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 コウジは末っ子だ。末っ子だが長男だ。彼は子どもの頃、父親に


「どうして次男みたいな名前にしたの?」


 と訊いてみたことがある。


「実は、男の子が生まれてくると思ってなかったんだ」


 父親はつくろうことなく申し訳なさそうな顔をした。ちなみにコウジには三人の姉がいる。名前は上から亜美、多美、奈美だ。


「女の子でも名付けには困っていたかもしれんなあ。カミ(神)かヤミ(闇)しか残ってないもんなあ」


 そんなことはない。ユミとかキミとかルミとか、レミとかクミだってありだし、一音目がア段でなければならないという縛りから離れられないのならばマミという選択肢もある。がっかりだ、自分の名前のことなんてどうでもよかったんだ、何にも考えちゃいなかったんだ、と息子が拗ねるのに父親は困った表情を隠しもしなかった。しかし父親は


「コウジが生まれてきたとき、父さんはとても嬉しかったんだ。なんだか味方ができたみたいで」


 愛しげにコウジの頭を撫で、


「母さんも、亜美も多美も奈美も。女の人ってそれぞれにみんなかわいいんだけど、とっても手がかかる」


 そして苦笑した。


「女の人って子どもを産むだろう?」

「産まない人もいるよ?」


 コウジの脳裏をよぎったのは、「まだ結婚しないのか」と祖父母をやきもきさせている叔母の姿だった。


「そうだね。そういう人生を選ぶ人もいるし、そうなってしまう場合もある。でも女の人は、本人の意志や希望と関係なく子どもを産む身体をしていて、たとえ子どもを産まなくても人生の長い時間をその準備にあてるんだ」


 父親の唇の横に刻まれた笑い皺が深くなった。


「子どもはいい。ほんとにいい。コウジみたいないい子を産んでくれた母さんも、そしてこれからいい子たちを産むお前の姉さんたちも、父さんはかわいくて仕方ない。女の人はね、ちょっとわがままだけど、それでいいんだよ」


――そんなんだから早死にしたんじゃないの?


 コウジはそっとため息をついた。ちなみに「おとうさん、死んじゃ嫌あああ」と泣き崩れる妻の懇願を受けた彼の辞世の言は、


「――ああ、どんなわがままも聞いてあげたい、そういう、気持ちはあるんだけどね、今回はちょっと……無理」


 というものだった。



 自分の名前の由来なんて、考えても詮無い。「生まれました、男の子です」という連絡を産院から受けた時に足にしがみつき甘える長女をなだめ、目を離せばいたずらばかりの次女の襟首をつかみ、頑是ない三女を背中に負った父親の視界にティーポットの保温カバー(cozy)なんぞが入り込んだとかそんな理由だろう。外れているとしてもさして遠くもないに違いない。



 なぜこんなことを思い出しているか。

 定時がとうの昔に過ぎ人のいなくなった薄暗いオフィスの一角、後輩女性社員と二人で話しているからである。二人で話している、それは厳密ではない。目の前の後輩社員が相槌を打つ隙もない弾丸スピードでしゃべりまくるのをただひたすら聞いている、というのが正しい。そしてそもそもなぜこうして話を聞いているかと言うと上司に命じられたからである。


――カノジョ、近頃遅刻や欠勤が多いじゃん?

――俺が聞くと泣かせたり怒らせたりしそうじゃん?

――でも何か問題を抱えているかもしれないじゃん?

――坂上くんならさ、ソフトに話聞けそうじゃん?


 じゃんじゃんじゃんじゃん、やかましいわ! コウジはイライラしたが、黙って話を聞いた。「じゃん?」で締めて文末を上げるのは、この上司が気さくなキャラを演じるときの癖である。さすがにこの手のアピールは若い社員に対してのみ行われるもので、さらに上の、課長や部長に対して「じゃん?」などとやらかしたりしない。だからこそたいして管理能力もないのに係長になれたのだとコウジは察した。そして係長の管理能力不足のツケはこうして部下にまわってくる。


――坂上くんも入社して五年だしさ、そろそろ……アレじゃん?

――アレはアレだよ、リーダー職。分かってる、く、せ、に!


