ、と大あくびしている。
ナラク王国建国以来初の自然生殖、自然分娩により生まれた子どもが死んでしまったあの夜から三日経った。
宮前広場で遭遇した気持ち悪い幽霊のようなものはしばらくコウジにつきまとって
「あ……あ……」
何か言い募っていたが、いっそう声が小さくなりその言葉も聞き取ることもできなくなってしまった。鬱陶しいことこの上ないのでコウジが無視していると、やがて離れて行ったらしい。気配を感じない。到着した夜、さらにまる一日、与えられた部屋でただひたすらコウジは寝た。牛少年(ホルスタイン柄)が届けてくれた食事も断り、惰眠をむさぼった。一度だけ、部屋を出てトイレに行った時、雉虎の猫顔をした男と出会った。じろりとコウジを睨み雉虎の男はすれ違いざまにコウジを突き飛ばした。じっとりと湿った冷たい壁にたたきつけられたまま、コウジはぼんやりと天井の灯りを見つめた。ここは薄暗く湿って静かだ。
黒毛和牛短角種。いや、日本原産種に近いとかいう野生の口之島牛? なんだかステーキ食べたくなる。ガーリックをほのかに効かせてうっすら塩こしょう、中央がほのかにピンクという焼き加減でやわらかく仕上がったところを山葵醤油でいただきたい。じゅるり。
どんよりと寝台で横になっていたコウジがふと目覚めると、牛おっさんの黒に近い灰褐色の毛に覆われた顔が見えた。椅子に腰かけ、何かパネルのような、モバイルのようなものをいじっている。じっと見つめている気配に気づいたようだ。
「おう、目覚めたかマレビトどの」
牛おっさんは微笑んだ。
「まず、礼を言おう」
のっそりと身を起こし、ぼさぼさに乱れた髪を手ぐしで整えるコウジがいぶかしげな顔をすると、牛おっさんはゆったり丁寧に語りかけた。
「赤子の件だ。マレビトどのはよくやってくれた。医師によるともともと弱い状態で生まれていた子どもなのだそうだ。それでもああして見送られて子どもも嬉しかったろう」
そんな――そんなわけ、ない。コウジは言葉を失い、俯いた。涙がにじむ。
「やっと許可が下りたのでマレビトどのを迎えに来た」
コウジが今いる部屋は連盟から預かった囚人専用区画にあるらしい。他惑星の伝説であるマレビトが現れるわけがない、連盟から差し向けられたスパイだなどと強硬に反対する者が一定数いたため、コウジを客人扱いができなかったそうだ。
「別にかまわないですよ、ここでも」
今はがさがさした道も声のない何かに呼ばれ引っ張られる感覚もない。しかし、命に関わるような何かが起きる時にはそれが現れて膝かっくんで元の世界に戻るんだろう、口には出さないがコウジはそう思っている。だから別にこの部屋でかまわない。時々この部屋をうかがう胡乱な気配を感じることがある。早く襲いに来ればいいのに、コウジは半ば自棄になって考えていた。
「まあ、そう拗ねるな。実はキ神がな」
危険なところにコウジを置いたままにしてはいけないと珍しく強く主張しているのだと言う。それだけでない。吹雪丸も問題なのだという。
「王の三頭犬が、仕事そっちのけでこのゴメズ楼にやってきて扉を壊そうとするのだ。マレビトどのを探しているらしい。ゴメズの小僧どもがすっかり怯えてしまってな」
確かに子どもからすれば怖いかもしれない。強面般若フェイスが三つもついていてそれが唸りながら扉に蹴りを入れていたらそりゃ怯える。吹雪丸からすれば「ここにコウジがいる。出てきて遊べ、構え」と前足でちょいなちょいなしているだけのつもりなのだろうが、あの巨体、迫力フェイス三つ分では攻撃していると見なされても仕方ない。
「分かりました」
コウジは牛おっさんの提案を承諾することにした。キ神とかいうのはどうでもいいが、吹雪丸がコウジのせいで危険動物扱いされてはかなわない。
ナラクシティはわりとこじんまりとした都市だった。中央に重厚な洋館のような古い建物、ナラク宮がある。これは王族とそのパートナーである王配たちが住まう建物なのだそうだ。女性体が党と呼ばれる一族ごとに住まう円楼が五つ、そして牛頭と馬頭の男性体が住まうゴメズ楼、合わせて六つの円楼にナラク宮は囲まれている。ナラク宮と円楼群から少し離れたところに飛行船発着場と祭祀塔がある。
コウジが収容されていたのはゴメズ楼の地下深いエリアにある囚人収容区画だったようだ。到着した時の移動では吹雪丸が大騒ぎするわ、耳元で幽霊のような何かがわけ分からないことをぶつぶつつぶやくわ、でうろたえていて何かの建物に入ってさらにエレベーターのようなもので地下に降りている、ぐらいしか覚えていない。ゴメズ楼は男性体が暮らす建物のことだ。牛頭党と馬頭党が共に暮らす。そして一年前から連盟から預かった囚人たちも暮らしている。
牛おっさんに伴われて移動した先はナラク宮だった。
