九
「ところで」
牛おっさんが天幕解体の手を止めた。おほん、と軽く咳払いした牛おっさんは
「王は美しかろう」
と言った。いきなり何を言い出すのか、このおっさんは。惚気か。コウジは鼻白んだ。
「はあ、ええ、お美しいです」
「――先王もお美しい」
伏せられた目の表情は見えない。しかし、眉間に寄った皺に苦しげな色がうかがえる。
――牛頭の先王配は若い頃、『醜い』と先王に疎まれたのだそうだ。
コウジは橘の言葉を思い出した。奥さんに嫌われたことが引っかかってるのかな。そりゃ引っかかるよな。二十七歳。三十代が間近に迫っていると言え、未婚のコウジには理解が遠く及ばない。
「気をつけることだ。先王のお美しさは――禍々しい」
禍々しい? およそ美しさとセットになりにくい形容だ。訊き返そうとしたコウジを阻むように牛おっさんは背を向けて片付けを再開した。
すっかり夜が更けた。星が空に満ちている。毛皮でもこもこになっているからさして気にならないが、鼻先をかする風がとても冷たい。スーツやかばん、粉ミルクなどコウジの荷物は牛おっさんがカートに載せてくれた。体よく没収されたとも言える。
「さあ、行こうか」
王がコウジを振り返った。
「用意は」
心の用意ならできていない。そう言いたかったがこの世界で口を滑らせてばかりのコウジに軽口をたたく気持ちの余裕などあるわけがない。コウジは注意深く身の周りを確かめた。大丈夫。今回はどういうわけか、道を踏みはずした時に必ず現れるはずのがさがさとした帰り道がない。身体が引っ張られ、声のない何かに呼ばれている感覚もない。しばらくなのか、永遠に、なのか。いずれにせよ、あの会社最寄駅前の雑踏にすぐには戻れないということなのだろう。
――肚を決めるか。
何をすればいいのか、分からない。でも、とにかく何かしなければならない。五年前、別れ際の柚子の顔をコウジは思い出した。小さな吹雪丸を腕に抱き微笑む柚子の大きな目に星明かりが宿っていた。
「はい。できています」
答えるコウジにうなずき返し、王は牛おっさんと橘に向き直った。
「急ぎ帰らねばならなくなったのは――キ神から緊急の知らせが来たからだ。赤子が亡くなったそうだ」
王は橘を見た。
「マレビトどのに軽く事情を説明してくれるか」
「かしこまりました、わがきみ」
軽く身をかがめる橘の顔は青ざめていた。
王と牛おっさん、橘とコウジの組み合わせで分乗した二台のカートを馴鹿に牽かせ、一行はナラクシティへ出発した。殿を務める吹雪丸が橘の操るカートの後ろを走る。森の中の白茶けた小道は、夜なのになんとなく明るい。だからだろうか、ライトなしで一行は進んでいる。ニット帽の上からコートのフードを被っているため寒さを感じないが、夜になると気温が下がるというのは本当だった。コウジが生まれ育った東京であれば冬に相当する寒さだ。
その寒さにも関わらず、コウジは赤面している。寒さよりも、ごとごとというカートの振動や音よりも、コウジには気になることがあった。
「何をもぞもぞしている」
いぶかしげな橘の声が耳のすぐそばで聞こえる。フードで隠れて真っ赤になった耳たぶは見えないに違いないが、それでもコウジはいたたまれない。
「いや、その」
言いづらい。いや、言えない。絶対言えない。言っちゃ駄目だ。
二頭の馴鹿が繋がれたカートは荷台と御者台に分かれている。コウジは天幕やら鍋やらの荷物と一緒に荷台に乗るのかと思っていたのだが違った。
「こちらへ。早く来い」
と急かされ乗ったのは御者台。馴鹿の手綱をいきなり初心者が握れるはずもない。狭い御者台の橘の両足の間にコウジは座らされた。
「えっと……ここに座るの?」
「少々手狭だが腰かけもあるし問題なかろう。――まさか不満か?」
めっそうもない。不満だなんて。コウジはいそいそと示された場所に座った。分厚い毛皮のズボンに隔てられているとはいえ、ずっと思っていた人そっくりの美少女の太ももに挟まれているんである。しかもカートの走行音に邪魔されず王に指示された説明をするためなのか、橘は背中にぴったりと身を寄せてくる。背中から脇にかけて太ももが。そしてうなじの少し下あたりにぴったりとくっついた確固として存在感を主張する重量と体積、それでいてもよもよとやわらかい何か。背格好も体形も柚子にそっくりだからきっと――巨乳。コウジは平常心を背後遠くの森の中に放り投げてしまいそうだった。
――コージ、コウジイ。コウジ。
耳元で声がする。背面を包むあたたかくやわらかなものに心奪われぼんやりとしていたコウジは柚子の声を聞いた気がした。幻だ。
「何をぼんやりしている」
前方へ視線を据えたまま、橘が耳元に顔を寄せてきた。
「こら、あまり離れるな。話ができない。ちゃんと座っていないと曲がり角で車から放り出されるぞ」
橘の表情は真剣だ。恥ずかしがっている場合ではない。コウジは身を縮めるようにして橘の両足におとなしくはさまれた。
「落ち着いたか」
「ごめん」
「さして遠くはない。このままシティまで走る。よいか」
「分かった」
手綱を握る橘は静かな声で語り始めた。じっと耳を傾けるコウジの周りから音が消えた。車輪が砂利を噛む音も、風の音も。
「十年前――。九百九十七世、先王の治世であったが」
あれも春祭りの頃――、とつぶやき、橘はじっと前方を睨んだ。
「私はまだ培養ポッドの外に出ていない頃だから話を聞いただけだが、――色々なことがいっぺんに起きたのだそうだ」
祭りが始まって数日、まず人類拡散連盟の宇宙船がやってきた。惑星ナラク軌道上で儀式が行われた。同じガイア由来人類であることを確認するためのものである。儀式そのものは滞りなく終了したのだと言う。連盟にも公式の報告が届いたらしい。
「ナラク国側から出席したのは九百九十六世、先々王にあたるお方だ。そして先王配だった馬頭の元頭領、そして本来現王配になられるはずだった牛頭の頭領が護衛と補佐を務めるべく随行した。お三方から無事に儀式が終了した旨、連絡があったという。そして儀式に使われたお道具などは先に戻ってきた」
それなのに、何かが起きた。引き続き人類拡散連盟への加入やら条約の批准やら、具体的な話し合いを続けるはずだったのに、会議の場となっていたクルーザーが突然爆発した。
「先々王と、馬頭と牛頭のお二人だけでない。連盟側の代表者も死亡した」
様々な憶測が飛び交ったが、今も事故の原因は不明だという。
惑星軌道上にとどまっていた交渉場所を惑星上、ナラクシティで、と双方混乱する中決まり、連盟の使者がやってきた。
「少々強引な使者たちだったとかで、先王は押し切られて不平等な条約を批准した。王配を亡くされて悲しみに目が曇ったのだろう」
橘は重いため息をつき、俯いた。