 ムサいオヤジに脇腹をつつかれて、いかに相手が上司と言えどコウジは嫌な表情を抑えることができなかった。ふざけ過ぎたと思ったか、係長は表情を改めた。


――リーダーや管理職になるとね、こういうお仕事もしなきゃいけないから。

――カノジョも坂上くんになついているみたいだし、うまいこと話してね。


 最後まで「うまいこと」何を「話す」のか曖昧なままだったが、要するに部下に押し付けることによって問題社員の行動が改まれば上等、改まらなくとも当の部下にリーダー適性なしと査定しよう、とかなんとか、益体もないことを係長が考えているのは火を見るより明らかだ。


――そしてどう転んでもぼくは貧乏くじを引いてしまう、と。


 そういうやり取りがあってこうして問題の後輩社員と対面している。彼女に気づかれないよう、コウジは慎重にため息をついた。


 目の前の女を


「遅刻と欠勤が多いよ。ちゃんと出勤しようか」


 とそのものずばりの一言で冷やかに斬り捨てたのが三時間前。夕方になっても撚れもせず濃厚に肌をカバーしている化粧の下の肌が目に見えて紅潮した。女が俯くのを見て、コウジは先制攻撃が功を奏したと確信した。二言三言、注意してやればおしまい、あとは問題行動が改まろうと改まらなかろうと知ったことではない。


「まずは朝早く起き……」


 言いかけた時、女が顔を上げた。先ほど紅潮したはずなのに青く血の気が失せ、目が吊り上がっている。対面しているのに、視線が合わない。


「坂上さんも、私が悪いと思っているんですか……?」


 当然、そう思っている。遅刻しているのも欠勤しているのも女自身なのだ。他の誰が悪いわけでもない。だが、それを正直に口に出すとヤバいんじゃなかろうか。目の前の女の様子がおかしい。助けを求め周囲を見まわすと、好奇心丸出しで様子をうかがっていた同僚たちが一斉に目をそらした。そしてそそくさと無言で帰り支度を始めた。係長などは派遣スタッフのタイムシートも確認せず上着を掴んで逃げ出している。

 そりゃないよ。様子のおかしい女と二人でぽつん、と取り残されたコウジは頭を抱えたくなった。

 幸い、だらだらと向かいの女の話を聞かされていることを除けば事態はそう悪くなっていない。剣呑な表情のわりに目の前の女の口から出てくるのは同期や課内の女性社員に対する悪口ばかりだ。服が派手だの化粧が似合わないだの、と陰口をたたかれるのだという。そういう内容の話を主語を変え、リフレインを重ねに重ねて三時間、コウジは延々と聞かされている。


――こういうときに、別の世界につるっと行けるといいのに。


 服がどうの化粧がどうの、女性社員同士の関係がいいの悪いの、そんなのは今のコウジにとってどうでもいいことだ。だからそう夢想する。


――むしろこの女がしゅぱっと異世界に行ってくれるといいのに。


 据わった目つきでしゃべり続ける女の輪郭ははっきりしている。これ以上ないくらいはっきりして確かだ。


――だからこの人は異世界に飛んで行ったりしない。分かってるけどね。


 つい苦笑したコウジに対し、目の前の女も表情を和らげた。


「坂上さんって穏やかで人あたりがよくって忍耐強くて、大人っぽいですね」

「そんなことないよ」


 やっと一言返せた。これで話を終わりに持ち込んで、と口を開きかけたその時、女の丹念に整えられた眉がぎゅっと真ん中に寄った。


「柳田センパイとか、すぐ怒るんです、私が若いからって年齢はどうしようもないのに、それで」


 また始まった。さっきよりターボかかってる。口をはさめない。

 コウジはため息をついた。


 大人っぽい、か。二十七歳といえば誰がどう見ても十分に大人だけどな。目の前の女は新入社員だ。まだ学生気分が抜けていない彼女なりに褒めたつもりなんだろう。穏やかで人あたりがよく忍耐強い、というのは目の前の女だけでなく、同僚社員や上司、友人たちのコウジに対する評価でもある。

 周囲の高評価に反して、実際のコウジはそんな人間ではない。子どもの頃からおっちょこちょいであわてんぼう、短気で落ち着きがなく、考えが浅くて流されやすい。

 落ち着きがないから事故に遭いやすく、考えが浅いから騙されやすく、短気だから喧嘩っ早い。それなのになぜ、人あたりがよいなどと高評価を得られるのか。


 それは、コウジが道を踏みはずすからだ。

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