大学の図書館のような、明治時代に建てられた銀行のビルのような、重厚でいてレリーフが施された華やぎのある石造り建物だ。直方体で真ん中が開いた巨大な枡のような構造をしている。
「しばらく俺のところで暮らすのがいいだろう」
自分で何かを決められるわけではない。コウジは素直にうなずいた。牛おっさんはナラク宮の中にメゾネット形式のような階層構造のある一角を与えられているとかで、その一室を貸してくれることになった。
ナラク宮の中にも入れないのは同じなのだが、コウジが移動して後、吹雪丸は建物の扉にちょいなちょいなしなくなった。王の三頭犬である吹雪丸からするとコウジが自分のテリトリーに移ったように感じられるのかもしれない。
そうしてナラクシティに連れてこられて三日、上天気の昼下がり、コウジはゴメズ楼の屋上で吹雪丸とともに昼寝を決め込んでいる。
住まいはナラク宮に移ったが、かの建物の屋上は立ち入り禁止だ。それでなくてもこうして昼寝を決め込むのなら周囲六つの円楼群のほうが向いている。地上3階建ての建物全体にやわらかな草が生えているのだ。草に覆われ、ちょこちょこと花が咲く円筒形の建物は遠目に眺めるとなかなかに愛らしい。昼寝場所にゴメズ楼を選んだのは、他の建物だとなんだか女子更衣室や女湯に忍び込む気持ちになってしまうからだ。五輪党それぞれの円楼すべてがオープンになっているようだったが、何かとこの世界の常識から逸脱した言動を取ってしまいがちなのでコウジは遠慮することにしたのだ。実際、これが正解だったのだろう。誰も何も言ってこない。ゴメズ楼屋上で昼寝を決め込んでしばらくたって吹雪丸だけはコウジを探し当て、身軽に屋上へやってきた。ひとりだけ、というのも所在ないものだ。強面般若フェイスのわりにやさしい吹雪丸にコウジは甘えることにした。
「吹雪丸はパートナー探さなくていいの?」
ぴすぴす、と三つ頭のうち一つだけ使い吹雪丸は無精な相槌を打った。
まだ春の祭りとやらが続いているそうでシティに人は少ない。生き物の世話や病院の医師などごく限られた当番を除き、シティ周辺の森や草原などでキャンプを楽しむのが普通なのだそうだ。パートナーとともに。
「リア充祭りかよ」
「なんだそのりあじゅーとかいうのは」
牛おっさんが梯子を上ってきた。
「なんだ、おっさんか」
「おっさん……なんだかすごく嫌な響きだがまあいい、弁当だ」
牛おっさんは牛頭党のトップで壮年体も終わり近い年なので牛頭翁と呼ばれることもある。いちいち「嫌な響きだ」などと抵抗するが翁はよくておっさんはだめなのか。コウジにはそのあたりの機微が今ひとつ理解できない。
ふたりでもそもそと魚や葉野菜のサンドイッチをかじる。
「リア充って言うのは、リアルが充実している人、またはその様子を意味します」
「充実は分かるがりあるとはなんだ」
「んー、現実、この場合は現実の人間関係という意味かなあ」
サンドイッチの残りを飲みこんで、牛おっさんは首をかしげた。
「現実の人間関係が充実……。非現実の人間関係なるものがあるのか、マレビトどのの世界は」
そう言われてみるとなんだかすごく説明が難しい。人間関係における現実/非現実という辺りが特に。コウジはインターネットの説明を試みた。コウジは会社で法人営業の部署にいて、得意先にしろ、新規の顧客にしろ相手は企業だ。だいたいは予算を握る担当者の他に技術的な知識を持つ社内システムの担当者が居合わせるものだ。それでも場合によっては技術者のいない会社もある。「ネットってなに?」と根源的な説明を求められることもないとは言えないのだ。だからコウジは相手の理解を得るための説明手段をいくつか用意している。しかし電話や郵便を用いずにインターネットのコミュニケーションを説明するのは難しい。どうしたものか、と迷いながらぽつぽつ話したのだが、意外に話が通じた。
「ああ、それはこうして向かい合って話をする人間関係が当然という考え方だからそうなるのだな。我々ガイア由来人類は直に対面するのではなく、星間通信が主な交流手段だからそれを指して非現実とは考えない。他の惑星と長く離れて暮らしてきた我らナラクの民も、キ神の輪で通信するのが習慣になっていて離れた状態でやりとりするのは珍しくないな」
ああ、そうだった。コウジはため息をついた。ここ、自分からすればオーバーテクノロジー文明社会だったよ。
突然、コウジの隣で眠たげに寝そべっていた吹雪丸が身を起こし、三対の青い目をかっと開いてぴぴぴーんとふわふわの耳を立てた。
「あ……あ、あ、……」
ぞわわわわ。
コウジの肌が恐怖で泡立った。
「で、出た。出た!」
ひいいいい。コウジと吹雪丸はのけぞった。




